09. 1度目のプロポーズ


 窓の外から差し込む陽の光を感じて澤村は目を覚ました。
 背中が妙に熱いと思ったら、後ろから牛島に抱きしめられていた。眠る前は自分のほうが彼を抱き込んでいたはずなのに、いつの間にか入れ替わっていたらしい。澤村の身体を引き寄せる大きな手を握って、しばらくそのままでいることにした。牛島が目を覚ましたのはそれから十分ほど経った頃のことだった。

「背中が寒い……」

 起きたばかりの牛島が、掠れた声でそう漏らす。

「服着るか? つーか、乾いてるかな?」

 紐に吊るしておいた衣類を手に取ると、まだほんの少し湿っていた。けれど裸でいるのも少し寒かったし、着ているほうが体温で早く乾きそうだったから我慢して身に着けることにした。
 下着を身に着けようと立ち上がった牛島が、痛そうに顔を歪めた。身体のバランスを崩して倒れそうになったので、慌てて支える。

「おい、大丈夫か? どっか痛いのか?」

 牛島は何も言わなかった。なぜだかプイと顔を背けて、下着を穿く動作に戻る。その最中もやはり痛みを我慢しているような顔をしていた。

「黙ってちゃわかんないだろ。痛いところがあるんだったらちゃんと言えよ」

 こんなときに何を強がっているのだろう。少し腹が立って詰め寄ると、牛島は囁くような声でやっと返事を返してくれる。

「ケツが痛い……」
「あっ……ごめん」

 昨日の情事が鮮明に頭をよぎる。思えば初めてだったのにずいぶんと無茶をした気がする。それに本来ならあそこはローションなどを使って滑りをよくしなければいけないのに、それがないものだから唾液でしかほぐせなかった。それで痛くないはずがない。

「マジでごめん。昨日は我慢が利かなかった」
「別にいい。やってるときは気持ちよかったしな。それよりこれからどうする?」

 自分の下で喘いでいた牛島の姿を脳内で反芻し、行為の余韻に浸っていたかったが、厳しい現実を無視するわけにはいかなかった。自分たちは――正確には牛島一人だが――追われている身だ。このままここにいてもきっといいことにはならないだろう。むしろ警察はこういう隠れやすい場所から探ってくるに違いない。

「とりあえずここを出て、もっと奥に行こう。雨も止んでるみたいだし、とりあえず日中は別の場所に隠れたほうがいいと思う」
「そうだな……」

 まだぎりぎり電池の残っている携帯を見ると、時刻は正午を迎えようかという頃だった。この辺りもそろそろ警察の捜索範囲内になるだろう。いや、もうとっくになっているかもしれない。早いところ新しい隠れ家を見つけなければと、二人はそそくさと塗炭小屋を出た。
 山を奥へ奥へと進んでいく。自分たちが山中のどの辺にいるのかもうわからない。わからないが、とにかく進むしかなかった。今更戻ることなどできない。足掻いたところで結果は変わらないのかもしれないが、少しでも牛島と長くいたいなら逃げるしかなかった。
 今頃澤村の両親も捜索願を出しているだろうか? 心配をかけてすまないと思っている。だけどいまの澤村にとって最も優先すべきことは牛島で、家族は二の次だった。自分は本当に彼のことが大事なのだなと改めて気づかされる。初めてできた恋人で、初めて身体を重ねた愛しい人。彼のためなら死ぬことだって厭わない。地獄の底まで落ちることも、世間から切り離されることだって恐くなかった。
 平和な日常がもうずいぶんと昔のことのように思えた。あの日々を取り戻すことはきっとできる。ただひたすらに愛し合い、互いを支え合いながら生きていける日はきっと来る。いまはそれを信じることしかできなかった。

「大地っ」

 焦ったような牛島の声に、澤村はふいに現実に引き戻された。

「どうかしたか?」
「屈め」
「なんで?」
「いいから早く」

 草木に隠れるようにして身を屈めた牛島に倣って、澤村も膝を折る。

「警察だ」
「マジで!? くそっ、思ったより早いな……」

 距離はあるが、遠くのほうに確かに青い制服が見える。それも一人、二人ではない。十人近いそれが点在しているのが木々の隙間から窺えた。
 二人は身を屈めたまま、彼らのいるほうとは反対側に逃げることにした。下りが少し続いたあとに急な上りを、息を切らせながら駆け上がる。だが、頂上まで到達したところで二人はぎょっとした。なぜなら勾配の向こうに、さっき見かけたのとはまた別の警察官の姿があったからだ。心臓が止まるかと思うほどに驚きながら、慌てて窪地に引き返す。

「ここまでか……」

 諦めたような声で呟かれた言葉。受け入れたくはないけれど、でも本当に手詰まりだ。もうこれ以上逃げようがない。それにさっきからサンダルの鼻緒が切れかけている。あまり長くは持たないだろう。切れてしまえば逃げ足はまた一段と遅くなり、捕まる確率がぐんと高くなる。最初からわかってはいたが、いずれにしても逃げ切ることはできないのだ。

「大地」

 名前を呼ばれて、少し高い位置にある牛島の顔を見上げる。澤村を見下ろす瞳はいつになく優しい色を灯していた。

「抱きしめてもいいだろうか?」
「いまはそんなことしてる場合じゃないだろう」
「いや、きっともういましかできない。きっと最後になる」
「最後とか、言うなよ……」

 でも牛島の言うとおり、これを最後に彼と触れ合うことはしばらくできないのだろう。永遠でなくても、きっと物凄く長い時間をそれぞれが一人で生きていかなければならない。その動かない事実をまざまざと実感させられて、澤村は泣きたくなった。

「駄目か?」
「駄目じゃない。駄目じゃないけどっ……こんなの嫌だ。もっと一緒にいたい」
「俺だってお前ともっと一緒にいたい。でもこれ以上はたぶん……」

 泣きそうに歪む顔。笑った顔や拗ねた顔は何度も見てきてけれど、そんな顔を目にしたのは初めてだった。きっと彼もいま、離れ離れになることを寂しいと感じてくれているのだ。自分たちは同じ気持ちで繋がっている。それはいままでも、そしてこれからも変わらない。
 澤村は自分よりも大きな彼の身体を抱きしめた。強く、強く抱きしめた。同じ力で返ってくる抱擁に嬉しさと寂しさをない交ぜにしたような気持ちが湧き上がって、だけど泣くのはなんとか堪えた。

「お前が一緒に逃げてくれると言ってくれたとき、俺はすごく嬉しかった。お前が一緒にいてくれたからとても心強かった」
「……俺がお前を放っておけるわけないだろ。だって、俺の恋人なんだからっ」

 澤村の人を大事に想う気持ちは決して平等ではない。そこには優先順位があり、そしてその頂点にいるのが牛島だ。この世で最も大事な存在はいま抱き合っている彼なのだ。

「迷惑かけて悪かった」
「悪かったとか言うなよ。これは俺がしたくてしたことだ。お前が一人で辛い目に遭ってるのを黙って見てるくらいなら、一緒に辛い思いをしたほうがましだよ。だから一緒に逃げた。実際一緒に逃げてよかった思う。だって若利と少しでも長く一緒にいられたからな」
「大地……」

 抱きしめる力が一段と強くなる。骨が折れそうなほどの力だったけれど、それが自分を想ってくれている気持ちの大きさなのだと思うと、抗う気にはならなかった。

「俺を恋人にしてくれてありがとう」
「礼なんて言わなくていいよ。だって好きになったのは絶対俺のほうが先だったんだから」
「それでもいまは全部言わせてくれ。俺はお前の恋人になれてよかった。つまらないとばかり思っていた学校も楽しく思えたし、毎日が楽しかった。お前の作ってくれる弁当も美味かったな。俺は……とても幸せだった。これ以上ないくらい幸せだった」

 広い背中が震えた。耳元でしゃくり上げるのが聞こえたが、彼の顔は見ないようにした。見ると自分も泣いてしまいそうだったからだ。
 互いに言葉を口にしないまま、しばらくの間きつく抱き合った。相手の存在を身体に焼きつけるように。これからしばらく抱き合えない分を埋め尽くすように。

「……俺はそろそろ行く」

 口にすると同時に、牛島が澤村からふっと離れた。縋るものをなくした身体は、寂しくて一気に凍えそうになる。

「俺も行くよ。最後まで一緒だろ」
「それは駄目だ」

 きっぱりと拒否されて、澤村は一瞬驚いてしまう。

「大地は俺に無理矢理連れ回されたということにしろ」
「な、何言ってるんだよ!?」

 捕まるところまで添い遂げるつもりだったし、牛島もそのつもりなのだと思っていた。だからいきなりそんなことを言われて澤村は戸惑った。

「俺はお前に待っていてほしい」
「で、でも俺は一緒に……」
「このまま二人で行けば、お前も俺の逃亡に協力した罪とかで捕まってしまうだろう。そんなのは駄目だ。捕まるのは俺一人でいい。それにお前が待ってくれているのだと思うと、刑務所での辛い生活もきっと耐えられる。外に出たいって思える。だから待っていてくれないか? それで俺が出所する日になったら一番に迎えに来てほしい。弟でも他のやつらでもなく、大地に迎えに来てほしい」
「俺は……」

 地獄の底まで一緒にいたい。だけどきっと二人で捕まったとして、同じ刑務所に入れられるとは限らないのだろう。そうなると結局のところ一人で生きていかなければならない。牛島のいない日々を、壁の中で寂しく生きていかなければならない。それを耐え抜ける自信は正直なかった。

「もちろん、そのときになっても大地の気持ちが変わってなかったらの話だが」
「……俺の気持ちが変わると思うか? 俺がどれだけお前のこと好きだと思ってるんだよっ」

 人を好きになったのは決して初めてではない。だけどここまで愛しいと、誰よりも守りたいと思った相手は牛島ただ一人だ。他に二人といない。

「その言葉を信じてる。信じて生きていく。――俺も大地のことが好きだ」

 牛島は笑った。慈愛に満ちた優しい微笑みだった。

「刑期がどのくらいになるのかわからないけどさ、いつまでもお前のこと待ってるよ。俺の気持ちはいつまでも変わらない。変わらないからっ……お前が出所したら、俺と結婚してほしい」

 馬鹿なことを言っている自覚はあった。男同士である以上、結婚なんて叶わない夢である。だけどどうしても約束が欲しかった。牛島のいない日々を生きていく糧となる、大きな約束が。

「俺でいいのか?」
「お前がいいんだ。むしろお前じゃないと嫌だ」
「……わかった。約束だぞ? 出所してもしお前のそばに別の誰かがいたとしても、お前を攫っていって、約束守ってもらうからな」
「だから俺の気持ちはいつまでも変わらないって言っただろ」

 その約束があれば自分は生きていける。寂しくても、前を向いて生きていける。そして次に出会うそのときまで、牛島を一人で守れるくらいに強くなっていたい。彼を幸せにしてやる準備をしておきたい。

「じゃあ、そろそろ行くな。約束は絶対守れよ」
「そんなに俺が信用できないか?」
「信じている。だけどお前はいい男だから、他のやつらが放っておくとは思えない」
「それは杞憂だと思うけどな……」
「だといいが。――じゃあ、また会おう」
「ああ」

 学校の帰り、分かれ道で挨拶を交わす。まさにそんな短い言葉だった。もう会えないわけではない。いったいいつになるかはわからないが、自分たちはいつか再会して、そして今度こそ幸せになる。だから特別な挨拶は必要ないのだ。
 離れていく牛島の背中がついに見えなくなった。途端に大事なものを抜き取られたような寂しさに襲われた。さっきまでそばにあった温もりがいまはもうない。孤独が身体の芯に食い込むようだった。

「若利っ……」

 澤村は地面に頽れた。また会える。どれだけ時間がかかっても絶対に会える。そう信じていても、溢れ出した涙を止めることはできなかった。




続く





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