終. 2度目のプロポーズ


 梅雨真っ只中だというのが嘘のように、その日は雲一つない青空が広がっていた。まるで自分たちの再会を祝福しているようだと、頭上を仰ぎ見ながら澤村は微笑んだ。

「しっかし晴れるとさすがに暑いな。もう完全に夏だぜ」

 隣を歩いていた岩泉が、澤村とは対照的に不機嫌な顔をしてそうぼやいた。

「牛島も、何もこんな暑い日に出て来なくてもいいのにな」
「それは仕方ないだろう。若利自身が出所する日を決められるわけじゃないんだから。それに俺は暑かろうが寒かろうが、とにかく早く若利に会いたいよ」

 あの事件から六年の歳月が過ぎた。澤村は二十一歳――年末の誕生日で二十二歳になるが――になり、そして今日ついに牛島の出所の日を迎えることができた。
 六年という刑期は殺人罪にしては軽いほうだったが、澤村にとってこの六年はとにかく長かった。最愛の彼に会えない日々――それはとてつもなく寂しくて、楽しかった日常が一気に色褪せたように感じられた。今日まで耐え切ることができたのは、あの約束があったからだ。牛島と別れ際に交わした、大事な約束が。そしてその約束を今日ついに果たすことになる。
 刑務所の門が見えるところまで来ると、岩泉が急に立ち止まった。どうしたんだと振り返れば、彼は神妙な顔つきになってしばらく唸っていた。

「……俺、ここで待ってるわ」
「なんでだよ? ここまで来たんだから一緒に行こう」
「いや……だってお前らって恋人同士なんだろ? それにお前あいつに言いたいことあるって言ってたじゃねえか。俺がノコノコついて行ったら雰囲気ぶち壊しだろ」
「ああ……」

 確かにそうだと、今更ながら澤村は気づかされた。決して岩泉が邪魔だとは思わないが、牛島に再会したら必ず言おうと思って用意していた台詞を岩泉の前で口にするのは正直恥ずかしい。ここで待っていてくれたほうが素直に想いを伝えられる気がした。

「それに牛島だってたぶんお前一人に迎えに来てほしいんだと思うぞ。ああ、あと俺お前ら二人がイチャイチャしてんの見たくねえから、気が済んだら呼びに来いよ」
「べ、別にイチャイチャするつもりはないけど……」
「嘘つけ! 六年ぶりだぞ、六年ぶり。イチャイチャしないほうがどうかしてるぜ」
「はあ……まあ一の言いたいことはわかったよ。気遣いありがとな。じゃあ俺一人で行って来るよ」
「おう。さっさと行け。行ってあいつを思いっきり抱きしめたやれよ。……いや、体格的に大地のほうが抱きしめられるのか?」
「どっちでもいいだろ! つーか、どうせ待ってるんだったらどっか見えないとこにいてくれよ。恥ずかしいから」
「やっぱりイチャつく気じゃねえか! くそう、俺も早く彼氏……じゃなかった、彼女ほしいなこの野郎。つーかむしろ結婚したいわ」

 いつか聞いたような台詞を背中で聞きながら、澤村は一歩踏み出した。六年間の空白を埋めるために。
 牛島が服役を始めてから今日まで、澤村は一度も彼の顔を見ていない。面会は許されなかったし、許されたとしても会わないつもりでいた。次に牛島と会うのは、自分一人で彼を守れる力を身に着けてからだと決めていたからだ。
 もしもあのとき澤村に牛島を家庭内暴力から救ってやれるほどの力があったなら、きっと彼は自分の父親を殺したりしなかっただろう。あるいはいつか顔に痣をつくった彼に道端で出会ったとき、澤村が警察や学校に相談していればもしかしたら問題は解決していたのかもしれない。
 澤村は何もできなかった自分を呪った。牛島を守ってやれなかったことを悔やんだ。だから次に会うときまでに彼を守れるだけの力をつけ、暴力や貧困に喘ぐことのない当たり前の幸せを与えてやれるようになろうと決意した。
 そして澤村は大人になった。もう大丈夫だ。一人でも彼を守っていける。自分の愛する人を大事にしていける人間になった。

 門の向こうから大柄な影がこちらに近づいて来ているのが見えた。遠くて顔ははっきり見えなかったけれど、澤村はそれが牛島であることを確信した。
 心臓がどんどん膨らんでろっ骨を突き破るのではないかと思うほどドキドキしていた。彼と初めて身体を重ねたときに感じたような、あるいは彼に対する自分の恋心に気づいたときに感じたような、熱くて火傷してしまいそうな衝動が全身を駆け巡る。
 やがて互いの顔がはっきりと見て取れる距離まで近づく。元々大人びた顔をしていたからか、六年の時が過ぎた割に牛島の顔はあまり変わっていないように見えた。ただ髪の毛は坊主に近い短髪で、それが刑務所にいたことの証になっていた。
 牛島が澤村に気づいて、驚いたように目を大きく見開いた。だけどそれは瞬く間に泣き出しそうな顔になって、体格に見合った大きな手が切れ長の瞳を隠す。

「久しぶり」

 門を出てきた牛島に、澤村はそう声をかけた。

「ああ」

 彼らしい短い返事だった。相変わらず声は低くて男らしい。澤村はその声が昔から好きだった。懐かしい二人での思い出が脳裏をよぎる。楽しい思い出ばかりではなかったが、二人の間にはいつも温かな愛情があった。そしてそれはこの六年の間もずっと澤村の胸の中にあり続け、今日ようやく牛島のそれと繋がることができる。
 澤村は何も言わずに牛島を抱きしめた。腕に捉えた身体は少し痩せたような気がするが、澤村の知っている彼の匂いがした。ようやく彼を取り戻すことができたのだと、澤村は嬉しくて泣きそうになる。

「お帰り」

 この日を何度夢見ただろう。どれだけ待ち焦がれていただろう。寂しくて枕を濡らしたのだって一日や二日ではない。

「ただいま」

 牛島の腕が澤村を強く抱きしめる。最後に抱き合ったときのような、息が止まってしまうのではないかと思うほどの強い力だった。

「ずっと会いたかった。毎日大地のこと考えて、寂しくて堪らなかった」
「それは俺も同じだよ。ずっと寂しかった。俺の気持ち、ずっと変わらなかったぞ。いまもお前のこと死ぬほど好きだ。だから約束を果たさせてくれよ」

 寂しい日々は今日で終わりだ。大事な何かをなくして止まってしまった時計が、いま再び動き出そうとしている。そしてそれを動かすための最後のピースを、澤村は言葉として紡ぎ出した。

「俺と結婚してくれ」

 二度目のプロポーズ。どうしようもない寂しさや虚無感を耐え抜くことができた、大切な約束。それは六年の時を経てようやく現実のものになろうとしていた。
 だが、牛島からの返事はなかった。ひょっとして気持ちが変わってしまったのだろうかと不安になりながら彼の顔を見上げると、澤村より少し高い位置にある男らしい顔は、くしゃくしゃに歪んで大粒の涙を流していた。

「泣くなよ……」
「仕方ない、だろっ……。嬉しすぎて止まらない」

 せっかく我慢していたのに、牛島の泣き顔を見た途端に澤村も限界が来てしまった。目頭がじんと熱くなったかと思うと、この六年間分の寂しかった気持ちが涙となって溢れ出した。そうして二人はしばらくの間競うように泣き続けた。

「俺でよければ、よろしく頼む」

 シンプルな言葉だったが、それでも澤村はどうしようもないくらい嬉しかった。

「幸せにするよ。辛いこと、苦しいこと、そういうのから俺が若利を守ってやる」
「ああ」

 これからはずっと一緒だ。自分が彼をどんなことからも守る。幸せを与え続ける。彼がそばにいてくれるのなら、澤村はそれだけで幸せだった。

 そうして澤村の世界は、再び鮮やかに色づいた。




終わり





inserted by FC2 system