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 シャワーを浴びて部屋に戻ると、先に浴び終えた遊児がベッドにちょこんと腰かけている。大地はその後ろに回って、足で遊児を挟むような形で座った。

「大地くん、これ好きだよね。オレも好きだけど」
「なんかしたくなるんだよなー」

 思えば初めて遊児に手を出したときも、この態勢から始まったのだった。抱きしめたまま首筋や耳を舐めたりしたのを、昨日のことのように思い出せる。けれどそれももう、半年も前のことなのだ。瞬く間に過ぎていった半年だった。
 今日がもう、遊児との最後の夜になる。じわじわと寂しい気持ちが湧き上がってきて、大地は縋るように彼の身体を強く抱きしめた。

「遊児……俺、遊児のことが好きだよ。出逢ったときからずっと好きだった」

 そしていままでずっと言えなかったその言葉を、自分の持ちうるすべての気持ちを込めて口にした。

「可愛くて、優しくて、おもしろくて……遊児のそういうところ、全部好きだった」

 言わないでおくという手もなかったわけではない。だけどこの恋にちゃんと幕を下ろすには、抱えてきた想いを吐露しなければならないと思った。でなければ自分はきっとこの失恋をずっと引きずることになる。いつまで経っても先に進めないままになる。

「オレも大地くんがめちゃくちゃ好きだったよ」

 やがて遊児も、自分の気持ちを静かに打ち明けてくれる。

「もっと早く言って、ちゃんと付き合いたかったよ。でもあと半年しかこっちにいられないから、やっぱそれは駄目だなって思って……。遠距離って自信なかったし、たぶん修業が始まったらすごく忙しくなるから、なかなか会う時間もつくれない。それでお互い都合をつけるって難しいよなって思うと、言えなかった」
「俺も同じような感じだよ。遠距離は一度失敗してるし、やっぱりいろいろ難しいから」

 こんなに好きなのに、こんなに好きでいてくれるのに、どうして自分たちは結ばれないのだろう? どうして離れてしまう運命にあるのだろうか?
 もっと早く出逢えていれば、と一瞬だけ思ったが、それも遊児の夢を叶えたいという意志が固い以上は同じ結末になってしまう。一緒にいた時間が長かった分、離れたときの寂しさも大きなものになっていたかもしれない。だから半年という時間は、短いけれど二人にとってきっとちょうどいいものだったのだ。

(でも、やっぱりもっと一緒にいたい……)

 抱きしめる力を強くする。この身体を抱きしめるのだってもう最後なのだ。明日別れてしまえば、きっともう会うことは叶わない。抱きしめることもできない。もう、できないんだ。
 溢れ出しそうな、寂しいという気持ちを押し留めようときつく目を閉じた瞬間に、湛えていた涙がポロリと零れ落ちた。それはどんなに我慢しようと努力しても堪え切れず、雨だれのように頬を滑り落ちていく。

「ごめんっ……みっともないとこ見せたくなかったけど、ごめんっ。やっぱりきついな……」

 唇が震える。次々と涙を溢れさせる目は焼けるように熱く、自分の中の熱情がそこに溶けているようだった。やがて嗚咽が零れ始め、子どものように声を上げて泣き続けた。

「大地くんっ……泣かないでよ。大地くんが泣いたら、オレまで泣きたくなっちゃうだろっ」

 腕の中の身体を震え始めた。少しの間を置いてすすり泣く声が大地の鼓膜を震わせた。
 遊児のことが好きだった。いままで誰かに守られる側ばかりだった大地が、初めて守ってやりたいと思える存在だった。いろんな楽しいことを共有して、いろんな思い出をつくって、幸せにしてやりたいと本気で思えた。
 だけどこの恋はいま幕を閉じる。お互いの気持ちを伝え合って、終わりを迎える。決してハッピーエンドとは言えないが、それでもこの結末に後悔はなかった。関係を始めたことを、間違っていたなんて思わなかった。だって辛くて泣いた日よりも、二人で笑い合った日のほうが遥かに多かった。たくさんの幸せを遊児が与えてくれた。二人で過ごした時間は、決して無駄なんかじゃなかったんだ。

「遊児……俺のこと、忘れないでくれ」

 楽しかったことも、こうして別れを惜しんで泣いたことも、いつかは思い出の一部になる。あのときはこうだったと、アルバムをめくるような気持ちで思い返すようになる。毎日じゃなくてもいいから、時々自分とのことを思い出して、二人で一緒にいたことをずっと覚えていてほしい。

「オレが……大地くんのこと、忘れるわけないじゃん。こんなに好きな人のこと、忘れるわけない、じゃんっ……」

 嗚咽混じりにそう言ってくれた遊児の言葉が胸に沁みる。温かくなると同時に、切ない気持ちに駆られてまた涙が零れる。

「もしいつかどこかで再会して、そのときお互いに恋人や好きな人がいなかったら、そのときはちゃんと付き合おう。今度こそ恋人になろう」
「うんっ……約束だよ」

 きっとそんな日は訪れない。そんな都合のいいストーリーが、現実に起こりうるはずがない。それでも大地は遊児と再会できる日を――二人にとっての“希望の日”が訪れることを信じたいと思った。そしてもう一度恋に落ちて、今度こそ恋人として幸せになるのだ。
 それぞれの手を握ると、遊児は強く握り返してくれる。離したくないと、言葉にしなくてもそう言っているのがわかった。

「ありがとう、遊児」

 さようならの代わりに、その言葉を捧げる。

「オレのほうこそありがとう、大地くん」

 そして同じ言葉が、同じ気持ちを伴って返ってくる。受け取ったそれを大地は胸の奥に仕舞い込んで、蓋を閉めた。



 泣いているうちに、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。ふと目を覚ますと部屋は真っ暗になっていて、腕の中では遊児が規則正しい寝息を立てていた。
 大地はそっとベッドを出ると、音を立てないようにトイレに向かった。便座に腰かけ、ぼうっとしているとふいに目頭が熱くなる。せめて声が零れないようにと慌てて口元を押さえた。遊児にも、世界中の誰にもいま泣いていることを知られたくなかった。涙がゆっくりと頬を伝い、スエットの上に落ちて音を立てる。しばらくの間、その音と押し殺しきれずに漏れた嗚咽の音だけが、狭い空間に響き渡っていた。
 涙が枯れるとベッドに戻って、遊児を抱きしめながら再び眠りに就く。次に目を覚ましたときには、カーテンの隙間から柔らかな陽射しが射し込んでいた。新しい朝が来たのだ。

 遊児との、別れの朝が来た。



続く





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