01. 海とイルカとその人 美しい、と照島遊児はただ呆然とその絵に見惚れた。 地平線に沈みゆく夕日をバックに、二頭のイルカが大きく跳躍した姿が描かれている。イルカの肌艶、舞い上がる水しぶき、紅蓮に染まる空と海――どれもまるで写真を見ているかのような立体的な質感と細やかな色使いで表現され、絵に関しては素人の照島でも、それが物凄くレベルの高い作品だと一目でわかった。 「なあ沼尻、これって誰が描いたん?」 こんな繊細で美しい絵を描いた人は、どんな顔をしているのだろう。気になって友人に訊ねてみた。 「ああ、それ? それは奥岳さんのだね」 「奥岳さん? 顧問の先生?」 「違う、違う。一つ上の先輩で現部長。そのとおり、めちゃくちゃレベル高いの」 驚いた。絶対に顧問かOBの絵だと思ったのに、まさかたった一つ上の先輩が描いた作品だとは思わなかった。 照島も一応美術部員ではあるが、春の入部以来一度も顔を出していなかったために、その奥岳という先輩の顔を知らなかった。目にした絵からなんとなく、日本人離れした美形な顔立ちを想像した。きっと歩き方や仕草の一つ一つも繊細で、まさに芸術家と言った雰囲気の持ち主に違いない。 「――こんにちは」 出入り口から人が入ってくる気配がした。中にいた部員たちが、それぞれ挨拶を返す。 「ほら、あれが奥岳さん」 「えっ」 沼尻の視線を辿っていくと、たったいま部室に入ってきた人物に行き当たる。 最初に目についたのは、坊主に近い短髪の頭だった。その下の顔は整ってはいるが、どちらかというとイモ臭さを感じさせる地味なもので、照島がさっき勝手に想像した奥岳先輩とは百八十度違っていた。どこにでもいるような、普通の男子高校生だ。 「こんにちは。新しい人?」 奥岳は、彼のキャンバスの前に突っ立っていた照島に声をかけてくる。自分が邪魔になっているのだと気づいて、照島は慌てて道を開けた。 「一応ここの部員っす。幽霊だけど」 そうなんだ、と奥岳は笑った。屈託のない、純粋で真っ直ぐな人柄を思わせるような、優しい笑顔だった。夏の太陽と言うよりは、春の包み込むような温かい陽射しを思わせる。そんな印象を受けた。 奥岳は椅子に座ってさっきのイルカの絵を仕舞うと、新しいキャンバスを立て掛けた。真っ白なそれを見つめたまま、何か考え込むように顎に手を押し当てる。その一連の様子をなんとはなしに見届けてから、照島は沼尻の隣に用意していた椅子に戻った。 「なんか意外と普通の人だね」 奥岳を目にした正直な感想を、本人には聞こえないようなトーンで沼尻に言う。 「そうだろ? でもすげえ優しいし、面倒見がいいの。絵はあのとおり上手いけどそれを鼻にかけたりしないし、俺は結構好きだな〜」 「ふ〜ん」 その日は沼尻の絵を描く姿を見ながら、時々奥岳のほうを見て過ごした。あれから奥岳は、まるで置物になったかのようにキャンバスの前から微動だにしなかった。そんなもの見ていてつまらないはずなのに、何度も視線がそちらに行ってしまう。 こうして照島は、沼尻に付き合って何気なく寄った美術部の部室で、奥岳誠治との邂逅を果たすのだった。高校一年生、野山が紅葉に色づき始めた頃のことだった。 照島は次の日も部室を訪れた。掃除当番の沼尻を置いて一人で部室に入ると、正面の坊主に近い短髪の頭が目に入る。――奥岳だ。 「ちわっす」 照島が声をかけると、奥岳は振り返り、優しげに笑いながら「こんにちは」と挨拶を返してくれた。 彼の前に立てかけられたキャンバスは、藍色に塗りつぶされている。昨日は帰るまで結局迷っているような様子で、キャンバスは真っ白なままだった。色をつけたということは、どんな絵を描くか彼の頭の中で定まったのかもしれない。 「幽霊部員じゃなかったのか?」 奥岳から話を振られるとは思ってもみなくて、照島は一瞬驚いてしまう。慌てて愛想程度の笑みを浮かべ、言葉を返した。 「あ、いや、なんとなく……やっぱ邪魔っすかね?」 「昨日も静かにしていたし、全然邪魔じゃないと思うよ。少なくとも俺は全然気にしないから」 「そっすか、よかった。あの、今日は奥岳さんの描くとこ見てていいっすか?」 あの美しい絵がどのようにして描かれるのか、照島は単純に興味があった。同時に、奥岳という人間にも興味がある。きっと遊び好きの自分とは正反対の性格で、ものの考え方も違うのだろう。ひょっとしたら気が合わないかもしれないが、それでも彼のことを知りたいと思った。 「え、俺の? なんでまた」 「昨日、先輩のイルカの絵観てすげえなって思って。どんなふうに描いてんのか見たくなったっす」 「見るのはいいけど、そんなにおもしろいもんでもないと思うけどな〜」 「そんなことないですって」 そう言って照島は、昨日使っていた椅子を奥岳の近くまで持ってくる。 奥岳のそばには絵に使う道具が無造作に置かれていた。その中から彼はパレットと刷毛を掴み取り、さっそくキャンバスに色を乗せ始めた。キャンバスの下三分の一を、紫色に大雑把に塗っていく。 「あ、そういえば名前なんっていうの?」 急に目が合って、照島はなぜだか一瞬ドキリとした。胸がカッと熱くなるような不思議な感覚に襲われながら、震えそうになる声で返事をする。 「照島です」 「照島くん、綺麗な顔立ちしてるよね。羨ましいな〜」 「オレの顔綺麗っすか?」 「うん。言われない?」 「言われたことないっすね……」 自慢じゃないが、イケメンだと言われたことは実のところそれなりにある。けれど綺麗と言われたのは初めてだ。自分で自分の顔をそういうふうに思ったこともない。少し嬉しい褒められ方だ。 会話もそこそこに、奥岳は絵を描く作業を再開する。紫色を一通り塗り終えると、今度はその上に、いま塗ったのよりも薄い紫を重ねていく。それから更に薄い紫、そして白が中心の辺にさらっと乗らせられ、その時点で照島は紫色のものが水面であることに気がついた。 すぐそばで照島が見ているという状況なのに、奥岳はまったく気にしていないようだった。真剣な眼差しでキャンバスと向かい合い、時々手を止めて悩むような顔をしながら、少しずつ色を重ねていく。 「――はあ。今日はここまでにしとこ」 奥岳がそう言って大仰に息をついたのは、描き始めてから二時間近くが経過したときのことだった。 「照島くんも疲れただろ?」 「全然! 見てて超楽しかったっすよ!」 それは紛れもない本心だ。少しずつ風景が出来上がっていくキャンバスはもちろんのこと、描いている奥岳の姿を見ているのも楽しかった。絵を描きながら、彼はいろんな表情をする。それがおもしろかった。 「明日もまた来てもいいっすか?」 「もちろん。俺はいつでも大歓迎だよ」 笑いながら奥岳は使った絵具などを片づけ始める。他の部員たちもぽつぽつと帰り支度を始めていた。どうやらちょうど部活自体が終わるところだったらしい。 「じゃあ、また明日」 「うい、また明日」 部室を出て行く奥岳に手を振って、照島は友人の沼尻の元へ行く。彼もちょうど鞄を手にしたところだった。 「なんかちゃっかり奥岳さんと仲良くなってんな」 「まあね。オレ、絵心なんかこれっぽっちもないけど、あの人の絵すげえ好きだな〜」 「まあわかるけどさ。俺も先輩の絵好きだよ。人柄も好きだけど」 でも、と沼尻は眉間に皺を寄せた、不愉快そうな顔をした。 「三年生には嫌われてたんだよね」 「え、なんで?」 奥岳は人に好かれるタイプの人間に見える。好き嫌いのはっきりした沼尻さえも好意的に思っているようだし、照島自身も優しい先輩だと思う。 「あのとおり才能があるからさ。別に本人は鼻にかけたりしてないのに、嫉妬した先輩が時々嫌がらせしてたんだよ」 「マジで!? 最低だな」 「ホントだよ。いまはそいつら引退していなくなったから、奥岳さんも俺らも不愉快な思いしなくて済んでるけどね」 奥岳の性格からして、その嫌がらせをしてくる先輩に刃向ったりはしなかったのだろう。黙って小さくなっている姿が容易に想像できてしまう。もしもそんな場面に遭遇したら、自分が絶対に助けてやろう。照島はそんな小さな決意をしていた。 日付が塗り替わりそうだったので、照島は電気を消してベッドに横になる。すぐには睡魔が下りて来ず、何度か寝返りを打ちながらふと奥岳のことを思い出した。途端にむず痒いような、甘酸っぱい衝動が全身を駆け巡る。 自分でもなんとなくはわかっていた。奥岳に恋をしている。でなければ絵心のない自分が二時間も絵を描く姿を見ていられるわけがない。 だが、照島は自分が奥岳のどこを好きなのかがわからなかった。自分で言うのもなんだか、照島は結構な面食いだ。いままで好きになった相手は皆、周りにイケメンと持てはやされている男ばかりだったし、好みの芸能人もやはり顔がいい。 しかし奥岳は、顔立ちこそ整っているものの、お世辞にもイケメンとは言えない。イモ臭いし、髪も坊主のようだし、とにかく見た目はパッとしなかった。強いて言うなら、笑った顔が好きだ。笑うと目尻に少し皺が寄り、優しそうな表情になる。見ていて安らぐ笑顔だった。 明日もまた会える。美術室に行けば、あの優しい笑顔を見ることができる。それを思うとどこが好きかだなんてどうでもよかった。一緒にいられれば、それでいい。 |