06. 窓の外で小鳥の鳴く声がした。その声に導かれるようにして京谷賢太郎は目を覚ます。 起きると掛布団がベッドの下に落ちていた。真冬に布団を被らないで寝るなんて自殺行為に等しいが、それでも風邪すらひかずに済んだのは、エアコンをかけっぱなしにしていたのと、京谷の背中にぴったりとくっついて眠る男の体温のおかげだろう。 昨日寝る前はなんとも思わなかったが、青臭いような独特の臭いが部屋の中に漂っている。原因は枕元のゴミ箱に詰め込まれていた。残滓を拭ったティッシュの山。二人分だと量も臭いも凄い。 「照島」 名前を呼びながら、寝ている男の肩を揺さぶった。あどけない顔立ちが不愉快そうに眉をひそめる。 「起きろよ。部活遅れんぞ」 うーん、と照島は呻るような声を上げて身じろぎしたが、それだけだった。放っておいてもそのうち目を覚ますだろうと早々に起こすことを諦めて、京谷は自分だけ出かける準備をすることにした。 うがいをし、顔を洗い、コップ一杯の水を飲む。起床後のいつもの習慣を終えてから、昨日コンビニで買っておいたサンドイッチを食べる。照島がベッドから起き上がったのはその頃だった。 「あー、一人だけ朝飯食ってる。一緒に食おうと思ってたのに」 起きるなり文句をつけてくる照島を、京谷は軽く睨んだ。 「一回で起きないお前が悪い」 「だって眠かったんだもん。ほら、昨日はお互い頑張ったじゃん? ……ってうわ、イカ臭っ! ゴミ箱めっちゃくせえよ!」 「朝から騒々しいやつだな……」 わざと冷めたような視線を送りつつ、京谷は手早く朝食を済ませる。 照島遊児は同じ大学の同級生だ。学部も部活も同じで顔を合わせる機会が多く、自然と行動を共にするようになっていた。 彼が自分と同じゲイだと知ったのは、大学入学から半年後のことだった。部活の一つ上の同性の先輩を好きになってしまったと、彼に悩みを打ち明けられたのがきっかけだ。照島を安心させたいというのもあって、京谷も自分がゲイであることを早々に告白した。そしてその日のうちに、お互い顔がタイプの範疇ということもあって、身体の関係を持った。 実は京谷にとっても、そして意外なことに照島にとってもそれが初体験だった。だからなかなか上手くいかないこともあって痛い思いもさせたけれど、それも一年と少し経った今となってはいい思い出だ。 一年と少し……もうそんなに経つのかと京谷は時々思う。あれから照島とは何度もした。けれど恋人同士にはならなかったし、たぶんこれから先もそういうことにはならないだろうと思っている。身体の相性はいいし、友人としても好感を持っている。でもきっと、それ以上の感情を抱くことはない。それは照島のほうも同じようだった。 「あー、髪めちゃくちゃ。セットする時間あるかなー」 「言ってる間にとっとと動けよ。あと髪は切れ。そろそろ鬱陶しい」 「もう予約してあるから大丈夫!」 結局照島は出かける直前まで騒々しかった。いや、京谷の部屋を出てからも一人でよく喋ったが、いつものことなので今更気にしない。 今日は土曜日。大学の講義は休みだが、午前からバレー部の練習が入っていた。京谷のアパートから五分ほどで体育館に到着し、フロアに入る。中ではすでに一年生たちがネットの準備をしていた。 「――おはよう」 シューズを履いていた二人に、聞き慣れた声がかかる。一つ上の先輩で、このチームのキャプテンでもある澤村大地だった。彼は二人の荷物に並べるようにして自分の荷物を置いた。 「はよーございます!」 「うっす」 挨拶を返しながら、隣の照島のテンションが一段階上がるのがわかった。あどけなさの残る顔が嬉しそうに笑う。相変わらずわかりやすいやつだ。 照島が想いを寄せる一つ上の先輩――それは澤村のことだった。真面目で優しく、頼りになる彼のことを京谷も結構好いている。むしろ照島が彼を好きだと言い出さなければ、自分が好きになっていたかもしれない。それほどまでに魅力的な男だ。 照島のわかりやすい態度に、いつ澤村がその中にある気持ちに気づくだろうといつも冷や冷やしているが、今のところそんな様子は見られなかった。もちろん澤村が気づいていながら気づかないふりをしている可能性もなくはないが、失礼ながらそんなことができるほど器用な人間には見えなかった。 思えば照島の片想いも、もう一年半以上も続いていることになる。一途だと言えば聞こえはいいが、望みの薄い恋にいつまでも縋っているのは、第三者から見れば時間の無駄以外の何物でもないと言える。 けれど京谷は照島の片想いを笑えないし、時間の無駄とも思えない。同じような片想いをした経験が自分にもあるからだ。 頭に中に、ふと一人の男の顔が浮かんでくる。歳の離れたバツ一のおっさん。冴えない顔をしていたけど、優しくて温かいあの人のことを京谷は死ぬほど好きだった。そして気持ちの大きさの分、失恋に至ったときの辛さも大きなものになった。あのとき負った傷は時間とともに薄れていったけれど、彼との最後の日のことを思い出すと、未だに少しだけ寂しいような気持ちに駆られる。 練習が始まって、二人組でパスをする。照島は澤村のほうに行ってしまったので、京谷は別の同級生と組んだ。 パスと立て続けに行われたシート練習のあとの休憩時間、照島は妙に上機嫌だった。きっと澤村と何かあったんだろうなと察したが、特に何も訊かないことにした。 「今日大地さんと飲みに行くんだー」 だが、照島は訊かれなくても上機嫌の訳を勝手に話し出した。 「よかったな」 「そんだけ!?」 「他に何を言ってほしいっつーんだよ……」 「羨ましいとか、オレも行きたいなーとかあるだろ?」 「あー、はいはい。羨ましい、羨ましい」 「何そのあからさまな棒読み」 照島は頬を膨らませる。 「でもよかったじゃねえか。大地さんと二人で飲みなんて久しぶりだろ?」 「最近忙しいみたいだったからねー。もうすんげえ楽しみ」 「酔って変なことすんじゃねえぞ。そのフォローとかマジでしたくねえから」 「ちゃんとウコン準備しとくから大丈夫!」 本当に大丈夫なのかどうかは少し心配だが、嬉しそうな照島を見ていると京谷もあったかい気持ちになる。友人として純粋に、照島に幸せになってもらいたいと思っているからだ。そして一方的な片想いの末に痛い失恋をし、河原で泣きじゃくった自分のようにはならないでほしいと、心の底から願っていた。 ――だけど現実はそんなに甘くない。 その日の夜、テレビを観ながらウトウトしていた京谷の耳に、インターホンの音が聞こえた。……なんとなく照島な気がした。 玄関のドアを開けるとそこには予想したとおり、照島の姿があった。目が合うと照島はニッと笑ったが、その目は明らかに泣き腫らしたように赤くなっている。 「何があったんだよ?」 とりあえず彼を中に入れてから、事情を訊ねた。 「オレさ、酔った勢いで大地さんに告っちゃった。で、フラれた」 泣き腫らした顔を見て、たぶんそんなことがあったんだろうなと予想はついていた。 「……酔って変なことしないよう気をつけろって言っただろ?」 「だってなんか、今言っとかなきゃって気分になって……。それに酒の席での告白なら酔っぱらいの戯言みたいな感じで済ませられるかと思ってさ。でも大地さんすげえ真剣な顔して断ってた。オレも思ってた以上にショック受けちゃって、冗談みたいな雰囲気に切り替えられなかったんだよっ」 辿り着いてほしくなかった、照島の片想いの結末。結局京谷の願いも届かないまま、悲恋で終わってしまったようだ。 「大地さん言ってた。そういうのに偏見はないから安心しろって。今までどおりの先輩後輩として仲良くしようって。それ聞いてちょっとだけホッとしたけど、でももうオレが大地さんの恋人になることはできないんだって思うとやっぱ悲しくて、涙出そうだったから慌てて店出てきて……。なんかもう、すげえ苦しいよ。辛いし、悔しいし、どうすりゃいいんだよっ。どうすりゃ大地さんのこと、忘れられるんだよっ」 照島の顔が苦しそうに歪んだかと思えば、瞳の端から涙が零れ始めた。京谷は慌てて彼の身体を抱きしめる。こうしないと、照島が消えてなくなってしまう気がした。 「わりい、照島。オレこういうとき、こうする以外にどうすりゃいいのかわかんねえ」 「……こうしてくれるだけでいいよ。こうしてくれるだけで、すげえ安心するから」 耳元で照島の嗚咽がした。それを聞きながら、昔の失恋をなんとなく思い出す。あの人の車の中で、再婚をすると告げられた瞬間。一生言うつもりのなかった想いを告白した瞬間。今も耳に残る、最後に電話で話したときの声。そして失恋の辛さに堪えられず、一人泣きじゃくった自分。 今の照島の辛さは痛いほどわかる。だからこそ照島が少しでも楽になれるように、ちゃんと立ち直れるように、自分が支えてやりたいと思った。負った傷もいつかは時間が癒してくれる。だけどきっとそこに誰かの支えがあったなら、もっと早くに傷は完治するはずだ。 京谷はあの失恋から立ち直るのにずいぶんと時間がかかった。部活に打ち込むことで気を紛らわすことはできたけど、ふと一人の時間がやってくると彼のことを思い出して寂しい気持ちになった。 照島には同じような思いをしてほしくない。早く立ち直ってほしい。そう気遣うほどに照島のことを大事に想っている自分に気づいて、京谷は自分で少しだけ驚いた。 熱を持った襞が絡みつくようにして京谷自身を締めつける。照島の中に己を挿し入れたときのその感触も、もうずいぶんと馴染みなものになってしまった。しかも昨日もしたばかりだ。それでも京谷は照島を抱きたかったし、照島もそれを求めているようだった。 じんわりとそこが京谷自身の大きさに拡がったのを感じてから、ゆっくりと腰を動かし始める。照島が痛がらないのを確認して、その動きを徐々に速める。 「あっ、あんっ、ああっ……あっ、あっ」 嬌声を零す照島の口にキスをして、細いが引き締まった身体を抱きしめながら激しく腰を振った。痕が残るくらい強く首筋に吸い付く。奥深いところを擦って自らも快感を貪りつつ、腹に当たっていた照島の性器を扱いてやった。 「あっ、駄目っ……それ、したらすぐイっちゃうからっ」 「すぐイってもいい。なんか今日はオレもあんま余裕ねえから」 最初は優しくしようと思っていたのに、結局欲望に負けて腰を叩きつけるように激しく律動する。けれどそれが照島にはよかったようで、甘さを孕んだ喘ぎ声はよりいやらしい響きを含ませた。 「あっ! 京谷っ……駄目、イっちゃう」 「オレもやべえっ」 そうしていつになく早いタイミングで京谷は達し、ほぼ同時に照島の性器も白濁を迸らせた。 後始末と身体を洗い終えてから、いつものように狭いベッドに二人で横になった。けれどいつもと違って、滅多にしてやらない腕枕を今日は照島に提供してやる。照島も素直に甘えてきた。 「なあ、オレらが恋人同士になることってあると思う?」 照島が急にそんなことを訊いてくる。 「オレはないと思うけど」 間を空けずに京谷はそう返事した。 そういうことを考えたことがないわけじゃない。照島の顔は結構好きだし、性格は互いにずいぶん違うが不思議と気は合う。それでも自分のこの彼を大事に想う気持ちが友人以上のものになることはなかったし、これからもない気がする。何が駄目なのかは自分でもよくわからなかったが、そういうものなんだろうと受け入れていた。 「あ、やっぱり? オレもぶっちゃけそういうことにはなんねえだろうなって思ってた。変だよな。オレお前のこと結構好きなのに、どうして恋しないんだろ?」 「恋愛するにはお互いなんか足らねえんだろうよ。それがなんなのか自分でもよくわかんねえけど。オレはさ、お前みたいなダチって結構貴重だと思ってる。相方もそれはそれでいいもんなのかもしんねえけど、自分の弱い部分とか全部曝け出せるのは、結局ダチの前だけだと思う」 「オレ京谷の弱いとこなんか見たことないんだけど?」 「今はな。でもこれからそういうこともあるかもしんねえだろ? 今のお前みたいに」 「弱ってる京谷かー。そういえば例のバツ一のおっさんに振られたとき、すげえ泣いたって言ってたよな」 あの失恋の話は、結構前に照島にも話したことがある。ノンケに恋をして振られるという話の展開は、今回の照島の失恋と同じだ。 清――かつて京谷が惚れたあの人は、今何をしているのだろうか? 再婚して、幸せな家庭を築けているだろうか? そうだったらいい。失恋した当時はそんなふうに思えなかったけれど、今は純粋に彼の幸せを願える。あの恋は本当に終わったんだなと、京谷は今更ながらしみじみと実感していた。 |