08. 久しぶりに上がった清の家は、最後に来たときとあまり変わっていなかった。相変わらず綺麗にしているようで、リビングの白木目の床にはゴミ一つ落ちていない。本人は決して綺麗好きなわけではないと言っていたが、ズボラな京谷からしてみれば十分その素質はあるように思う。 買ってきた酒とつまみをリビングテーブルに並べる京谷の目の前で、清は三人掛けのソファーにどっかと腰を下ろした。「もう動きたくねえ」と言いながら身体をだらけさせる。 「飲む前に風呂入らねえと。めんどくせえな〜……。賢も入るだろ?」 「俺は出る前に入った」 「マジか。まあいいや。とりあえず栓して給湯ボタン押してくれよ。掃除だけは済ませてあるから」 「そんくらい自分でやれよ……。俺入らねえし」 「泊まらせてやるんだからいいだろ? ほら、早く」 「人使い荒いな……」 文句を垂れながらも結局は清の言うとおりに風呂の準備をしてやって、京谷もソファーに腰かけた。 それからテレビを観ているうちに給湯が終わって、清が一人で風呂に行く。確か風呂は短いほうだったなと昔のことを思い出していると、案の定、十分ほどで清は上がってきた。 「そんじゃとりあえず乾杯すっか」 ほれ、と言いながらビール缶を突き出してくるから、京谷は飲みかけた梅酒の缶で乾杯してやる。 「にしても梅酒か。顔に似合わず可愛いの飲むんだな。ビールは全然駄目なのか?」 「あんま好きじゃねえ。アルコールより匂いとか味で気分悪くなる」 初めてビールを飲んだ日は散々だった。とにかく味が気持ち悪くて、でも先輩たちに注がれて飲まないわけにもいかず、飲み会が終わる頃には気分が悪すぎてトイレからしばらく出られなくなっていた。 もう二度とビールなど飲むものかと心に誓っているが、アルコールに弱いというわけではないので、そういう席では日本酒や梅酒を飲むことが多い。どちらかというと日本酒のほうが好きだが、さっきのコンビニには京谷の好きな銘柄が売ってなかった。 「でもマジでお前とこうして酒飲む日が来るとは思わなかったな。すんげえ変な感じするよ。俺の中じゃ高校生で止まったまんまだから。そういやお前、彼氏とかいんのか?」 “彼女”ではなく“彼氏”と訊いてくるということは、やはりあの告白のことはちゃんと覚えているようだ。 「そんなんいねえよ」 「へえ、意外だな。お前その顔だと結構モテるだろ? 言い寄られたりしねえの?」 「……なくはねえけど」 自慢じゃないが、告白されたことは何度かある。けれどどれもこれも性格が合わなさそうだったから、結局一度も交際をしたことがなかった。 「やっぱそうなんか。いいなあ、男前って。俺もどうせなら男前に生まれたかったよ」 「おっさんも普通に男前だろ」 言ったあとに京谷ははっとなる。こんなことを言うと、今も“そういう”気持ちがあるんじゃないかと清に誤解されてしまう。いや、確かに今もあるのだけれど、せっかく普通の師弟のような雰囲気でいられたのに、こんなことであのときの気まずさを思い出させてしまうなんて駄目だ。 「やめろよ。普通に照れるだろうが」 だが、清はへらりと笑ってそう言った。気まずさなんて少しも感じさせない、いつもの優しい顔だ。 「賢はお世辞とか言えないだろ? だから今の台詞も本気だった。そう思っとくよ。嬉しいからな」 「オレに言われて嬉しいのか?」 「当たり前だろ。自分の顔褒められて嬉しくないやつなんかそうそういねえよ」 確かにそうだけど、と京谷は曖昧に相槌を打つ。結局のところ、自分の気にしすぎなのかもしれない。自分の告白が清に与えた影響なんて、きっとほんの些細なものだったのだ。 「賢は増々男前になったな。元々男前だったけど、ガキっぽさが薄れて色気が出てきたな。それでも俺ん中じゃお前は“可愛いやつ”だよ。そういうのってたぶんずっと変わんねえんだろうな」 ふいに頭を撫でられ、京谷は驚いて思わず過剰に反応してしまった。それを見た清は苦笑する。 「やっぱもう頭撫でられんのは嫌だよな」 「別に嫌ってわけじゃねえ。いきなりやるからビビっただけだ」 「そうか? じゃあ遠慮なく撫で回してやる」 昔はこんなスキンシップ当たり前だった。清は京谷の頭を撫でるのが癖みたいな人だったし、京谷も彼に撫でられるのが好きだった。大きくて無骨な手をしているけれど、その手にいつも優しさを感じていた。 一緒に食事をしても、いろんな話をしても、さっきからあと一歩詰められなかった距離が今ようやくゼロになった気がする。なんだか昔に戻ったみたいだ。懐かしくて、嬉しいような、切ないようなよくわからない気持ちになる。 だが――頭を撫でていた手にいきなり身体をグッと引き寄せられ、抱きしめられるような形になって、昔を懐かしむ気持ちは一気に弾け飛んだ。 「な、何してんだよ!?」 「エネルギー補給」 思わず声を上擦らせた京谷に対し、清はいつもどおりの暢気な声でそう言った。 清の匂いが鼻孔をくすぐる。物理的な距離もなくなったんだと実感して、体温が一気に跳ね上がった。 昔一度だけ清に抱きしめられたことがある。けれどあのときにはなかった甘さや熱っぽさのようなものが、今の抱擁には潜んでいる気がした。 「エネルギー補給ってなんだよ。意味わかんねえし……」 「寂しかったんだよ。ずっとお前に逢いたかった」 甘えるような声が耳朶をくすぐる。 「う、嘘だっ」 「嘘なもんか。俺はお前に嘘ついたことなんかないだろ?」 「けど、全然連絡なんてくれなかったし、オレの試合だって観に来なかったくせにっ」 「振っておいて、どの面下げて連絡とれっていうんだよ。それにお前は俺の声なんぞ二度と聞きたくないもんだと思ってた。実際そう思ってたのかもしんねえけどな。それと試合はちゃんと観に行ってたぞ。俺がいるってわかったらお前が気にするかもしれねえから、隅のほうで帽子被って観てた」 「けど結局再婚したじゃねえか!」 あのとき清は京谷の心を置き去りにして、他の誰かの元へ行ってしまった。大切な思い出だけを残して、京谷から離れていってしまった。――いや、離れたのは自分のほうだ。近くにいようと思えばいられたし、バレーだって一緒にできたはずだ。けれどどこの馬の骨とも知れない女と幸せにしている彼を目の当たりにすることに、とても自分の心がついていけるとは思えなかった。だから居心地のよかった彼のそばを自分から離れたのだった。 「再婚してからも、ずっとお前のこと考えてたよ。今何してるんだろうとか、俺に振られてずっと落ち込んでるんじゃねえかとか、いつも心配してた」 「そんなのただ同情だっ。幸せなやつがそうじゃないやつを憐れんでるわけだ。あんたは奥さんがいて幸せだったから、人のこと憐れむ余裕があったんだよっ」 「憐れむとか、そんなんじゃねえよ。俺がお前と一緒にいて、飯食ったり一緒に寝たり、旅行に行ったのは本当にあったことだろ? それだけ親密だった相手のこと心配すんのは普通のことだろうが。まあこんなこと言われたってお前は別に嬉しくなんかねえだろうけどな。結局、俺はお前を選ばなかったし」 二人の関係を切り裂いたのは、清の選択だった。いや、違う。清を好きになった自分だ。自分が好きにならなければ、清の望む親子や兄弟のような師弟関係でいられただろうし、こうして口論になることもなかっただろう。 「……好きになって悪かった」 言葉が、後悔の気持ちを滲ませながら零れる。 「謝るようなことじゃねえよ。そんなの人の勝手だろ」 「けどやっぱ嫌だっただろ? それにオレが好きって言わなきゃ、清さんは余計な心配しなくて済んだし、こういう重い話にはならなかった」 「あの告白がなかったとしても、お前が俺の目の届かないところに行っちまったら、同じように心配してるよ。それに正直言うと、お前の告白は嬉しかった。人から好きなんて言われたことなかったからな。いつも自分から押して、口説き落としてようやく言ってもらえるような感じだったし。情けねえだろ? でも俺はお前と違って男前じゃねえから、自分から行くしかなかったんだよ」 「清さんは男前だよ。俺はその顔すげえ好きだった」 「ありがとよ。褒められるの、今日二度目だな」 清はしばらく無言だった。けれど京谷を腕の中から解放することもせず、じっと動かないままに時が過ぎていく。 「……お前に逢いたかったのも、心配してたってのも嘘じゃないからな」 ポツリと呟かれた言葉に、京谷は頷いた。 「わかってるよ。つーかおっさん、いつまでオレのことこうしてんだよ?」 「いいだろ、別に。寂しかったんだよ」 「ちょっと前まで奥さんいたくせに」 「でも今はもういない。誰もいねえよ」 誰もいないなら、自分はまた彼のそばにいてもいいのだろうか? 昔みたいにこの家に入り浸って、彼のことを独占してもいいのだろうか? 駄目だ、と京谷は思い留まる。確かに清のそばは居心地がいいけれど、前みたいにそこに別の誰かが入ってくるようなことになったら、また自分は傷ついてしまう。好きになったことを後悔してしまう。熱情が京谷の中に戻ってきた今、それは高い確率で起こり得る話だ。 「なあ、賢」 そんな京谷の葛藤など知るわけもなく、清は優しい声で京谷を呼ぶ。 「付き合ってるやつはいないってさっき言ったよな?」 「いねえよ。嘘じゃねえ」 「じゃあ、今好きなやつはいるのか?」 「……なんでそんなこと訊くんだよ?」 「いねえなら、俺がお前の彼氏に立候補したいから」 |