Y. 金田一を俺にください


 干からびるような暑さが続いた夏が終わろうとしている。肌で感じられるようになった秋の気配に、京谷はどこかホッとするような気持ちになった。暑いのは嫌いだ。だからずっと秋が来るのを心待ちにしていた。
 仕事が終わって自分の自転車に乗りかけたとき、短パンのポケットに入れたスマホがメッセージの受信を知らせた。ひょっとして……と、期待を込めながら画面をタップしたが、残念ながら送り主は高校時代のバレー部の同級生で、京谷が望んでいた相手ではなかった。
 はあ、と溜息をつきながらスマホをしまう。あれから――強姦まがいのことをしてしまってから、金田一とは一度も会っていないし、電話やLINEのやりとりもしていない。翌日に謝罪のメッセージを送ったものの、それに対する返事はなく、すでに三ヵ月以上が経過している。
 もしかしたら今度こそ本当に、彼とは縁が切れてしまうのかもしれない。それだけのことをしたと自覚はしている。そうなったらとてつもなく寂しくはあるけれど、逆にそれでいいのかもしれないと、諦めようとしている部分もあった。だってこのまま会わずにいたら、今度こそ金田一のことを好きじゃなくなるかもしれない。彼に会わない間に他に好きな人を見つけられて、そいつと幸せになれるのかもしれない。
 今はまだ何も始まっていないけれど、きっとそういうやつが現れるはずだ。職場や町内会のバレーチームだけじゃなくて、もっと交友範囲を広げれば、案外簡単に新たな出会いを見つけられるかもしれない。でも知らない人たちの中に飛び込んでいくのは、大人になった今も少し苦手だ。
 そんなことを考えながら自転車を漕いでいると、土手に差しかかったところで見覚えのある後姿を見つけた。一瞬声をかけるかどうか迷ったけれど、無視するのも悪い気がして、歩いている彼の少し後ろで自転車を下りた。

「澤村さん」

 名前を呼ぶと、男らしく精悍な顔立ちがこちらを振り返り、少し驚いたような表情を浮かべた。

「京谷くん! 久しぶりだな! こんなところで会うなんて思わなかったよ」
「俺もっす。澤村さんの職場ってこの辺でしたっけ?」
「いや、違うよ。今日はこっちで講習があったんだ。終わって今駅に向かってたとこ。京谷くんも仕事帰り?」
「うっす」

 澤村の隣を並んで歩く。思えば金田一の試合を観戦するとき以外で二人きりで会うのは、これが初めてかもしれない。

「にしても本当に久しぶりだな。最近試合会場で会うこともなかったし。仕事が忙しいのか?」
「……そんなとこっす」

 本当は金田一と顔を合わせるのが気まずいのと、彼が京谷を避けているのが原因だ。けれどそんなことを話せるわけもなく、仕事を理由にした。

「金田一は元気なんすか?」
「元気だよ。忙しそうではあるけどね。夏の間なんかほとんど会えなかったし」
「グラチャン終わったのに、まだ忙しいんすか?」

 金田一は今年度の日本代表に内定し、バレーボールの国際四大大会の一つ、グランドチャンピオンズカップにも出場していた。毎試合スターティングメンバーという訳にはいかなかったが、コートに立ったときは実力をしっかりと発揮できているようだったし、改めて名前が広まる機会にもなっただろう。

「小さな大会がちらほらあるみたいで、そっちの選手に選ばれてるみたいだよ。連絡来てない?」
「最近その暇もなかったんで……」

 以前は金田一のほうからそういう報せをしてくれていたけど、今はもうそれもなくなってしまった。自分と違って金田一としっかり繋がりを持っている澤村が、内心羨ましくて妬ましい。けれどこういう状況をつくったのは他でもない、京谷自身だ。そんな京谷が、金田一のことをちゃんと大事にしている澤村を妬むなんて間違っている。それをわかっているのに、苛々が心の底から湧き出てくるのを止められない。

「ひょっとして勇太郎と喧嘩でもした?」

 いきなり図星を突かれ、京谷は気まずさに思わずそっぽを向いた。すると澤村が笑う。

「勇太郎のほうも、最近京谷くんのこと話さなくなったからさ。最近会ったか訊いたら、すごく気まずそうな顔してたし」

 二人ともわかりやすいな〜、と更に笑う。

「喧嘩の原因は訊かないけどさ、できたらまた仲良くしてあげて。勇太郎、京谷くんのことすごく慕ってるから」
「俺にはそうしたいって意思があるけど、あいつは違うと思うっす。全部俺が悪くて、簡単に赦されるようなことじゃねえから」
「それはもっと時間を置いても、どうにもならないことなのか?」
「……俺にはわかんねえっす」

 コンタクトを取れない以上、金田一がどうしたいのかなんてわからない。コンタクトが取れたとしても、それを本人に訊けるような勇気も京谷にはなかった。言葉ではっきりと否定されてしまったら、きっと自分は再起不能になるくらい打ちのめされる。そんな予感が京谷の中にあった。

「俺に何かできることはない?」

 二人の間に起こった出来事を知らない澤村は、そう言って優しくて手を差し伸べてくれる。けれど彼を頼ることなどできるはずもない。正直に話してしまえば、彼もまた京谷の敵になってしまうのが目に見えている。

「放っておいてください。俺と金田一の問題っす」
「そう? じゃあ俺は見守るだけにしとくよ」

 澤村はそれ以上詮索する気はないようだった。でもたぶん、内心では京谷たちの間に何があったか気になっているだろう。それでも踏み込んでこないところを、優しい人だなと思った。だから金田一のことで彼にどれだけ嫉妬したとしても、きっと彼のことを嫌いにはなれない。

「澤村さんは、あいつのどういうところが好きなんすか?」

 会話が途切れた合間に、京谷は何気なくその質問を投げかけた。

「急にどうしたんだよ?」
「いや、なんとなく……」
「なんとなくでそんなこと訊かないだろう。まあ、いいけど」

 そう言ってから、澤村は少し考え込むように視線を川のほうにやる。

「なんだかんだで最初は顔から入ったかな。俺、ああいう男らしい顔好きなんだよ」

 確かに金田一の顔は、可愛いというよりは男らしいと形容したほうが正しいだろう。

「それから何回か会っているうちに、あいつの素直で優しいところを好きだなって思うようになって、俺から告白したんだ。……って、これ勇太郎から聞いたことあるかな?」
「いや……そこまでは聞いたことなかったっす」
「そうなんだ。まあ、そういう感じで付き合うようになったんだよ。素直で優しいところは今も変わらないし、他にもいろんなとこ――いいところも悪いところもいろいろ知ったけど、やっぱりすごく好きだなって思うよ」

 口調や穏やかな表情から、澤村がどれだけ金田一のことを大事に想っているかがひしひしと伝わってくる。
 素直で優しい性格も、他のいろんな部分も、京谷だって知っている。でも大事に想う気持ちは澤村に及んでいないのだと、澤村の声を聞いて思い知らされた。もし金田一のことを本当に大事に想っていたなら、あんな強姦まがいなことはできなかったはずだ。好きだと想う気持ちばかりが先走って、金田一のことを何一つ考えてなかったんだと今更ながら気づかされる。
 きっと金田一にとっての一番の幸せは、この人といることなんだ。自分じゃ彼をそれなりに幸せにできたとしても、一番の幸せを与えてやることはできない。だって澤村には何も勝てない。優しさも、温かさも、金田一を守ってやれる力も、きっとすべてが足元にも及ばないだろう。
 それでも欲しいと貪欲に求める気持ちは静まることを知らなかった。このままずっと金田一の隣には澤村がいて、自分はそれを見ていることしかできない。その現実を受け入れることができそうになかった。たとえそこに金田一にとっての一番の幸せがあったとしても、壊してしまいたいと思う気持ちを消し去ることなんかできない。

「澤村さん」

 歩みを止めて、澤村を呼ぶ。彼がこちらを振り向いたのを見てから、京谷は躊躇いもなく地面に膝を突いた。そして同じように、両手も突いて頭を垂れる。

「な、何してるんだよ!?」
「金田一を俺にください」

 何言ってるんだよ、と訊いてきた澤村の声は驚きと戸惑いを滲ませていた。まあ、こんなことを突然言われて動揺しないやつなんていないだろう。

「あいつのこと好きなんです。ちゃんと幸せにするから、俺にください」

 澤村は何も言わなかった。たぶんきっと、最初の戸惑いは怒りに変わり始めているだろう。何を勝手なことを言ってるんだと、次は責められるかもしれない。そんなことは最初からわかっている。責められて当たり前だと思うし、澤村にはその権利が十分にあった。けれど、どれだけ待っても予想していた罵詈雑言は降ってこない。

「京谷くん」

 代わりに耳に届いた声は、いつもの優しい澤村と変わらないものだった。同時に両脇を抱えられるようにして立ち上がらせられる。顔を上げると、怒ってはいないが真剣な表情をした澤村と目が合った。

「悪いけど、勇太郎を君に譲るなんてできないよ。君じゃなくても、誰にだって譲れない」

 否定の言葉がはっきりと返ってくる。……わかりきっていた答えだった。

「俺だって勇太郎のこと好きなんだ。軽い気持ちで付き合い始めたわけじゃない。叶うなら一生一緒にいるつもりでいるし、君以上にあいつを大事にできるって自信がある」

 確かに金田一を大事にできるのは澤村のほうだ。すでに彼を傷つけてしまった自分が、何を言ったところで自分すら納得させることができない。

「ひょっとして、そのことはもう勇太郎に言ったのか? だから今気まずい状態にあるってこと?」
「いや……それはまた別の問題で、ただ俺が馬鹿だっただけっす……」
「自分の気持ちを伝えようとは思わないの?」
「言ったところで、あいつの答えもわかりきってる……。あいつは絶対に澤村さんを選ぶ」
「……それはどうだろうな」

 澤村は声のトーンを暗くした。

「あいつにとってたぶん京谷くんは特別なんだよ。ただの友達でも、先輩でもない。こっちが妬いちゃうくらいに深い何かがあるって、二人を見ながらいつも思ったよ。それに勇太郎は高校の頃に京谷くんを好きで、告白もしたんだろう? そのときの気持ちがまったく残ってないとは言えないと思う」

 気持ちが残っている……そんなことがあり得るのだろうか? 少なくとも京谷の目には、金田一は澤村に一途なようにしか見えない。

「自分に自信がないわけじゃないよ。あいつを楽しませたり、幸せにしてやれるよう努力してるって自負がある。それでもあいつが京谷くんを選ぶって言うなら……俺は引くしかない。もちろん何度だって引き止めるけどね」

 会話が途切れたところで、夕刻を報せる音楽が鳴る。それが止んだところで京谷はもう一度口を開いた。

「どうして怒らないんすか? 何勝手なこと言ってんだよって、馬鹿なこと言ってんじゃねえよって罵らないんすかっ? 俺の言ってることってすげえ最低なのに……」
「泣いてるやつを罵れるほど俺は鬼じゃないみたいだ」

 そう言われて初めて、京谷は自分が泣いてることに気がついた。自覚した途端に瞼がひりひりしてくる。泣く権利なんて自分にはないはずなのに、何を甘ったれているんだろう。そう思っても、溢れ出るそれを簡単に止めることはできなかった。

「それに……俺はやっぱり京谷くんのことが好きなんだ。恋愛的な意味じゃなくて、人として好きだよ。見た目と違って優しくて、不器用だけど勇太郎や俺のこといつも気遣ってくれる。そういうとこ、すごく好きだな」

 澤村がチノパンのポケットからハンカチを取り出し、京谷の目元や頬を拭ってくれる。その優しさに、余計に涙が溢れた。優しくされていいはずないのに、拒否することもできなくてされるがままになってしまう。
 たぶん、京谷が金田一に気持ちを否定される日は、遠からず訪れるだろう。でももしそうなっても、やっぱり澤村のことは嫌いになれない。澤村が京谷に言ってくれたように、京谷もまた彼のことが人として好きだった。



続く




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