01. 猛獣のような草食動物


 澤村の周りにはいつも人が集まる。別に人に囲まれるのは嫌いではないが、時々喧騒から離れて、一人で考え事をしたいと思うこともあった。
 学校で一人になれる場所はなかなかない。トイレに立てこもるのは他の人間の迷惑になるし、長居したいと思うほど清潔でもない。図書室には意外と人がいるし、保健室も上級生たちに占領されていた。
 では、実習棟はどうだろうか。入学してからまだ一カ月しか経っていない澤村には、実習棟は未知の領域だ。そもそも勝手に入っていいのかどうかもわからないが、他に当てがなかったため、とりあえず行くだけ行ってみることにした。
 棟の出入り口は閉鎖されていなかった。だが、中の教室はどこも鍵がかかっていて入れない。廊下で過ごすのも落ち着かなさそうだし、どこか一つでも開いていないだろうかと、一階から三階までの教室を一つ一つ確かめていく。

(くっそ、どこも開いてない……)

 調べる教室はもう残り少ない。この分だと全滅だろうと諦めかけたとき、手をかけた引違ドアが軽く開いた。どうやらここは鍵がかかっていないらしい。ラッキーだと思いながら、さっそく中に入ってみる。
 そこは実習に使う教室ではなく、どうやらただの物置らしかった。体育で使うようなマットに跳び箱、オルガンなんかも隅のほうに置いてある。どれも年季が入っているように見えるが、不思議と埃は被っていなかった。誰かが掃除でもしているのだろうか。

「うわっ!?」

 とりあえず締め切ったカーテンを開けようと窓のほうに近寄ろうとしたとき、そこで初めて人がいることに気がついた。マットの上に誰かが横になっている。大きな図体だ。上級生だったら気まずいなと思って立ち去ろうとしたが、よく見るとそれは見覚えのある顔だった。

(確か……牛島だっけ?)

 教室で毎日見かける顔だ。話したことはないが、背が高いしいつも恐い顔をしているので、澤村の印象には残っていた。しかもヤクザの子分だとか、一人で他校の不良を叩きのめしただとか、そんな噂をされている人間を忘れはずがない。
 あまり関わらないほうがいいだろうかと、澤村は早々に退散することを決めた。だが、出かけたところで巨体がのっそりと起き上がる気配がした。振り返ると、鋭い目つきと視線がぶつかり合う。今更無視するわけにもいかないだろうと、関わりを持たずにいることはすぐに諦めた。

「悪い、牛島。起こしちまったよな。すぐ出るから」

 牛島は緩慢な動きで首を傾げた。

「別に、ここは俺だけの場所というわけじゃない。いたければ好きなだけいればいい。ただあんまりうるさくはしないでくれ」
「あ、ああ……」

 彼の声を聞くのは、入学したばかりの頃の、初めての自己紹介のとき以来だ。低くて男らしい声をしているのは知っていた。いまは寝起きなせいか、それに加えて地獄の底から魔王が呼んでいるかのような重苦しさがあった。
 澤村は出ていくタイミングを失って、結局昼休みをここで過ごすことに決めた。牛島から少し離れところに腰を下ろし、持って来た弁当の包みを開ける。

「あ、ここで飯食ってもいいか?」

 寝ている牛島の近くでガサゴソやるのも迷惑だろうかと、一応確認してみる。

「好きにしろ。別に俺の許可を取る必要はない」
「そうか? じゃあ、遠慮なく」

 一人にはなれなかったが、牛島相手なら無理に会話をする必要もなさそうだし、落ち着いて昼食をとることができそうだ。
 そういえば、入学してから牛島が誰かと仲良くしている姿なんて一度も見たことがない。いつも一人でいて、休み時間は机に伏せて人を寄せつけないオーラを放っている。昼休みはいないと思ったらこんなところで寝ているし、とても友達がいるようには見えなかった。その原因の大半は彼の強面にあるのだろうが、澤村がここにいるのを許してくれた辺り、見た目に反して中身は案外優しいのかもしれない。噂もあくまで他人が妄想しているだけであって、きっと誰も真実の彼を知らないのだろう。
 できるだけ音を立てないよう注意をしながら弁当を食べていると、グー、と腹の虫が鳴く音がした。自分のではないから、そこに寝転がっている牛島のものだったのだろう。よくあることだと思ってとりあえず無視したが、そのあとすぐに二、三回と立て続けに鳴った。少し間を空けて四回目が鳴ったときには、さすがの澤村もスルーできなかった。

「牛島、腹減ってんの?」
「……減ってない」
「なんで嘘つくの。さっきからめっちゃ腹鳴ってんだろうが」
「気のせいだ」

 言った途端に、また物欲しそうな音が鳴る。黙って背中を丸めた牛島に溜息をついて、澤村は弁当の他に持ってきていた巾着袋から菓子パンを取り出した。

「これ、食えよ」

 牛島は一瞬こちらを振り返ったが、すぐにまた澤村とは反対のほうを向いた。

「いらない。それはお前のだろう」
「一個くらいいいよ。まだたくさんあるし、足らなくなったら購買で買うから」
「……俺は何も返せないぞ。金も持ってない」
「別に返さなくていいって。それより、目の前で腹鳴らされたら食べ辛いだろう。ほら、食えよ」

 牛島は少し迷うようなそぶりを見せたあと、のそりと起き上がった。澤村のところまで歩いてきて、差し出したパンを受け取る。そしてまた元のマットの上に戻っていった。包みから引き出されたパンは、たったの三口で牛島の腹の中に消えていった。

「昼食ってなかったのか?」
「食ってない。昼はいつも食わない」
「あんなに腹減らしてるのに、なんで食わないんだよ?」
「……金がないんだ」
「牛島の母ちゃんは弁当作ってくれないのか?」
「……」

 牛島は何も言わずにパンの袋を綺麗に折りたたみ始めた。何か拙いことを訊いてしまっただろうかと、澤村は考えなしに放った自分の言葉を反省する。もしかしたら牛島は父子家庭で、母親はいなかったのかもしれない。

「もう一個食う?」

 自分の好きなクリームパンを避けて、澤村はまた巾着袋から菓子パンを取り出す。今度は牛島も迷わずに寄って来た。だが受け取るとまたマットのほうに戻って行こうとするから、澤村は彼の腕掴んで引き止めた。

「別にあっちに戻らなくてもいいだろう。ここで食べろよ」
「あっちのほうが落ち着くんだ。それにここは床が硬い」
「じゃあ俺もあっち行く」
「……好きにしろ」

 弁当と巾着袋を持ってマットの上に移動する。確かにこちらは、床に比べるとはるかに座り心地がよかった。この上で寝たくなる牛島の気持ちもわかる気がする。
 牛島は二個目のパンもあっという間に平らげた。澤村も食べるのは早いほうだが、その比ではない。余程腹が減っていたのだろう。かくいう澤村もたくさんおかずの詰まった弁当を、もうあとは卵焼きを残すのみというところまで食べ進んでいた。その卵焼きを箸で掴み、口に運びかけたところで隣の牛島がこちらをじっと見ていることに気がついた。
 澤村は少し迷ってから卵焼きを弁当箱に戻して、それを二つに分ける。片方をまた箸で掴むと、牛島の顔の前に差し出した。

「食えよ。俺の母さんの卵焼き、美味いぞ」

 牛島は一瞬驚いたような顔をした。だけどやっぱり欲しかったのか、素直に卵焼きにかぶりつく。

「どう?」
「……美味い」
「そっか」

 澤村ももう半分を自分で食べて、空になった弁当箱を片づけた。残った菓子パンはまた部活の前にでも食べよう。とりあえずいまはだらっとしていたかった。

「寝る」

 牛島が宣言するように言い放った。

「ああ、どうぞ。俺もゆっくりしてるよ」
「澤村がそこにいると横になれないんだが……」

 困ったように眉を下げる牛島を見て、なんとなく意地悪したくなる。

「俺はどかないぞ? マットこれ一枚しかないし」
「元々俺の場所だ」
「さっき好きにしろって言ったじゃないか。それにこれ、学校のものであって牛島のものじゃないし。だから好きにさせてもらう」
「……」

 怒ったというより拗ねたような顔で睨まれたが、どれだけ目つきを鋭くされても今更恐いとは思わなかった。牛島はやっぱり噂とは違う人間だ。まだ少ししか話していないが、それだけは間違いないと確信していた。

「なんなら俺の膝を枕にするか? それなら横になれるぞ?」

 澤村としては冗談のつもりだったが、牛島はそうは受け取らなかったらしい。少しの間澤村の膝をじっと見下ろしたあとに、頭をゆっくりと乗せてくる。

「本当に枕にするのかよ……」
「駄目だったか?」
「いや……もういいよ。好きに使って」

 横になった牛島を見下ろしながら、不思議な光景だと思った。不良だの番長だのと噂されている男が、自分の膝枕で寝ている。同じクラスの連中が見たら度肝を抜かすだろう。猛獣を手懐けた調教師だと言われるかもしれない。
 だけど牛島が猛獣ではないことを、澤村はもう知っている。図体はデカいが、熊やライオンと言うよりは、象や牛のような大人しい草食動物だとしかいまは思えなかった。
 五分もすると、牛島は澤村の膝の上で寝息を立て始めた。無防備な寝顔を晒している。なんとなく髪に触れると、思っていたよりもずいぶんと柔らかかった。
 そうしているうちに澤村もウトウトとし始め、知らぬ間に浅い眠りに落ちていた。予鈴で二人同時に目を覚まし、五限目の授業に間に合うよう急ぎ足で教室に戻る。その途中で牛島が後ろから澤村を呼んだ。

「澤村」
「どしたよ?」
「パン、美味かった。……卵焼きも」
「ああ、うん。お粗末さま?」

 牛島の言葉の意図が掴めずに疑問形で返したが、それはもしかしたら礼を言ったつもりだったのかもしれない。言葉は少し足らないが、そういう意思が彼にあったことは嬉しかったし、機会があればまた一緒に食べたいと思った。そうしたら今度は、もう少しいろんなことを話したい。話して、彼のことをもっと知りたい。澤村は単純に、牛島と仲良くなりたかった。




続く





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