04. お弁当


 その日はいつもより早めの時間に目覚ましをセットしておいた。けたたましいアラーム音で目を覚まし、眠い身体を起こして澤村はベッドから降りる。
 キッチンに入ると、母親が朝食の支度をしているところだった。入ってきた澤村に気づいて驚いたような顔をした。

「あら、早いじゃない。目が覚めちゃったの?」
「違うよ。早く起きるつもりで目覚ましセットしたんだ」
「へえ、どういう風の吹き回し?」
「弁当の作り方教えてもらおうと思って」
「まあどうしちゃったのよ? 料理なんてしたことないくせに」
「……ちょっと興味が出たんだよ。教えてくれないんだったらもういいよ」
「誰もそんなこと言ってないでしょ。ほら、顔と手洗って来なさい。朝ごはん食べてから教えてあげるから」

 母親の言葉に従って、澤村は朝食を済ませてからキッチンに立った。家庭科の授業以外で料理はしたことがなかったから、いろいろと苦戦を強いられた。だけど作ること自体は楽しかったし、早くこれを牛島に食べさせてやりたいと思った。
 そう、これは牛島の弁当だ。いつも菓子パンばかりだと栄養が偏るだろうし、自分だけ色とりどりのおかずが詰まった弁当を食べるのは少し悪い気がしていた。だから牛島の分も持って行くことにしたのだ。だけど彼の分も母親に作らせてしまうのは申し訳なかったし、彼に自分の手料理を食べてもらいたいという思いから、自らキッチンに立ったのである。



 そうして迎えた昼休み。澤村は弁当が二つ入った保冷バックを手にあの教室に向かう。不思議といつも牛島のほうが早く着いていて、今日もそれは変わらなかった。ただ最近はマットの上に横になって待機していることはなくなっていた。

「今日はお前の分の弁当も持って来たんだ」

 さっそく丹精込めて作ったお手製弁当を牛島に差し出した。すると牛島は片眉を吊り上げたよくわからない表情になって、首を横に振った。

「菓子パンはタダでもらったと言っていたから遠慮しなかったが、これはお前の家で母親が作ってきたものなんだろう? 俺はお前の家に金を入れてるわけじゃないから、さすがにこんなのもらえない」
「弁当にかかる金なんて一人分も二人分も変わらないってさ。それに作ったの俺だから」
「お前が作ったのか? 似合わないな」
「うるさいよ。そんなこと言うやつには食わせないぞ」
「……冗談だ」

 牛島は弁当を受け取ると、蓋を開けてしばらく中身をじっと見つめていた。

「何か食べられないものでも入っていたか?」
「いや。好き嫌いは基本的にない。中身が意外とちゃんとしていてびっくりした」
「まあ母さんに教わりながら作ったからな。味も大丈夫だと思うぞ」
「いただきます」

 牛島が食べ始めたのを見届けて、澤村も自分で作った弁当に手を付けた。味はやっぱり大丈夫だ。と言ってもおかずの半分は冷凍食品だから、いつもと味が違うはずがないし、自分で調理した分も母が監督をしていたからいつもと変わらない。

「……美味いぞ」

 牛島がぼそりと呟いた。たったそれだけの短い言葉で、澤村の心はお祭り騒ぎのような嬉しさに包まれた。

「だけど卵焼きはいつもより少し硬いな。味は変わらんが」
「ああ、それ言われたとおりにやってみても難しかったんだよ」
「精進に励め」
「なんでそんな偉そうなの!?」

 ククク、と牛島は控えめだが楽しそうに笑った。そういえば笑った顔は初めて見た気がする。いつもは機嫌が悪いのかと勘違いしそうなほどの仏頂面をしているが、笑うとずいぶんと優しげに見えた。
 弁当を食べ終わると牛島はいつものように澤村の太股を枕にして横になった。ずっしりと重い感触。だけどそれにもすっかり慣れてしまった。

「お前はやはり変わっていると思う。こうして毎日俺に食べ物を分けてくれて、毎日膝を貸してくれる。そんなやついままでいなかった」
「いや、それは変わってるんじゃなくて、優しいって言うんじゃないのか?」
「そうかもしれない。けどなんでお前は俺に優しくするんだ?」
「……ただの気まぐれだよ」

 それは嘘だ。ただの気まぐれなんかでこうまで甲斐甲斐しく人の世話をするほど澤村は善人ではない。そこにある気持ちをちゃんとわかっている。だけどそれを言葉にできるはずがなかった。

「澤村といると俺は楽しい。それに腹も満たされる。だからと言って、別にお前を便利なやつだと思ってるわけじゃないぞ。いつかはちゃんと何かを返したい」
「別に見返りなんか期待してないぞ」
「それはわかってる。お前は変わって……じゃなかった、優しいやつだからな。だけど俺はお前と対等でありたいんだ。一方的に与えられるんじゃなくて、俺もお前に何かしてやりたい」
「そんなのいいんだよ。だって俺も牛島と一緒にいて楽しいからな。本当に毎日楽しいんだ。だからこれからもこうして一緒にいてくれるんだったら、それでいい」
「俺はお前を楽しませた覚えなんかないんだが……」
「牛島のそういう反応がおもしろくて、楽しくなる」

 なんだそれは、と牛島は唇を尖らせた。

「俺たちはもうとっくの昔に対等なんだよ。だから何も気にしないで、牛島は俺に甘えてればいいんだよ」
「本当にそれでいいんだろうか……。それでお前のこと友達だと言っても、変じゃないか? と言うか、俺はお前の友達でいいのか?」
「少なくとも俺は牛島のこと友達だと思ってるぞ。つーか、こんだけ一緒にいて友達じゃなかったら、そっちのほうがおかしいだろうが」
「そういうもんか?」
「そういうもんだよ」

 ならいい、と牛島はようやく納得した様子を見せた。
 牛島が自分を友達だと認識してくれていることが、澤村は正直嬉しかった。同時に自分だけが一方的に親しく思っているわけではないことに少し安心した。
 牛島が寝返りと打って、顔を澤村のほうに向ける。鼻先が股間を掠めた。ほんの一瞬の出来事だったのに、体中の熱がそこに集まっていくような感覚がした。勃起したらたぶん牛島の顔に当たってばれるだろうから、他のことを考えてなんとか興奮を抑えようと試みる。

「大地」

 牛島が澤村の名前を呼ぶ。いつもの苗字呼びではなく、下の名前で呼ばれたから少し驚いた。

「岩泉がそう呼んでいた。俺もそっちで呼んでいいだろうか?」
「うん、いいよ。じゃあ俺も牛島のこと下の名前で呼ぶよ。若利、だったよな?」
「そうだ」

 大地、大地、と嬉しそうに何度か澤村の名前を呼んだあと、牛島は穏やかな寝息を立て始めた。その髪に触れて、梳くようにして優しく撫でる。
 急に彼を抱きしめたい衝動に駆られた。体格差的にきっと自分の腕の中には納まらないのだろうが。それでもぎゅっと抱きしめて、どこへも行けないようにしてやりたかった。だけど結局そう思うだけで、実際に彼を抱きしめることはできない。してはいけない気がして、澤村は虚しくなった。



 土曜日。部活は午前中に終わり、午後は岩泉や他の友達たちと一緒に遊んだ。帰り道、腕が何か痒いなと気づいてそこを見ると、ぷっくらと赤く膨れていた。どうやら蚊に噛まれてしまったらしい。もうそういう時期なのかと、早い夏の訪れを予感して澤村はうんざりする。夏は嫌いだ。脱いでも脱いでも暑さから逃れられないからだ。
 家の近くのコンビニに差し掛かったとき、前方に人の背中を見つけて澤村は車道側に避ける。ずいぶんと背が高い。百八十センチ後半くらいはありそうだと、少し羨ましい気持ちになりながらその背中を見つめているうちに、ふとそれが見覚えのあるものだと気がついた。

「若利!」

 呼ばれてこちらを振り返った顔は、やはり牛島だった。だけどその顔には、昨日学校で見たときにはなかったはずの痣ができている。

「その顔どうしたんだ!?」
「……親父に殴られた」

 そういえば以前牛島は、自分の父親は酒飲みのろくでなしだと言っていた。

「どうして大地がこんなところにいるんだ?」
「どうしてって……俺んちこの辺だからな。だからそれは俺の台詞だよ。小方からここまでって歩いて三十分くらいかかるだろ?」
「親父が寝るまで散歩していようと思っていたんだ。そうか、俺はそんなところまで来てたのか」
「それよりさ、それ警察とか児童相談所とかに言うべきじゃないのか? さすがに子どもを殴るのはどうかと思うぞ」
「……母さんがそれは絶対駄目だって言うんだ。あんなんでも母さんにとっては大事らしい。俺も別に毎日殴られているわけじゃないし、今更気にしない。今日はたまたま機嫌の悪い日だった」
「それはそれでお前もどうなんだ……」

 頬の痣は痛々しい。平和な家庭で育った澤村には、親が子を殴るなんて信じられなかったし、それを気にしないという牛島の気持ちも理解できない。だけどこれ以上口を挟むのも厚かましいかと、彼の家庭のことには触れないでおくことにした。

「で、このままどこまで散歩に行くつもりだよ? 親父さんが寝るまでって、いままだ夕方だぞ?」
「酒を飲んでるから、あと二時間もすれば寝ていると思う」
「二時間も散歩すんのかよ……。お前さ、いまからうちに来いよ」

 このまま顔に痣をつくった牛島を放置しておくと、そのうち警察に補導されたりするのではないかと心配だった。それはそれで家庭内暴力の解決に繋がるのかもしれなかったが、澤村は彼を自分の家に連れて行きたかった。せっかく休日に会えたのだから、もっと一緒にいたい。

「いきなり押しかけて迷惑じゃないか?」
「うちの母さんはそういうところ寛容だから大丈夫。むしろ友達連れて来ると喜ぶんだ。二時間も外うろつくより、そっちのほうがゆっくりできるだろう?」
「確かにそうだな……。じゃあ上がらせてもらうことにする」




続く





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