09.

「いねえなら、俺がお前の彼氏に立候補したいから」

 いつもの冗談を言うときのそれとは違って、清の顔は至極真剣だった。

「な、何言ってんだよ……」

 動揺を隠し切れず、思わず声を上擦らせる。

「付き合ってるやつも好きなやつもいないんなら、俺と付き合ってくれねえか? 今頃どの面下げて言ってんだってお前は思うかもしれねえけど、俺は本気でお前と付き合いたい」
「で、でもおっさんホモじゃねえだろ?」
「今まではずっとそうだった。けど今はお前が欲しくて堪んねえよ。そばに置きたいって思うのも、どっか連れて行ってやりたいって思うのも、お前だけだ」

 少し遅れて好きと言われたのだと気がついて、京谷は驚くと同時に嬉しくて胸が温かくなるのを感じた。けれどそれも一瞬のこと。冷静さを失っていなかった頭が苦い失恋の記憶を呼び覚まし、京谷の心に歯止めをかける。

「そんな急にホモになったりするわけねえだろ。あんたはただ離婚して寂しいのを紛らわせたいだけだ」
「……そういう気持ちがねえとは言わねえよ。確かに一人でいることが寂しいし、誰かにそばにいてほしいって思ってる。でもその相手は誰でもいいわけじゃない。賢がいいんだ。お前のこと好きなのは嘘じゃない」
「いいや、嘘だ。だってそんなのおかしいだろっ。オレのこと振ったくせに……オレの気持ちを知っても他の女のところに行ったくせに、そんな台詞信じられるわけねえだろ!」

 あのときまだ高校生だった京谷の心は、清のごめんの台詞を受けて粉々に砕け散った。それを修復するのにはずいぶんと時間がかかったし、あの日のことを思い出して泣いたのも一度や二度の話ではない。
 あの痛みをもたらしたのは他でもない、清だ。だからどんなに彼の言葉が嬉しくても、それを信じ、すぐに受け入れることはできない。

「オレがあんときどんな気持ちだったか……どんな思いで最後に電話かけたか、考えたことあんのかよ! あんたに選ばれなくてどんだけ寂しかったかわかんのかよっ」
「それは……悪かったと思ってる」
「悪かったって思ってんなら、今更気まぐれで好きとか言うなよ!」
「気まぐれじゃねえよ! 好きになっちまったんだから仕方ねえだろ!」

 清は語気を荒くする。

「今日コンビニでお前の顔見た瞬間に、ずっと探してた大事な宝を見つけたような気持ちになった。そんで声聞けば聞くほど、顔見れば見るほど愛しくなった。自分のものにしたいって、大事にしたいってすげえ思ってる」
「けどそれってオレが言ってた好きと違うんだろ? 前言ってたみたいに、弟感覚とか息子感覚じゃねえのかよ?」
「確かに前はそうだった。けど今は違う。お前のこと、抱きたいって思うよ。それってお前の好きと同じじゃないのか?」

 その気持ちが同じなのだとしても、京谷の不安は消えない。もちろん清とそういう関係になりたいという気持ちはあるけれど、自分がまた傷つくのは恐かった。

「あんた前に言ってた。家に帰ったら迎えてくれる奥さんがいて、大事にできる子どもがいて、そういうのがどんだけ幸せなことかってのを一回知っちまったら、それを恋しく思う日が来るって。オレは男だから子どもが産めない。あんたが恋しく思うそれを、オレは叶えてやれないんだよっ」
「確かにそう言ったのかもしんねえけど、そんなもんは簡単に手放せられる程度の憧れだよ。子どもなんかいなくても、賢がいればそれでいいんだ」
「今はそうでもこれから先その気持ちが変わらないって保証はねえだろっ。いつかは普通の家庭がいいって思う日が来るかもしんねえ。やっぱり女のほうがよかったって思う日が来るかもしんねえ。そうなったとき、オレはたぶん死ぬほど辛い。前にあんたに振られたときの比じゃねえくらい、辛いんだと思う」
「俺の気持ちは変わんねえよ。お前が俺のこと好きでいてくれる限り、絶対に変わんねえ。それともお前はもう、俺のこと好きじゃないのか?」
「オレは……」

 ここで自分が頷けば、この話はこれで終わる。出口のないトンネルに迷い込んだ言い争いに歯止めを打つことができるだろう。けれど頷くことができない。自分の気持ちを否定することだけはできなかった。

「……少し考えさせてほしい。今日は……帰る」

 一人になって、冷静な頭でもう一度考えよう。京谷の出した結論はそれだった。今のグチャグチャの頭の中では何も決められない。感情だけで選択肢を選ぶのではきっといいことにならないと自分に言い聞かせ、ソファーの脇に置いていた荷物を取ろうと立ち上がる。その瞬間に、清に腕を掴まれた。

「帰るなよ」

 切羽詰まったような声に思わず振り返ると、辛そうな顔をした清と目が合った。

「今度は離さねえぞ」

 あのときも確か、こんなふうに逃げようとした自分の腕を清に掴まれた。今でもよく覚えている。だけど結局、その手はすぐに京谷から離れていった。そして顔も知らない女のところへ清は行ってしまった。
 けれど今度はさっきの言葉のとおり、離れない気がした。京谷の腕を掴む手には痛いくらいに力が入っていて、絶対に離すものかという清の心情が垣間見えた。

「頼むから、俺のそばにいてくれ。そりゃ、賢がどうしても嫌だって言うなら諦めるけど、少しでも気持ちがあるんなら、俺の恋人になってほしい」

 もう駄目だと思った。大好きな人にここまで懇願されて、その気持ちを、その言葉を、すべてを受け入れたいと思わないわけがなかった。不安は相変わらず拭えない。けれどもう、そんなものはどうでもよかった。
 一度開いた一歩の距離を、京谷はもう一度詰める。そしてそばにいてほしいと言ってくれる人の――京谷が二度も恋に落ちた大好きな人の腕の中に、溢れそうなほどの好きという気持ちを抱えながら飛び込んだ。

「絶対だぞ」

 もう一度彼の確かな想いが聞きたくて、震える声で言葉を紡ぎ出す。

「オレの気持ちは一生変わんねえから、絶対にオレのことだけを好きでいろよ」
「約束する。何年、何十年経っても、皺くちゃの爺になっても、賢のこと好きでいるよ。だから賢も俺のことずっと好きでいてくれよ」

 清の優しい声を聞いた瞬間に、はらりと涙が零れた。あのとき河原で流したのとは違う涙が、次々と溢れ出して縋りついた清の服を濡らした。
 大きくて優しい手が京谷の頭を撫でる。大事に想ってくれる気持ちがそこからも沁み込んできて、足の爪先から頭の天辺まで余すことなく温かくなっていくようだった。

「賢、ごめんな」

 清が耳元で囁く。

「あのとき一人にしてごめんな」

 謝る必要なんかない。そう言いたかったけど、嗚咽で言葉にならなかった。
 未来がどうなるかなんてわからない。ひょっとしたら清と上手くいかなくなって、また辛い思いをする日が来るのかもしれない。でも、たとえそうだとしても、今は過去の苦い記憶を赦して、未来に対する不安も飲み込んで、この人のそばにいたいと心から思った。それ以上の幸せはきっとこの世界のどこにもないのだと、清の腕の優しさを感じながらそう確信した。




続く





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