05. 溢れ出した気持ち


「ただいま」

 澤村がリビングに顔を出すと、奥のキッチンから母が「お帰り」と言ってくれる。いい匂いが漂っていた。今日の夕食はどうやらカレーのようだ。

「そのカレー、もう一人分ある?」
「大地がおかわりするからたくさんあるわよ」
「よかった。実は友達連れて来てるんだ」
「あら、もしかして一ちゃん?」
「違うよ。今日は別の友達。牛島って言うんだけど……。ほら、入ってこいよ」

 出入り口の向こうで様子を窺っていた牛島に手招きする。彼は遠慮がちに足を踏み入れてきて、「お邪魔します」と頭を下げた。

「いらっしゃい。いつも大地と仲良くしてくれてありがとね」
「……いえ。いつも世話になってるのは俺のほうなんで……」
「ふふ、優しいのね。ゆっくりしていってちょうだい。晩御飯もうすぐできるから、ちょっと待ってね」

 カレーができ上がるまでの間、二人は澤村の部屋で過ごすことにした。

「おい」

 部屋に入るなり、牛島が澤村の肩を掴んでくる。なんだよ、と顔を見上げると彼は戸惑うような顔をした。

「晩飯食わせろなんて俺は言ってないぞ」
「もしかしてもう食った?」
「食ってないが……さすがに図々しくないだろうか? 家に来るのだって突然だっただろう」
「余分にあるって言ってたから大丈夫だよ。それに俺が食って行ってほしいからいいんだよ。むしろ今日は泊まって行け」
「迷惑じゃないのか?」
「全然。母さんはそういうところ寛容だって言っただろ?」
「父親は?」
「父さんはいま出張に行ってていないんだ。いても友達を泊めるのに文句言ったりしないけどな。もしかして、泊まるの嫌か?」
「嫌じゃないが……。むしろ今日は家に帰りたくなかったから、助かる」
「じゃあいいじゃん。なんも気にすることないって。着替えは俺のを貸すよ。ちょっと小さいかもしれないけどな」

 牛島はまじまじと澤村を見る。無遠慮な視線に居心地が悪くなって学習机のほうに逃げると、「ありがとな」とぼそりと呟いたのが聞こえた。
 振り返ると、牛島はもうこちらを見ていなかった。物珍しそうに部屋の中を見渡したあと、本棚の前に歩み寄る。

「好きに読んでいいからな。俺はちょっと宿題してるから」
「わかった」

 母の呼ぶ声が一階からしたのは、それから二十分ほど経った頃のことだった。リビングに下りると、ダイニングテーブルに三人分のカレーとサラダが用意されていた。澤村はいつも自分が座っている椅子に着いて、牛島を隣に座らせた。

「牛島くん……だったかしら? たくさんあるから、遠慮しないでおかわりしてね」
「……いただきます」

 呟くようにそう言ったあと、牛島は静かに食べ始めた。だが静かだったのは最初だけで、カレーを口に運ぶスピードが徐々に速くなっていく。結構な量があったはずだが、ものの一分もしないうちに皿は空になった。これには澤村も、そして向かいにいた澤村の母も呆気にとられていた。

「お、おかわりいる?」
「もらいます」

 即答だった。牛島は母がカレーをよそってくる間にサラダをぺろりと平らげ、二杯目のカレーもハイスピードで食べていく。ちゃんと噛んでいるのか訊きたくなるようなスピードだ。

(と言うか、俺の分はちゃんと残ってるんだろうか……)

 澤村だってたくさん食べたい。だけど牛島がこのままのペースで食べ続けると、自分が二杯目にありつく前に鍋の中が空になってしまう気がする。カレーは好物だからゆっくり味わいたかったが、澤村は少し急ぐことにした。



 風呂に入る前に少し寛ごうと、再び自室に戻った。澤村は回転椅子に座り、牛島はベッドに腰を下ろして、読みかけの漫画を手に取った。

「大地の母さんは優しいな」

 ぼそりと牛島が零した。

「そうか? あんなの普通だと思うぞ」
「俺の母さんは、家のために必死に働いてくれている。そのことには感謝しているし、高校に通えてるのだって母さんのおかげだとわかっているが、優しいかと訊かれると正直返事に困る。親父が酒に酔って暴れたときも、俺や弟を守ってはくれない。俺はもう守られるような歳じゃないからいいが、せめて弟だけでも守ってほしいんだがな……」

 暴力を振るう旦那でも牛島の母は、離婚はしたくないと言ったらしい。世間体もあるが、何より未だに旦那を男として見ていることが理由らしい。子どもよりも旦那が大事なのだ。澤村にはその神経がよくわからなかった。

「お前の家は温かい。きっと父親も優しい人なんだろうな。でなければお前がこんなに優しいはずがない。俺の家は冷たい感じがする。隙間風が入ってくるわけでもないのに、なんだか寒いんだ。弟と二人でいるときだけは温かいけどな」

 牛島の家庭を思うと、歯痒い思いに駆られる。だが、いまの澤村には彼を助けてやる術がなかった。警察や児童相談所に助けを求めたところで、本当に問題が解決するかどうかは怪しいし、逆に牛島本人に迷惑がかかってしまうかもしれない。

「……そういえば、弟は家に置いて来てよかったのか? お前がいないと誰も守ってくれないんじゃないのか?」
「あいつは友達の家に泊まりに行っている。ちょうどよかった」
「そっか。ならそっちは安心だな。今度弟も連れて来いよ。どんな感じなのか見てみたい」
「ああ、いいぞ。あいつ人見知りだから、最初のうちはあまり喋らないかもしれない」
「はは、お前と違って可愛いんだな」
「失礼だな。確かに俺は可愛くはないが……」

 拗ねたような顔が、少しだけ可愛いと思った。男臭くて恐い顔をしている上に図体だってデカいのに、それでも可愛かった。



 牛島は基本的には無口だが、時々よく喋るときがある。今日はあの後しばらく二人で話し込んだ。他愛もない、本当にただの世間話だった。この前のテストはどうだったとか、あの教師の授業がわかり辛いとか……高校生同士がよく話すような話題だ。
 それから順番に風呂に入った。先に牛島に入らせ、下着と寝間着は澤村のを貸してやった。やはり長身の牛島には少し窮屈そうだったが、無理があるほどでもなかった。
 入れ替わりで澤村が入り、下着一枚で自室に戻ると、牛島はベッドの上で寝息を立てていた。なんだか自分は彼の寝顔をよく見る気がする。
 薄着で布団も掛けずに眠っていたから、澤村は薄い掛布団を彼に掛けてやった。それから扇風機の前で少し涼んで、寝間着代わりのTシャツと短パンを身に着ける。母が客用の布団が一階にあると言っていたが、取りに行くのがなんだか面倒だった。仕方ないから牛島の巨体をなんとかベッドの端に寄せ、できたスペースに身体を滑り込ませると、枕元のリモコンで電気を消した。
 シングルベッドにしては横幅があるほうだが、それでも体格のいい牛島と一緒だと狭かった。こちらを向いた背中にぴったりと身を寄せ、ベッドから落ちないようにしがみついた。
 広い背中だ。引っ越し屋のバイトで重いものを持ち上げる機会が多いせいか、腕や肩は筋肉でがっちりしている。同じ男として羨ましい限りだ。
 しばらくすると牛島が寝返りを打った。暗闇に慣れてきた目が見慣れた寝顔を見出す。前々から気づいていたが、牛島は綺麗な顔立ちをしている。少し眼光が鋭すぎるところはあるが、十分に美男子と呼べる部類に入るだろう。
 澤村は彼の首の下に自分の腕を差し入れ、大きな身体を抱きしめた。いつも自分の太股を枕にして眠る彼を見ながら、何度そうしたいと思ったことだろう。寝息が顎を掠める。その感触にさえ興奮して、下半身が熱を帯びてくるのを感じた。
 髪に触れる。それは初めてではなかったから、柔らかいのは知っていた。その手を頬に滑らせ、そしてふっくらとした唇に触れた。弾力のあるそれを何度も指で押しながら、ついに我慢できなくなってそこに自分の唇を重ねた。
 牛島が目を覚まさないのをいいことに、澤村は何度もキスをした。一瞬の短いキス。牛島はモテそうな顔立ちをしているが、彼のコミュニケーション能力を考えると交際経験はない気がする。だからキスするのだって、ひょっとしたら自分が初めてなのかもしれない。……そういう澤村も、性的な意味合いを含めたキスは初めてだが。
 目を閉じて、触れ合う感触をじっくりと味わう。無意識の内に触れる時間が長くなってきたが、澤村にはもう止められなかった。見て見ぬふりをしてきた感情が蓋を開けて溢れ出す。
 澤村は牛島が好きだった。それが友人を大切に思うそれではなく、恋愛感情だとちゃんとわかっていた。見て見ぬふりをしてきたのは、それが報われないと知っていたからだ。
同性を好きになる辛さはいままで何度も経験してきた。想いを告げることなどできないまま、いつも諦めることを強いられる。ひどいときにはその人に彼女ができて、自慢するように話を聞かされた。
 澤村にとって恋をすることは辛いことだった。楽しみに思うことがないわけではなかったけれど、最後には絶対辛くなる。だから牛島を好きになりたくなかった。だけど心は言うこと聞かずに彼にどんどん魅かれていった。
 一方的なキスを味わったあと、澤村は目を開いて牛島の寝顔を見下ろした。その瞬間にぎょっとした。なぜなら閉じられていたはずの牛島の瞳が、いつの間にか開いてこちらをじっと見つめていたからだ。

「わ、悪い!」

 澤村は慌てて牛島から離れようとしたが、彼の腕が背中を掴んで離さなかった。

「別に、大地とだったらキスくらいいい」

 驚いた。てっきり気持ち悪がられるか、怒らせてしまうかと思ったのに、牛島はなんでもないことのようにそう言った。
 身体を強く引き寄せられ、さっきのように再び密着し合う。太股に硬いものが押しつけられた。それがなんだかすぐにわかって、澤村の全身がカッと熱くなる。

「俺には恋愛感情がどんなものなのかよくわからん」

 低くて男らしい声が、囁くように言葉を紡いだ。

「だけどこのもっといっぱいキスをしたいという気持ちがそうなら、俺は大地のことが好きなんだと思う。……いや、俺は大地が好きだ。今頃になってやっと理解した」

 暗い部屋の中でも、牛島が真剣な目でまっすぐにこちらを見ているのがわかった。冗談ではないのだ。牛島は澤村のキスを受け入れてくれる。それはつまり、澤村の想いも一緒にすべて受け入れてくれるということだ。しかも同じ気持ちを返してくれると、確かにそう言った。
 胸が締め付けられるような幸福感に、澤村は涙が出そうになる。こんなに嬉しい気持ちをいままでに感じたことがない。本当にこれは現実なのだろうかと疑いたくなるほどだ。

「もう一回していいか?」

 夢や妄想でないことを確かめたい。互いの想いが通じ合ったことをちゃんと噛み締めておきたい。だからもう一度、その唇に触れたいと思った。

「ああ、いいぞ」

 迷いのない返事。それを聞いてから、澤村は再び唇を寄せる。
 触れ合ったそこは、柔らかくて温かかった。その感触が確かなものとして澤村の唇に伝わってくる。そっと舐めた唇の表面は、少しだけ酸っぱいような味がした。




続く





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