U. 京谷さんのこと放っておけません


 京谷が目を覚ますと、部屋の中は真っ暗になっていた。目覚めると同時に背中に熱いものが触れているのを感じ、そちらに目を向けると金田一が規則正しい寝息を立てていた。
 記憶を辿ってみても、みっともなく泣きじゃくって金田一に抱きしめられたところまでしか思い出せない。ひょっとしてそのまま泣き疲れて眠ってしまったんだろうか。そして金田一にこのベッドまで運んでもらったんだろうか。
 なんとなく極まりが悪い。金田一の前ではいつだって頼れる先輩でいたかったから、甘えてしまったのが恥ずかしい。でも昨日は本当に、自分のプライドを保てなくなるくらい精神が弱っていた。今だってまだ、あの心に穴が開いたような感覚が残っている。
 もう、この世界のどこにも詩織はいない。あの可愛らしい笑顔を見ることも、強気な声を聞くことも、もうできなくなってしまった。それを改めて痛感させられ、寂しさが身体の奥底から込み上げてくる。気持ちを紛らわせようと、京谷は咄嗟に金田一の頭を抱きしめた。すると不思議なほど気持ちが落ち着いてきて、身体の外に溢れ出しそうだった寂しさや悲しみがスーッと引いていく。
 京谷に抱きしめられても、金田一が目を覚ます気配はなかった。短い髪の毛を梳くようにして撫でる。撫でた髪から、京谷が愛用しているシャンプーの香りがした。どうやら寝る前にここの風呂を使ったようだ。

(そういえば昔、こいつに告白されたことがあったな……)

 懐かしい思い出がふと頭の中に蘇る。確かあれは京谷が高校三年生で、春高が終わった直後のことだった。

『俺はあなたが好きです。カッコよくて、バレーが上手くて、優しくて照れ屋なあなたが大好きです』

 金田一が口にした言葉のすべてを、五年の時が過ぎた今でも京谷ははっきりと覚えている。
 最初はとにかく驚いた。金田一が自分を慕ってくれているのはわかっていたけど、まさかそこに恋愛感情があるだなんて思いもしなかった。驚いたけど、不快に思う気持ちは一切なかった。むしろこんなぶっきらぼうな自分でも好きと言ってくれる人がいるのは嬉しかったほどだ。
 けれど嬉しくても、彼の気持ちに答えてあげることはできなかった。あのときの京谷は詩織のことが好きだったからだ。それ以外の人間と恋愛をすることなど、まったくと言っていいほど考えられなかった。

(じゃあ、もしあんとき詩織のこと好きじゃなかったら、俺はどうしてたんだ……?)

 誰のことも好きじゃなかったら、金田一の告白を受け入れただろうか? 考えてみてもわからない。そもそも男同士で付き合うということがどういうことなのか、想像もつかなかった。ただ、こうして同じベッドで身を寄せ合い、彼のことを抱きしめてやることには何の抵抗もない。これが高校のバレー部の誼で今も付き合いのある矢巾や渡相手なら、同じようにはできないと断言できる。
 その違いが何なのかわからない。単に付き合いの密度の差なのか、それとも何か別の理由なのか……。

(今となっちゃ、どっちでも関係ねえけど)

 腕の中で気持ちよさそうに眠る金田一の中に、五年前の恋慕の想いはもうないだろう。今の金田一には恋人がいて、幸せそうにしている。だから京谷が彼のことをどう想っていたとしても、今更遅い結論だ。

(つーかこいつ、彼氏いんのに他の男と同じベッドで寝たりしていいのかよ……)

 寝ていたからはっきりとしたことは言えないが、このベッドには京谷が誘い込んだわけじゃなくて、おそらく金田一が自ら入って来た。彼氏持ちがそんな尻軽なことをしていいのかと突っ込んでやりたいが、けれどお互い下心がないのなら、それはただの雑魚寝ではないかと一人納得する。それに今はこの温もりを離したくなかった。離してしまうとまた寂しさがぶり返してくる気がして、京谷はカーテンの外が明るくなるまで金田一のことを抱きしめていた。



 通夜のときも、そして葬儀のときも、金田一は詩織の親族に引けを取らないほど泣いていた。京谷も何度も泣きたくなったが、金田一の前でこれ以上情けないところを見せたくなかったし、何より自分が泣いてもきっと死んだ詩織は喜ばないと思って、なんとか堪えた。
 葬儀が終わると二人で京谷の部屋に戻って、帰りに買ったスーパーの弁当を食べた。何も喉を通らなかった一昨日の状態に比べれば、気持ちもずいぶんと落ち着いた気がする。もちろん詩織がいない寂しさはまだ京谷の中に残っているし、そう簡単に消えはしないとわかっている。けれど少なくとも金田一と一緒にいる間は、その寂しさに溺れてしまうことはなかった。

「今日は自分ちに帰るのか?」

 はい、と金田一は頷く。

「さすがに三日も練習休むわけにはいかないっすからね」

 金田一は高校卒業後、実業団チームに引っ張られてバレー選手となった。県内のチームで普段の練習場所や金田一の住むアパートもここから決して遠くはない。だから逆に京谷が金田一のアパートに行った――むしろ詩織と二人で引っ越し作業の手伝いをさせられた――こともあるし、練習を見学しに行ったこともある。

「京谷さんだって明日は仕事出るんでしょ?」
「まあな……」

 正直に言えばまだ仕事に出る気分ではないが、それでも生きていく以上は働かなければならない。それにひょっとしたら、仕事に集中している間は悲しみを忘れられるかもしれない。家に一人でいるよりはずっとましかもしれないと、京谷は明日からきちんと仕事に出ることを決めていた。

「無理はしないでください」

 心配そうにそう言った金田一に、京谷は大丈夫だと頷いた。

「お前のほうこそ、ぼうっとすんじゃねえぞ。運転も気をつけろ」
「はい」

 金田一は夕方になろうかという頃に帰って行った。
 京谷は溜まっていた洗濯物を洗濯してから、なんとなく部屋全体に掃除機をかけた。トイレも風呂もいつも以上に綺麗に掃除して、それが終わった頃には窓の外はすっかり暗くなっていた。
 先に風呂に入り、それから近くの定食屋で夕食を済ませる。その帰りに甘いものが食べたくなって、コンビニに寄ってアイスを買った。まだ春が来るには少し早い時期で、アイスは合わなかったかと買ったあとに気づいたが、暖房の効いた温かい部屋の中ではちょうどよかった。それに味は夏でも冬でも変わらない。
 テレビを観ながら、いつもの日常に戻ったような気がした。こうやって少しずつ、詩織がいない世界で生きていくことも平気になっていくんだろうか? それでいいと思う半面で、平気になっていくことがなんだか寂しいことのような気もしてくる。
 二十一時を過ぎるとテレビ番組もおもしろいものがなくなってきて、京谷は漫画を読もうと本棚の前に立つ。本棚は実家の自分の部屋で使っていたのをそのまま持ってきたもので、上段と下段の間には引出しがついている。京谷はそれをなんとはなしに開けた。
 中に入っていたのは、高校時代の部活の写真だった。練習中や試合中に当時のマネージャーが撮ったものだ。部員全員や三年生全員で写っているものもあれば、京谷一人だけで写っているものもある。やはり同じ学年の矢巾や渡と写っているものが多かったが、金田一とのツーショット写真も引けを取らないくらい多い。二人でハイタッチを交わしたり、休憩中に談笑したりしている写真なんかもある。
 思えば金田一と親しくなったきっかけは、自分が実家の近くの河原でリンチされていたことだった。金田一はリンチされている京谷を助けようと駆けつけてくれたが、上手くいかずに彼まで暴行を受けるはめになった。京谷はそんな彼を守ろうと咄嗟に身体を張って庇った。しかし、最終的には身体の大きな金田一に守られるような形になり、二人そろって病院に運ばれることになったのだった。
 懐かしい思い出だ。県体で優勝したことや、春高の準決勝まで勝ち進めたことよりも強く記憶に焼き付いている。それから病院で金田一と少し話して、次の日からは今までの必要最低限の会話しかしなかった関係が嘘のように、あちらからすり寄ってくるようになった。そして京谷もまた彼に心を許していた。
 あれから五年経った今も親しくしているのは、金田一のことが可愛いからだ。変な意味じゃなくて、普通に人として彼に好感を持っている。
 すべての写真を見終わった京谷は、それを再び棚の中に戻す。そのとき、写真の束が何かに引っかかった。どうやら奥に何かあるらしい。それを取ろうと、手探りで棚の中を調べる。
 柔らかい、布のような感触の何かが手に触れた。それを引っ張り出し、目にした途端に京谷は心臓が止まるような思いがした。

「あっ……」

 それは御守りだった。赤い布地に“勝守”の文字と兜が刺繍されたシンプルなものだ。

『必勝の御守り。ほら、二人ともあと一カ月で春高でしょう? 私現地には行けそうにないから、せめて御守りだけでもって思ってそれ買ってきたの』

 あのときの詩織の声と言葉が頭の中に蘇る。
 そう、これは詩織がくれたものだった。京谷と金田一に一個ずつ渡された大事なもの。

『ちょっと遠出して、ちゃんと御利益があるって噂の神社まで行ってきたから、きっと役に立ってくれると思うんだ』

 昨日のことのように思い出せるあのシーン。詩織はまだ元気で、病気とは無縁そうに笑ったり、憎まれ口を叩いたりしていた。
 身体の奥底に沈んでいた悲しみが、じわじわと這い上がってくるのを感じた。抑え込もうと痛いくらいに自分の手を握りしめたけれど、大した効果もなく涙がポロッと零れてしまう。
 胸が痛い。息が苦しい。忘れかけていたその感覚が、まるで何かの罰のように再び京谷に襲いかかる。
 逢いたいのに逢えない。話したいのに話せない。触れたいのに触れられない。人が死ぬというのはそういうことだ。どんな希望も想いも、現実になることなく永遠に閉ざされてしまう。
 死にたい。今までの人生の中で感じたことのないその感覚に捕らわれ、京谷は自分で驚いた。思っていた以上に自分は弱っている。こんなんじゃ駄目だ。駄目だと思うのに、涙はボロボロと止めどなく零れ落ち、心はあっという間に寂しさに覆われる。
 気づけばスマートフォンを手に取っていた。電話帳から彼のプロフィールを呼び出し、電話をかける。

『もしもし?』

 金田一はすぐに出た。けれどかけたはいいが何を言えばいいのかわからず、素直に寂しいということもできず、京谷は黙ってしまう。

『どうかしたっすか? あ、もしかして俺何か忘れ物でもしました?』

 声を聞いただけなのに、どこかホッとするような気持ちになった。年下の男に安心感を求めるなんてみっともない。けれど今は何かに縋っていなければ、本当に自分が消えてなくなるような気がした。

「いや……そうじゃねえ。なんでもねえよ」
『なんでもないってことはないっすよね? 京谷さんから電話かけてくることなんて滅多にないし。それになんか鼻声っぽいっすよ。もしかして泣いてました?』
「泣いてねえよっ。ホントになんでもねえから。もう寝ろ」
『俺、今からそっちに行きます』

 思わぬ台詞に、京谷は「はあ!?」と叫ぶような勢いで聞き返していた。

「お前何言ってんだよ! 明日練習あるんだろ?」
『朝ちょっと早めに出れば間に合うっすよ。京谷さんちそんなに遠いわけじゃないし、全然苦じゃないんで』
「い、いい。マジで来なくていいから……」
『いえ、行きます。京谷さんのこと放っておけません。それに……俺も、一人はやっぱり寂しいっす』

 本当に寂しそうな声で、金田一はそう言った。

『さっきも風呂の中でちょっと泣いちゃって……。この感じだと眠れそうにないから、京谷さんちに行かせてください』
「……わかった。じゃあ来いよ」



続く




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