05.

 季節が巡るのは本当に早い。この間まで凍るような寒さに苛まれていたのが、今はもうそこらで桜が咲く時期になっている。
 無事に三年生に進級し、部活にもちゃんと出続けている京谷は、この日約一カ月半ぶりに町内会バレーの練習に参加していた。ここの顔ぶれは春になっても相変わらずだが、そのおかげで京谷は人見知りせずに済んでいた。
清も相変わらず冴えない面をしている。そしてそんな清に想いを寄せる自分も相変わらずだ。彼を好きになってもう一年以上が過ぎたのかと思うと、一途な自分に呆れて溜息が出そうになる。
練習が終わると以前のように清が車で乗せて帰ってくれた。途中でいつものラーメン屋に寄って、奢ってくれる。腹も満たされて再び車に乗り込んだが、清はすぐには発進させなかった。

「どうかした?」

 運転席に清の様子を窺う。目が合うとなぜだか困ったように笑って、窓の外に視線を移した。

「大事な話があるんだけどよ、いざ話そうと思ったらなんか照れ臭くてな」
「大事な話?」
「うん。他のやつにはまだ言ってねえし、言う必要もねえかと思ってんだけど、お前にはちゃんと話すべきだと思った」

 ひょっとしてバレーをやめてしまうのだろうか? 清はよく動くほうだし、他の面々に比べればかなり上手いほうだが、年齢は一番上でしかも一人だけ離れている。あとは若いのに任せようと、身を引くことを考えていたとしてもおかしくない。
 京谷としてはやめてほしくなかった。清とバレーができなくなってしまうのは寂しかったし、そこしか接点がないからこそ、彼と疎遠になってしまうのではないかと心配だった。

「バレー、やめちまうのか?」

 恐る恐る訊ねる。すると清は豆鉄砲でも喰ったようにキョトンとしたあと、「ちげえよ」と首を横に振った。

「バレーはまだやめねえ。若いやつらに俺の場所譲ってやるつもりはねえよ。つーかそれだとお前にしか言わねえのはおかしいだろ」
「確かに……。じゃあ大事な話ってなんなんだよ?」
「えっとだな……まあ、あれだ。俺は今年三十八になる。三十八で独り身ってのは正直寂しいし、先のことも不安なわけだ。だから……再婚することにしたんだ」
「えっ……」

 清の口から放たれた言葉に、京谷は余命を宣告されたような衝撃を受けた。

「歳が歳だからもう諦めかけてたけど、俺でもいいって言ってくれる女がいたんだ。特別美人ってわけじゃねえけど、家庭的だし、優しいし、こりゃもう結婚するしかねえって思った」

 心が急速に熱を失っていく。季節は春を迎えたはずなのに、自分だけが真冬に逆戻りしたような、そんな感覚に襲われる。

「離婚したの、俺にとっちゃかなりショックなことだった。だからもう二度と結婚なんかするもんかって思ってたけど、家に帰ったら迎えてくれる奥さんがいて、大事にできる子どもがいて、そういうのがどんだけ幸せなことかってのを一回知っちまったから、段々とそれが恋しくなっちまった」

 足が震えた。どうして震えるのかわからないけれど、それを止める術がわからない。

「まあ、そういう話だ。賢にとっちゃどうでもいい話だったかもしれねえけど、一応聞いておいてほしかった」
「……いつからそいつと付き合い始めたんだ?」
「去年の夏くらいだよ。知り合ったのはちょうど一年くらい前だけど、お前が部活のほうに戻ってすぐくらいに付き合い始めた」
「どうしてもっと早く言ってくれなかったんだよっ」

 声音が自然と荒くなる。もっと早くに言ってくれれば、ショックなのは変わらなかったとしても、その大きさは今より少しましだったかもしれない。二人で行ったあの東京旅行を最後の思い出として、もっときっぱり諦められていたかもしれない。けれど今の京谷の気持ちは、あのときよりも大きなものになっている。簡単に引き抜くことができないほど、心の中に強く根を張っている。

「お前、おっさんの恋愛話なんか興味ないだろ?」
「あんたの話ならなんだって興味あるよ! オレは……もっと早く知りたかった。そしたらこんなっ……」
「賢?」

 京谷のただならぬ様子を感じ取ったのか、清が心配そうに顔を覗き込んでくる。それから逃げるように窓の外に顔を背け、京谷は両手をきつく握り締めた。

「そんな相手がいるんなら、オレのことこんなふうに構うなよ。旅行なんか連れてってんじゃねえよ。ちょっと特別みたいな扱いされて、オレがどんだけ舞い上がったと思ってんだよ」
「仕方ねえだろ。お前のことが可愛かったんだから。今だってそう思ってる」
「じゃあ女なんかつくってんじゃねえよ! オレのことだけ相手してればいいだろ!」

 清のことを諦めようと思っていた半面で、期待していた部分も少なからずあった。だって本当に何でもない相手と一緒のベッドで寝られるはずがない。腕枕なんかできるはずがない。男同士でもそれをしてくれたのは、清にも何か特別な感情があるからだと少しだけ信じていた。

「何言ってんだよ、お前……。子どもじゃねえんだから、そんなわがまま言うなよ。そりゃあその年で恋愛なんてどうなんだってお前は思うのかもしんねえけど、俺にだって自由に恋愛する権利くらいあっていいだろ?」

 確かにその通りだ。清の人生は清のものだけであって、そこに京谷が口を挟む余地なんてない。誰を好きになりその人とどうなろうと、それは清の勝手だ。それをわかっていても、自分ではない誰かを選んだことに対する怒りと一抹の寂しさを京谷は堪えることができなかった。

「うちに泊まらせたり、また旅行に行ったりってのはできねえかもしれねえけど、こうやって飯食ったり、一緒にバレーはできんだろ? それじゃ駄目なのか?」
「だってあんたは、オレといるよりその女と一緒にいるほうがいいんだろ? それをわかっていながらあんたと一緒にいんのは虚しいだけだっ」
「賢、さっきから言ってることおかしいぞ。なんだってそんなに突っかかるんだよ? 俺が再婚するのがそんなに気に入らねえのか?」
「あんたのことが好きなんだよ!」

 一生言うつもりのなかった言葉が、ぽろりと零れた。

「あんたが女のことを好きになるみたいに、オレはあんたのことが好きなんだよっ」

 キスをしたい、身体に触れたい。この人のそばにいながら、いつもそう思っていた。自分のものにはならないと半ばわかっていながらも、一度抱いてしまった気持ちを自分の中から消すことはできなかった。
 清は目をぱちくりさせる。たぶん京谷の気持ちには気づいていないだろうと思っていたけど、やはりそうだったようだ。

「好きって……俺男だぞ? しかもこんなおっさんだし」
「おっさんでもなんでも、あんたのことが好きなんだよっ。ずっと好きだった。だからあんたが構ってくれるのすげえ嬉しかったし、再婚なんかしてほしくない」

 子どものわがままと言われれば、確かにそうなのかもしれないと自覚している。けれどどうすればこのやり場のない気持ちを消化できるのか、どうすれば確定してしまった失恋を受け入れられるのか、京谷にはわからなかった。
 清はハンドルに顔を伏せた。しばらく唸るような声を出したあとに、再び顔を上げる。だけど視線がこちらに向くことはなかった。

「……俺も賢のこと好きだよ。けどそれは弟とか息子を思うような気持ちであって、お前の好きとは違う。だから、ごめんな……」

 静かだが、どこか戸惑うような気配を押し殺しきれていない声が、残酷な事実を伴って言葉を発する。それが京谷の頭にガツンと落ちてきて、目の前が真っ暗になった。いや、元々明るい未来なんかこの恋にはなかったんだ。あらかじめ決まっていた終わりが少し早まっただけ。それだけだ。
 もうここにはいられない。この人のそばにはいられない。京谷はドアを開いて、車を出て行こうとする。しかし、その寸前で清に腕を掴まれた。

「どこ行くんだよ」
「どこって……家に帰るんだよ。こっからなら歩いて帰れる」
「ちゃんと家まで送ってくって」
「いらねえよっ。どうせオレのこと気持ち悪いとか思ってんだろ!」
「思ってねえよ! 俺がお前をそんなふうに思うわけないだろ!」
「そんなの嘘だっ。だってオレ、ホモなんだぞ? そんなの普通の男からしたら鳥肌もんだろ。あんたがどんだけ優しくたって、それを簡単に受け入れられるはずがねえ」
「勝手に決めんな! 俺は賢がホモだろうがなんだろうが、全部受け入れるよ。偏見なんてしない」
「でも再婚するんだろっ」

 強張った表情は返事をしなかった。京谷の腕を掴んでいた清の手の力が徐々に抜けていく。それが清の答えだった。

「あんたなんかまた浮気されて、離婚しちまえばいいんだっ!」

 声高らかに言い放って、京谷は車のドアを力いっぱいに閉めた。そして夜道を全力で疾走する。清はたぶん追いかけてはこないだろう。二人はここから別々の人生を進んでいく。それが交わることはきっと、永遠にない。
 泣きたい衝動に駆られたが、なんとか堪えた。泣いたって失恋した事実は変わらないし、きっと余計に惨めな思いをするだけだ。いつかはこうなることを覚悟していたはずなのに、淡い期待もあったせいで辛さが増す。
 心が痛い。身体のどこにあるのかわらかないそれが、ズキズキと痛んで京谷を苦しめる。失恋をしたのは何もこれが初めてのことじゃない。だけど今までは、その相手を眺めている間にそっと終わりを迎えるパターンばかりだったから、少しのショックはあっても「そんなもんか」と簡単に受け入れることができた。
 けれど今度は違う。清とは数え切れないほど会話を交わした。二人で共有した時間があまりにも長かった。だからこそ、彼に対する気持ちがこれまでの恋にないくらい、大きなものになっていた。そしてそれに比例して、失恋の辛さも大きくなってしまった。
 あんなおっさん好きになるんじゃなかった。こんな思いをするなら、関わらなければよかった。だけどきっと自分は何度生まれ変わっても、あの人と出逢うと好きにならずにはいられない気がする。関わらずにはいられない気がする。
 走るのに疲れてきて、京谷はノロノロと通りがかった河川敷に下りる。綺麗に整えられた芝生を上に腰を下ろして、ふと別れ際に自分が放った台詞を思い出す。今更だが、八つ当たりもいいところだと、自分に呆れて溜息が出た。
 ジャージのポケットから携帯電話を取り出し、清のプロフィールを開く。少し迷いながらも、覚悟を決めて電話をかけた。

『賢?』

 清はワンコールで出た。

「……さっきは離婚すればいいなんて言って悪かった」
『いや、それはいいけどよ。俺のほうこそ……その、お前の気持ちに気づかなくてごめんな。今まで無神経なこと言ったり、やったりしたんじゃないのか?』
「清さんが謝る必要なんかねえよ。好きになったオレが悪いんだからさ」
『……今どこにいるんだ?』
「もう家に着いた」

 河川敷にいると言うと要らぬ心配をかける気がして、京谷は嘘をついた。

「あんたはどこにいるんだよ?」
『まださっきの駐車場にいるよ。お前のこと心配だったし、けど追いかけるわけにもいかねえと思って、一人でグズグズ悩んでた』

 自分のことを気にしてくれていたのかと思うと嬉しくなる。だけど切ない気持ちのほうが大きかった。

「オレは大丈夫だから、清さんも早く家に帰れよ。明日仕事だろ?」
『……そうだな。とりあえずお前が無事なの確認できたし、これから帰るわ』

 声を聞いていると、今度は顔を見たい衝動に駆られる。だけどそれだけは駄目だ。会えばきっと離れたくなくなるし、彼のことを諦められなくなる気がする。

「清さん……今までいろいろありがとな」

 言いたいことはもう今全部言っておこうと思った。それで終わりにするべきだと、京谷は別れを受け入れるために言葉を紡ぐ。

『急にどうした?』
「オレ、清さんとバレーすんのすげえ楽しかったし、清さんがいたから部活に戻る気にもなれた。今はまあ、他の部員とも打ち解け合ってるって言っていいのかわかんねえけど、それなりに上手くやれてる」
『それはお前自身が頑張った結果だろ?』
「清さんがいなけりゃ頑張ろうとさえ思えなかった。だからすげえ感謝してる。あと、旅行も楽しかった。それだけじゃねえ。あんたのそばにいると、何してても楽しかったよ。話さなくても、ただ一緒にいられれば全部楽しかった。そう思えた相手はあんただけだ。これからまたそういうやつに出逢う日が来るのかもしんねえけど、今のとこあんたが一番だよ。おっさんだし、バツ一だし、カッコいいとこなんかあんまなかったけど、それでも一番好きだった」

 京谷にとって清は、恋い慕う相手であると同時に、心の拠り所でもあった。そばにいるといつも安心できた。包み込むような温かい優しさが、とても心地よかった。

「そっちのバレーにはもう行かねえよ。清さんにはもう会わない。会ったらいつまでも清さんのこと諦められなくなるから。話すのだってこれが最後だ。メールも電話もしねえよ。だから……さようなら、清さんっ」
『賢っ――』

 電話の向こうで自分の名前を呼ぶ声が聞こえたけれど、京谷は通話を切った。そして電話帳から清のプロフィールを消そうと、ゴミ箱マークをプッシュする。

 ――1件のプロフィールを削除してもよろしいですか?
 OKボタンを押そうとした指が止まる。もう絶対に連絡することはないのに、残していたって意味がないのに、繋がりを完全に断つことが恐くて思い留まる。
 じっと見つめていたディスプレイに、水滴が零れ落ちてきた。どうやら雨が降ってきたらしい。ずぶ濡れになる前に家に帰ろうと立ち上がる。その瞬間に気がついた。ディスプレイに降ってきたのは雨なんかじゃない。自分の涙だ。目に映る景色すべてが、フィルターでもかけられたように滲んで見えた。

「……っ」

 ずっと好きだった。好きだったから好かれたかったし、自分の中で清が一番であるように、彼の中の一番になりたかった。だけどそこにはもう別の誰かが座っている。自分ではない誰かが、あの優しい男を独り占めしているのだ。
 この恋はこれで本当におしまい。起こってしまった現実を取り消すことはできないし、清の心を奪い返すことなんてなおのことできない。京谷には諦めるという選択肢しか残されていなかった。
 早く清を忘れてしまいたい。あの男のことなんて微塵も思い出す暇がないくらいの強烈な恋に落ちたい。
 次にそんな相手が現れるなら、せめて自分と同じゲイセクシャルであってほしいと、京谷は泣きながら星空に願った。




続く





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