08. 逃避行


 期末テストも無事に終わり、あとは夏休みが始まるのを待つだけとなった。風呂から上がった澤村は、自室で扇風機の風を浴びながら今日の牛島の言葉を思い出していた。
 予想はしていたが、牛島はやはり夏休みはバイトで忙しいらしい。だからと言って休みがまったくないというわけではなく、週に一、二回はバイトのない日があるという。そういう日は必ず澤村に会いに来ると言ってくれた。澤村はそれが嬉しかった。
 牛島は好意を言葉にして伝えることを得意としないようで、代わりに抱きついたり、キスをしたりと行動で示すことが多い。図体がデカい割には甘えるのが好きで、寝るときは澤村の膝枕か腕枕をいつも求めてくる。見た目のイメージと違ってはいるが、そんなところも可愛くて好きだから澤村としては何も問題ない。
 次に彼が泊まりに来るのは明後日だ。窮屈だとわかっていながら、いつも二人で一緒にこのシングルベッドで寝る。そして必ずセックスをした。と言っても後ろを使ったことはなく、手や口で抜き合う程度の軽いそれに収まっている。その先の行為を澤村は動画を観て知っているし、してみたいとも思う。だけどいま一歩踏み出せずに結局ぎりぎりのところでいつも終わっていた。
 牛島がしたいと思っているかどうかはわからない。そもそも自分たちがするとしたら、どちらがどちらをやるのだろう? やはり責めることに積極的な澤村が挿入するのだろうか? 澤村としてはどちらかというとそっちのほうがしてみたかった。自分に突っ込まれ、あられもなく乱れる牛島を見てみたい。……想像して少し勃起しそうだった。
 そろそろ夕食の時間だ。母親に呼ばれるような気がして、澤村はTシャツと短パンを身に着ける。――机の上の携帯電話が鳴ったのはそのときだった。
 ディスプレイには着信を知らせるCGが表示されていたが、番号は非通知になっている。いったい誰だろうか? 疑問に思いながら澤村は通話ボタンを押した。

「もしもし」

 声をかけたが、あちらからの応答はない。聞こえなかったのだろうかと思ってもう一度問いかけたが、やはり電話の向こうは無言だった。この間岩泉が悪戯電話の話をしていたから、これもそうなのかもしれない。そう思って通話を切りかけたとき――
『大地』

 聞き覚えのある声が澤村を呼んだ。

「もしかして若利か?」

 いまの低くて男らしい声は牛島のものだ。澤村が彼の声を聞き間違えるはずがなかった。

『ああ、俺だ』

 牛島には澤村の携帯の電話番号を教えてあった。牛島は携帯を持っていないが、ごくたまに彼の家の電話を通じてかかってくることがある。けれど非通知でかかってきたということは、いまは公衆電話か何かを使っているのかもしれない。

「どうしたんだよ?」
『……最後にお前の声が聞きたかった』
「最後?」

 牛島の声から重さが感じられる。何かあったのだろうということはすぐにわかった。

『俺は大変なことをしてしまった。もしかしたら大地にはもう会えないかもしれない』
「大変なことってなんだよ!? それに会えないって……俺そんなの嫌だぞ!」

 二人の交際は順調だったはずだ。このままずっと、大人になっても恋人同士でいると澤村は思っていた。それがいきなりの会えないかもしれないという言葉……。意味がわからず、焦りと困惑で澤村は胸が苦しくなる。

『俺は……俺は親父を殺してしまったかもしれない』
「えっ……」

 告げられた言葉に、澤村は心臓が止まるような思いがした。体温が急激に下がる。そんな感覚に襲われて思わず机の縁を掴んだ。

『さっきバイトから帰ってきたら、弟の顔に痣があった。顔だけじゃない。身体にも、至るところに痣ができていた。親父にやられたんだと弟は泣きながら俺に抱きついてきた。その瞬間に俺は頭に血が上って……酒瓶で親父の頭を思いっきり殴ってしまった』
「で、でも、かもしれないっていま言っただろ。まだ生きてるかもしれない」
『親父はびくともしなかった。頭から血も出てたし、あれはたぶん駄目だ……』

 手が震えた。足も震えている。恐かった。牛島の言ったことはまるでドラマの中のような話だけど、彼の家庭の内情を知っている澤村は、それが現実に起きたことなのだと疑わなかった。
 けれど恐かったのは牛島が彼の父親を殺してしまったことではない。もしかしたら牛島に会えなくなるかもしれないということが、澤村の心に恐怖を宿した。

「いまどこにいるんだ?」
『……大地の家の近くの公園。そこの公衆電話からかけている』

 澤村の家の近くに公園は一つしかない。歩いて五分のところにあるあそこのことだろう。

「そこに青くて丸い滑り台があるだろ? その中なら若利でもぎりぎり入れると思うから、そこで待っててくれ」
『待っててくれって……来てくれるのか? 俺は……人殺しだぞ』
「それ以前に俺の大事な恋人だろ! 人を殺したとか関係ねえよ! すぐ行くから大人しく待ってろよ!」

 澤村は一方的に電話を切り、それを短パンのポケットに入れる。それからバッグの中から財布を取り出して、階段を駆け下りた。
 母親には出ていくことを言わなかった。寛容な澤村の母でも、さすがにこの時間に出かけることは許してくれないだろう。
 サンダルを履いて玄関を出る。辺りは薄暗くなっていた。人気のない道路を全速力で駆け抜け、目的の公園を目指した。
 公園には三分ほどで着いた。自分が指定した遊具に近づき、入り口から中を覗き込む。

「若利、いるか?」

 暗くて中がよく見えなかったから、澤村は声をかけた。すぐに「いる」という短い返事があって、遊具に似合わないデカい図体が近づいてきた。
 牛島はずいぶんと疲れているような顔をしていた。けれど澤村の顔を見た途端にどこかホッとしたように表情を緩め、膝立ちになって澤村の下半身に抱きついてくる。

「恐かったか?」
「ああ……殴ったときの感触がまだ手に残ってる。親父が倒れた畳に血がべっとりと付いていた。とんでもないことをしてしまったとは思ったけど、後悔はしてない。あんなやつ死んだって悲しくない。いま恐いのは、刑務所に入ってお前に会えなくなることだ」

 牛島の身体は震えていた。それを宥めるように頭を優しく撫でたあと、澤村は彼の重い身体を立ち上がらせた。

「逃げよう」

 ここに来るまでの短い間に覚悟は決めていた。牛島とともに逃げる。行く当てもないし、逃げ切れるとも思えないが、少しでも長く彼と一緒にいたかった。

「お前も一緒なのか?」

 言いながら牛島の目が、一緒に来てくれと訴えている。

「ああ。一緒に行くよ」
「でも、そうするとお前も捕まるかもしれない」
「別に捕まったっていい。それに今更若利を一人になんかできないよ」

 一緒に行かなければ、自分はこれまでどおりの平穏な日常を過ごしていけるのかもしれない。だけど牛島がいない日常なんて、澤村にとってきっと物凄くつまらない。自分から何かが欠け、空虚な心で一日一日を消化していくだけになる。そしてきっと、とても寂しいのだろう。澤村は牛島の肌の温かさを知ってしまった。彼の持つ優しさを知ってしまった。それを手放すことがどれだけ辛いか想像もつかない。
 持って来た財布の中身を確認すると、少し離れた市内に電車で行けるだけの金しかなかった。いや、ここは市内に行けるだけましと思うべきなのかもしれない。とにかくここから離れなければ、タイムリミットは縮む一方だ。

「とりあえず電車で市内まで行こう。あの辺なら人が多いから紛れて逃げやすいだろう」
「それはやめたほうがいいかもしれない」
「なんで?」
「たぶん今頃俺の母親が警察に通報しているはずだ。もしやつらが張るとしたら、やっぱり駅やバス停じゃないか? それに俺はこの通り背が高くて目立つ。人ごみに紛れるのは難しいだろう」
「そうか……じゃあ山に逃げるか。どっか隠れられるとこの一つくらいあるだろ」

 頷いた牛島の手を握って、澤村は早足に公園を出た。
途中で食料調達のためにコンビニに寄った。もちろん澤村だけで店に入って、牛島は離れたところで待たせた。
 元々あまり人の多くない地区だったのと、夜を迎えたということもあり、コンビニを出てから山に入るまでの間、通りがかりの車は何台か見かけたものの、歩いている人や自転車に出会うことはなかった。
 山道を十分ほど進んだところで雨がぱらぱらと降り始める。そういえば今夜から雨が降ると天気予報で言っていた。家を出るときは牛島のことばかり考えていたから、天気のことなど頭の端にもなかった。
 雨は次第にひどくなり、二人に容赦なく打ちつける。とりあえずどこか雨宿りできそうなところはないだろうかと辺りを見回しながら歩いているうちに、ひっそりと建物が建っているのを見つけた。
 屋根も壁も塗炭でできた小さな小屋で、出入り口らしいものは正面のシャッターだけだった。さすがに運よく開いてなどいないだろうと、半ば諦めながらシャッターを持ち上げてみる。すると予想外に軽く開いた。どうやらここで雨宿りできそうだ。

「開いててよかったな。なんとか雨をやり過ごせるぞ」
「すでにびしょ濡れだが……」

 濡れたTシャツが肌に貼りついて気持ち悪い。短パンもその中もびしょ濡れで、このまま着ていると風邪をひいてしまいそうだった。

「脱ぐか」
「そうだな……」

 小屋に入ってすぐに、二人は着ているものを下着も含めてすべて脱いで、たまたま見つけたブルーシートを土間に敷いた。その上に並んで座って、疲れた足を寛げさせる。
 散々雨に濡れて身体が冷えたのか、なんだか寒かった。牛島も寒そうに二の腕を擦っている。中をもう一度見回すが、羽織るものはなさそうだ。だから代わりに牛島の後ろに座ってその広い背中を抱きしめた。

「……逆じゃないのか? 体格的に」
「そんなの関係ねえよ。気持ちの問題だろ?」
「俺だって時々お前のことそうやって抱きしめたいぞ?」
「じゃああとで替わってやるよ」

 背中に頬をくっつけると、温かな体温がじんわりと浸み込んでくる。だがそうしているとどうしても互いに全裸であることを意識してしまって、澤村は不謹慎ながら勃起してしまいそうだった。
 牛島の腹の前で組んでいた手を、少し上にずらす。難なく胸の突起を探り当て、澤村はそれを指で弄んだ。

「おい……」
「悪い。でもやっぱ裸でくっついてると、な……。嫌か?」
「嫌じゃないが……ここでしたら洗えないぞ?」
「雨が洗い流してくれるよ」

 首筋にキスを落として、逞しい背中を味見するように舐める。雨と汗が混じった、少ししょっぱい味がした。そのまま至るところに啄むようなキスをして、片方の手を彼の股間に忍ばせる。

「もう勃ってるな」
「大地だってそうだろっ……」

 力を入れると、いとも簡単に牛島は横倒しになった。切れ長の瞳が大きな熱量を伴って大地を見つめる。それに吸い込まれるように顔を近づけて、少し厚めの唇に唇を重ねた。
 いつもは触り合い、舐め合いで終わる戯れも、その日は最終的な行為まで及んだ。牛島は拒否しなかった。むしろしたいと恥ずかしげに呟いて、澤村の情欲を煽った。
 初めて入り込んだそこは狭くて、身体のどこよりも熱かった。粘液が絡みつくように澤村を締めつけ、あっという間に果ててしまう。一回では治まらず、何度も何度もそこを犯し、欲望のすべてを牛島の中に吐き出した。最初は少し痛がっていた牛島も徐々に甘い喘ぎ声を零し始め、最後には性器に触らなくても射精した。

「若利、好きだよ」

 繋がったまま、澤村は牛島の目を見て想いを告げた。

「若利が好きで好きで堪らない」
「俺だって大地が好きだ。お前がいれば、俺は何もいらない」

 深く口づけたあとに、澤村は牛島の身体を強く抱きしめた。この感触を忘れないように。離れていても、すぐに思い出せるように。
 きっとこの逃亡生活はそう長くは続かない。すぐに終わりが来てしまうのだろう。そして自分と牛島は離れ離れになる。永遠ではないかもしれないけれど、きっと短くはない。だから澤村はいまこのとき、一分一秒でも長く牛島と触れ合っていたかった。




続く





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