練習を終えて体育館を出ると、隅のほうで煙草を吸っている清の姿を見つけた。
 京谷賢太郎は進行方向をそちらに変えて歩き出す。喫煙エリアにはちょっとした段差があり、清はそこに座っていた。丸くなった背中は改めて見ると細い。それを意外だと思いながら、京谷は彼の隣に腰を下ろした。

「お疲れさん」

 すると清がすぐに声をかけてくる。

「なんか用だったか?」
「別に、なんも」
「なんもねえのにわざわざ俺の隣に座るのか? そこ煙たいだろ?」
「他に座る場所がなかっただけだ」
「嘘つけ。あっちにベンチがあるだろうが。どうせまた俺の車に乗せてもらって帰ろうっつー腹だろ?」

 それは半分正解だ。先週末の練習のあと、京谷は清に軽い説教をくらい、時間が遅くなったからと彼の車で家まで乗せて帰ってもらっていた。あわよくば今日も乗せてもらえるかもしれないという期待を込めて、こうして煙草の煙が立ち込める場所まで来たわけである。けれどそれは決して楽をしたいからではない。ただこの人と話したい。そんな気持ちが京谷の中にあった。
 清のそばはなんだか落ち着く。優しくて、面倒見がよくて、集団の中で孤立しがちな京谷を彼はいつも輪の中に引っ張り入れてくれる。けれど決して構いすぎず、適度な距離感を持って接してくれるから、居心地がよかった。時には厳しい言葉を投げかけられることもあるけれど、その言葉の端々に彼の優しさが滲んでいて、いつも素直に受け入れようという気持ちになれた。

「まあそんくらい別にいいけどな。どうせ通り道だし、お前も一応高校生だから、夜に一人で歩かせるわけにはいかねえよな」

 そう言って清は吸いかけの煙草を灰皿に押しつけ、立ち上がった。

「行くか」
「うっす」



 男子高校生とバツ一のおっさん





01.

 清は町内会のバレーチームのキャプテンだ。確か歳は三十六歳だったか。顔立ちは整ってこそいるものの、いまいちぱっとしない。無精髭を少し生やしているのもあって“その辺のおっさん”といった雰囲気だった。
 高校の部活から逃げ、いろんなバレーチームを転々としていた京谷があのチームに定住しているのは、清の存在が大きい。京谷にとって彼は心休まる場所の一つだった。興味津々にいろんなことを訊いてくる他の大人たちと違い、清は京谷の事情についてはあまり詮索してこなかった。ただなんとなく察してはいるようで、時々小言を言われることはある。けれど清はあまりくどくどしてないから、彼の言葉に一瞬だけ腹を立てることはあっても、いつもあとを引かない。
 親にも先生にもない、絶妙な優しさと温かさを持った清のことを、京谷は結構気に入っていた。だからこうして車に乗せてもらおうとした。話をしなくても、隣にいると不思議なほど心が安らいだ。

「ラーメンでも食って帰るか?」

 ハンドルを握った清が、まっすぐ前を見たまま前触れもなくそう言う。

「おっさんの奢り?」
「おっさん言うな。高校生に出させるわけにはいかねえだろ」
「じゃあ行く」
「こいつめ。出世払いだから、就職したら今度はお前が奢れよ」
「覚えてたらな」
「お前が覚えてなくても、俺が覚えてるよ。高いもん奢らせるから覚悟しとけよ」
「年下にたかる気か!」

 清は笑う。釣られるように京谷も笑った。
 二十歳近くも歳が離れているのに、同い年の友人や歳の近い従弟たちよりも、清といるほうが何倍も楽しかった。大した話をしているわけじゃない。ただよくわからないけど、話しているといつも胸の中がポカポカする。
 清に連れて来られたラーメン屋は、一見して店とはわからない、むしろ農具などをしまう倉庫を連想させるような、スレートの小屋だった。ほんの気持ちばかりと言った感じで“ラーメン”と書かれた旗が立てかけられているが、それも道路からはほとんど見えなかった。
 中も外観と同様に慎ましい。灰色一色のコンクリートの床に飾り気のないスレートの壁、並べられた机も椅子も古さを感じさせるもので、本当に商売をする気があるのだろうかと店主に訊きたくなるほどだ。
 しかし、そんな見てくれとは裏腹に、出されたラーメンの味は京谷が今まで食べてきたどこのラーメンよりも美味かった。人の奢りだから一応遠慮するつもりでいたけれど、我慢できずに替え玉を頼んでしまったほどだ。

「美味かったろ?」

 そう訊いてきた清の顔はどこか得意げだった。

「……すげえ美味かった。あんだけ美味いんだから、もっと旗とか出して目立つようにすりゃいいのに」
「店主の趣味でやってるような店だからな。週に四日しか開いてねえし。ほら、これ見ろ」

 清が店の前の看板を指差す。確かに木曜日から日曜日の四日しか営業していないようだ。しかも夕方から夜にかけてと、一日に開いている時間も短い。外観が目立たないのも相まって、まさに隠れた名店と呼ぶにふさわしい店構えだ。

「賢、先に車乗ってろ。俺煙草吸ってから行くわ」
「ここで待ってるから吸えば?」
「寒くねえのか?」
「ラーメン食ったばっかだから身体温まってる」

 そうか、と言いながら清はジャージのポケットから煙草を取り出し、吸い始める。しかし隣の京谷に気を遣ったのか、一分くらいで火を消した。

「ゆっくり吸っててよかったのに?」
「俺のほうが寒くなって来たわ」

 確かに今日は寒いけれど、我慢できないほどではない。やはりこっちに気を遣ったんだろうなと思いながら、その優しさにまた胸が温かくなる。

「なあ、今日おっさん……清さん家に行っちゃ駄目か?」

 この人が一人で一軒家に住んでいるのは知っている。どんな家でどんな生活を送っているのか、この間からなんとなく見てみたい気がしていた。

「俺ん家なんか来てどうすんだよ? ゲームとかねえぞ」
「けど漫画は読んでるってこの間言ってたよな? それ読みに行く」
「今時の漫画はねえけどな。それでもいいなら、まあ来りゃあいい」
「ついでに泊まってく」
「お前な〜……。そういうのは事前にアポとっとくもんだろ」
「どうせ暇だろ? 明日は仕事休みだし」
「暇じゃねえ! けどまあ、別に構わねえよ。どうせ一人だし、今日も明日もなんも予定ねえしな。あ、でも親御さんにはちゃんと言っとけよ? 途中でお前ん家寄ってやるからさ」

 泊まりはさすがに図々しいかと内心で不安に思っていたけれど、清は別段迷惑そうな様子でもなかった。そのことに京谷は安堵しながら、今度はワクワクと胸を躍らせる。今日は寝るまでこの人といられるんだ。それを嬉しいと感じないわけがなかった。
 さっき言ったように、清は途中で京谷の家に寄ってくれた。京谷は着替えと旅行用の歯ブラシなんかをバッグに詰め、リビングでテレビを観ていた母親に外泊する旨を伝えて車に戻る。
 京谷の家から清の家までは十分ほどしかかからなかった。二階建ての洋風の一軒家だ。道路に面した庭はまあまあ広い。その横のカーポートに清は車を停め、「着いたぞ」と声をかけてくる。

「言っとくけど、あんま綺麗じゃねえからな。お前が来るってわかってりゃ軽く掃除したんだけど」

 玄関の鍵を開けながら清がそう言った。

「別に気にしねえよ」
「お前が気にしなくても俺が気にするんだよ。まあ、今日はもう諦めるわ。ここで待たせるわけにもいかねえしな。ほら、入れよ」
「うっす」

 中に入ると寒さが少し緩和されてホッとする。
 通されたリビング・ダイニングは十二帖ほどの広さで、奥が対面式のキッチンになっている。全体的に生活感はあるが、散らかっているというほどではない。この人はもっとだらしないイメージがあったから、少し意外だった。
 清はエアコンのスイッチを入れると、三人掛けのソファーにどっかと腰を下ろす。京谷もその隣に座った。

「今日も疲れたな〜」
「そうか? オレはまだやれそうだけど」
「若いっていいよな〜。俺にもそんな時期があったのにな〜」
「それ完全におっさん発言だぞ」

 うるせえよ、と清に頭を小突かれる。

「あ〜、もう動きたくねえな。賢、ちょっとそこの給湯ボタン押してくれよ。風呂入りたいからさ」
「オレを使うなよ」
「いいだろ、若いんだから。それにお前んが近いし」
「……しゃあねーな」

 言われたとおりに給湯ボタンを押しに行く。お湯張りを開始します、という機械的なアナウンスが鳴った。給湯が完了したのはそれから十五分くらいしてからのことだ。

「先入って来いよ。タオルは棚に入ってるの適当に使え」
「オレは別にあとでもいい。清さん早く入りたかったんだろ?」
「じゃあ一緒に入るか?」

 清がニヤリと笑う。

「……ふ、二人でとか狭いだろ。オレらどっちもそれなりの体格してんだし」
「なんだよ、釣れねーな。それともひょっとして恥ずかしいのか?」
「そ、そんなんじゃねえよ!」
「必死になる辺りが怪しいな。まあでも、そういうことにしといてやる。とりあえずお前から入れよ。客より先に入るわけにはいかねえから」
「……わかった」

 お言葉に甘えて、京谷は先に風呂に入らせてもらった。髪と身体を洗ってから、程よい温度の湯船に浸かる。自分の家の風呂よりゆったりしているが、清と二人で浸かるにはやっぱり少し狭そうだ。
 風呂から上がると清がお茶を淹れてくれていた。ソファーに座ってそれを飲みつつ、テレビを観ながら清が風呂から上がるのを待つ。
 清はこの家に一人で暮らしている。一人で暮らすにはずいぶんと広い家だが、元々ここには離婚した妻とその子どもとともに暮らしていたという。三人で暮らすなら確かにちょうどいい広さなのかもしれない。
 離婚したのは二年ほど前だと言っていた。特にそんな様子はないけれど、やはり清でも一人でいて寂しいと思ったりすることがあるんだろうか?
 清は二十分くらいでリビングに戻ってきた。冷蔵庫からビールを取り出して、それを美味そうに飲む。ごくごくと喉が動く様子を見ていると、ふいに目が合った。

「やらねえぞ?」
「別にいらねえよ、そんな不味いもん」
「飲んだことあるのか?」
「昔親父のを間違えて飲んだことある。死ぬほど不味くて、大人になっても絶対飲むもんかって心に決めた」
「ガキの頃と今とじゃ味覚も変わってるだろうよ。案外美味く感じるかもしれねえよ? まあ試し飲みもさせねえけど。二十歳になるまで我慢しろよ」
「だからいらねえって」

 それから二人でテレビを観ながらウダウダしつつ、時々他愛もない話をして夜の時間を過ごした。ロクな番組がなくなると京谷は本棚の漫画を読ませてもらい、そのストーリーがおもしろくて熱中していると隣からいびきが聞こえ始めた。

「おっさん」

 声をかけると、デカい図体がピクリと震える。

「やべえ、完全に寝てたわ……」
「オレも軽く眠くなってきた」
「じゃあそろそろ寝るか? お前どこで寝るよ? つっても客用の布団とかねえから、このソファーしか寝るとこねえけどな。それか賢が嫌じゃなけりゃベッドで一緒に寝るか? クイーンサイズだからそんな狭くはねえと思うぞ」
「……じゃあそれでいい。加齢臭とかしねえよな?」
「しねえよ! まだそこまで歳いってねえし! そんなこと言うやつは今から帰らせんぞ」
「冗談だって」

 清の寝室は二階にあり、八帖の部屋のど真ん中にダブルベッドが配置されている。ぐしゃぐしゃになった掛布団を二人で整えて、一緒にそれに包まった。

「賢は明日なんか用事あんのか?」

 背中のほうから問いかけられた。

「別になんもねえけど」
「じゃあ目覚ましかけねえぞ。起きるまで寝てる」
「わかった」

 それから五分もしないうちに清は軽くいびきを掻き始めた。さっきソファーでも眠っていたようだし、疲れていたのかもしれない。
 布団の中は、二人分の熱でずいぶんと温かくなった。京谷はしばらく睡魔が下りて来るのをじっと待っていたが、さっきまでの軽い眠気はどこかに飛んで行ってしまったようだった。明日は学校も休みだから、朝までに眠れればいいかと思いながら、清のほうに寝返りを打つ。
 暗闇の中、清の後頭部が薄っすらと見えた。なんとなく手を伸ばして、短い髪に触れる。少し硬いような感触。短いからそう感じるのかもしれない。
 遠慮して少し離れていた距離を、清が寝ているのをいいことに京谷はそそくさと詰めた。そして呼吸に合わせて規則正しく動く背中に、そっと額を押しつける。
 熱い背中だ。決してガタイがいいわけではないが、それでも京谷にとって誰よりも頼れて、誰よりも安心できる背中だった。こうしているとすぐに眠れる気がする。そう思っていると、清がいきなりもぞもぞと動き始めたから驚いた。目を覚ましたわけではなく、単に寝返りを打っただけのようだった。
 無防備でだらしない寝顔が目の前にある。すきっとした頬のラインを指でなぞると、チクチクとした無精髭の感触がした。そのまま下唇を指で軽く押さえる。フニフニしていて柔らかい。
 どうしようかと迷いながら、京谷はその唇に自分の唇を押しつけた。ほんの一瞬の、触れるだけのキス。けれどその一瞬のうちに体温が一気に跳ね上がり、のぼせてしまうような感覚に陥る。
 自分の気持ちには当の昔に気づいていた。おっさんでも、バツ一でも、この人のことが好きでどうしようもないのだとわかっていた。そばにいたい。身体に触れたい。痛いほど純粋な恋心が、京谷の胸に中でその存在を大きく主張している。
 温かい清の胸元に京谷は顔を埋めた。大好きな人の匂いが充満する。このまま死んでもいいと思えるほどの満足感を抱きながら、京谷は知らぬ間に眠りに落ちていた。



続く





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