02. 奥岳誠治という男


 奥岳の絵は、描き始めて四日目で完成に至った。穏やかな海の向こうには夜空が広がり、浮かんだ大きな満月の光を受けて、水面が幻想的な輝きを放っている。そしてキャンバスの中心には、一頭のイルカが跳躍している姿が描かれていた。

「イルカ好きなんっすか? この間の絵にも描いてたけど」
「うん。昔から好きなんだ。だって可愛いだろ?」
「まあ、確かにイルカは可愛いっすよね」
「うん、うん。時々水族館にショーとか観に行ってるんだ。イルカって本当に頭よくて、人間の言葉がちゃんと通じてるみたいだった」

 嬉しそうにイルカのことを語る奥岳が、年上ながら少し可愛いと思った。

「オレもそれ観てみたいなー」
「あ、じゃあ今度一緒に行ってみる? 一人で行くのってやっぱり寂しくてさ。あ、もちろん照島くんが嫌じゃなかったらだけどね」
「全然嫌じゃないっすよ! むしろ一緒に行かせてください!」

 イルカのショーにももちろん興味はあるが、それよりも照島は奥岳と遊んでみたかった。奥岳のことをもっと知りたい。部活動の時間内だけでは、全然物足らなかった。



 翌日の土曜日、頭上に広がる空はまるで照島の心を映し出したかのように晴れていた。
 奥岳とイルカのショーを観に行くという約束は、翌日さっそく果たされることになった。好きな人と二人で会う。ワクワクと浮足立つような気持ちになる半面で、少しだけ緊張していた。
 だが、待ち合わせの駅で奥岳の姿を見た途端に、その緊張感は一瞬にして吹き飛んだ。あとには会えて嬉しい気持ちと、今日一日が楽しみで仕方ないという感覚だけが胸の中に残った。

「おはよう」
「はようございます」

 会ってさっそく、奥岳は照島の好きな優しい笑顔を見せてくれる。心臓がトクトクと小さく鳴った。この人はたぶん、自分の笑顔が照島の胸を高鳴らせているなんて思いもしないだろう。

「せっかくの休みなのに、早い時間から約束しちゃってごめんな」
「全然いいっすよ。むしろたくさん遊べていいじゃないっすか」

 と言いつつも実のところ照島は少し眠たかった。いつもどおりの土曜なら、いまはまだベッドの中にいる時間だ。友達たちと遊ぶときも、昼すぎてからになることがほとんどだった。
 それに加えて昨日は今日が楽しみすぎて、まるで遠足前の子どものようになかなか寝付くことができなかった。だから身体は少し怠いし、時々欠伸も出そうになるが、それを奥岳に悟られないように気をつける。

「じゃあ行こうか」
「へ〜い」

 目的の駅までは電車で二十分ほどだった。そこから歩いて五分、ここしばらく来ることのなかった、県内一大きいと言われている水族館に辿り着く。
 ショーまではまだ時間があったので、最初は館内を一周することにした。リニューアルしたとは聞いていたが、確かに照島が最後に来たときとは様変わりしている。幻想的な雰囲気を作り出している壁紙やライティングは、本当に海の中を歩いているのではないかと錯覚させる。もちろん水槽の中の生き物たちも照島たちの目を楽しませてくれた。
中でも照島はシロイルカが気に入った。ガラスの前で観ていた照島たちの目の前に寄って来ると、まるで踊っているようなコミカルな動きを見せてくれたり、そうかと思えばバブルリングを吐き出したりと、中に人間が入っているのではないかと疑いたくなるくらいにサービスがよかった。愛嬌のある顔は少し奥岳に似ていると思ったが、口には出さなかった。
 そして待ちに待ったイルカショーは、想像していたよりも興奮する内容だった。以前奥岳の絵の中のイルカを見たとき、これはさすがに跳びすぎだろうという印象を受けたが、現実の彼らは絵の中のイルカ以上に高く跳躍していた。思わず「すげえ」と馬鹿の一つ覚えみたいに連発していると、隣の奥岳が「そうだろう」と得意げに笑った。ショーの中ではお笑い要員としてアシカも登場していたのだが、それも奥岳に似ている気がした。

「あ〜、超楽しかった! イルカも可愛いけどアシカも可愛かったな〜」
「そうだな〜。でもやっぱり俺はイルカのほうが好きだな〜」

 ショーを観ているときの奥岳の目は、純朴な子どものように輝いていた。本当にイルカが好きなのだろう。よく見れば肩に掛けているショルダーバッグには、イルカのキーホルダーがいくつか付いていた。この間アドレス交換をしたときに見た携帯電話にも、イルカのストラップがぶら下がっていたのを覚えている。ここまでくれば最早イルカオタクと言っても過言ではない。
 水族館を出る前に、奥岳の希望で隣接されたショップを覗くことになった。彼はやはり迷いなくイルカのグッズコーナーに向かって行く。水族館一の人気者とあって、グッズの種類は群を抜いて多い。照島はその中からこそっと奥岳の持っているものと同じキーホルダーやストラップ、それから奥岳に顔が似たシロイルカのフィギュアを買った。奥岳も何か買ったようで、その会計が終わると近くのファーストフード店に入る。

「これ、忘れないうちに渡しておくよ」

 そう言って奥岳が差し出してきたのは、さっきのショップのロゴが入った小さな紙袋だった。

「え、なんすか?」
「今日付き合ってくれたお礼。気に入ってくれるかどうかはわからないけど」
「そんなのいいのに! むしろオレが誘ってくれてありがとうって感じっすよ!」

 奥岳の好意に恐縮しつつも、彼からプレゼントがもらえて内心飛び跳ねたくなるくらい嬉しかった。さっそく包みを開けると、深い海の色の中心に白色のラインの入ったリストバンドが入っていた。刺繍されているのはもちろんイルカだ。

「かっわいいなあ。ってかやっぱイルカなんっすね」

 イルカと同じくらい自分のことも好きになってくれればいいのに、という言葉は胸の中で呟くに留めて、照島はさっそくそのリストバンドを腕に着ける。

「無理に着ける必要はないからね。気に入らなかったら捨ててくれてもいいし」
「無理なんかしてないっすよ。むしろ一生大事にします」
「そんな大袈裟な……」

 奥岳からもらったものを捨てるなんてとんでもない。むしろ毎日身に着けて生活するつもりだ。

「そういえば照島くんさ、敬語使うの面倒だったらタメ口でもいいんだよ」
「え、いや、でも先輩だし……」
「俺は別に気にしないから」

 実のところ照島は、体育会系の部活に属していたわけでも、年上の知り合いがいるわけでもないから、敬語は使い慣れていない。だから少しだけ窮屈に感じていたから、その申し出は素直に嬉しかった。

「じゃあ、奥岳さんもオレのこと“くん”付けで呼ぶの禁止。むしろ下の名前で呼んでよ」
「え〜と……照島くんの下の名前ってなんだっけ?」
「遊児っす! 奥岳さんは?」
「俺は誠治だよ」

 真面目で誠実な奥岳らしい名前だと思った。

「正直最初は、照……遊児とこんなに仲良くなれるなんて思わなかったな。自分とは正反対のタイプだから。綺麗な顔してるし、明るいし……昔からそういう系の人と上手く打ち解け合えないんだ。このとおり地味で顔も残念だからな〜。どうしても一歩引いて見てしまう」
「奥……誠治くんの顔は残念なんかじゃないよ。男らしいし、優しそうだし、オレは結構好きだよ」

 それはお世辞でもなんでもなく照島の本心だ。奥岳の顔が好きだ。もちろん中身だって好きだし、嫌いなところを探すほうが難しい。
 照島が素直な気持ちを口にすると、奥岳のその地味な顔立ちが、目に見えてわかるくらい紅く染まった。困惑したような顔で頭を掻きながら、視線を窓の外に向ける。

「そ、そういうからかい方はよくないぞ」
「別にからかってないよ。オレの本音だもん」
「う、嘘だっ。だってこんな顔……遊児に比べたら、不細工だろ」
「全然不細工なんかじゃないし。もっと自信持ってよ。人と比べてどうこうじゃなくってさ、自分だけのよさってあるだろ。誠治くんの場合は優しい性格が顔に出てて、オレみたいにそういう顔が好きってのもいるんだから」

 そうなのかな、と奥岳は自信がなさそうに呟いた。俯いた顔からはなかなか赤みが引かず、彼はしばらく目を合わせてくれなかった。



 イルカのショーを観るという今日の目的は果たしたが、このまま帰ってしまうのもなんだか味気ない気がして、照島は奥岳を散歩に誘った。歩きながらどこか遊べる場所を見つけようと思ったが、水族館の周辺には意外なほど何もなかった。しばらくすると奥岳が座って海を眺めたいと言ってきたので、通りがかりにあったベンチに二人で腰かける。

「この時期にしては波が穏やかだな〜。天気もいいし、風もあんまり冷たくないし、今日は来てよかった」

 そう言って奥岳は、照島の顔を覗き込むようにして見てくる。

「遊児は、俺といて楽しい?」
「うん、すげえ楽しい。でも誠治くんといると、どっちかっつーと心が和む感じがするな〜。シロイルカ観てるときの気分みたいな感じ」
「それって喜んでいいのか?」
「もちろん!」

 穏やかな海は本当に綺麗だ。遠くのほうには大きな船が浮かんでいる。この辺りに客船はあまりないはずだから、貨物船だろうか。

「いま観てる海、絵に描いたりしないの?」
「描いてみようかな、とは思うよ。でも実は昼間の海ってあんまり描いたことないんだ。夜とか夕方のほうが綺麗に見えるから。でも、今日の海は本当に綺麗だな〜」
「描いたら絶対見せてよ」
「もちろん。と言うか、遊児は最近俺に張りつきっぱなしだから、描いたら嫌でもばれるだろう」
「ひょっとして、うざい?」
「全然。むしろ観てくれる人がいるっていうのは、結構嬉しいかな」

 奥岳の邪魔になっていないことにホッとしつつ、照島はこっそりと彼との距離を詰める。いっそこのままもたれかかってしまいたかったが、さすがに引かれるだろうし、人目もあったので我慢した。

「夢があるんだ」

 目の前の海のように穏やかな声が、静かに語り出した。

「いつか展示会をしたい。俺だけの絵を飾って、いろんな人に観てもらうんだ。描いた以上はやっぱり人に観てもらいたいし、どんな感想を持ったかも聞いてみたいな。不安な道だけど、俺は絵で生きていきたい。趣味で終わらせたくないんだ。つっても、まだまだだけどな」

 眩しい、と思った。太陽を映し出した水面もそうだし、夢を語る奥岳も眩しかった。こんなに真っ直ぐに将来を見据えている人間を、照島は初めて見た。しかも叶えるのがとても難しい夢――けれどそれに向かうことを決めた意志は強そうで、照島にはないその強さが眩しく映る。

「オレ、誠治くんならその夢叶えられると思うよ。オレが言うと安っぽく聞こえちゃうかもしれないけどさ、本当に誠治くんの絵が好きなんだ。初めて観たときの衝撃はそりゃもうすごかったんだから」

 叶ってほしい、と心の底から思う。画家になった奥岳を将来見てみたい。

「ありがとう。そう言われると、やっぱり嬉しいもんだな。――遊児に出会えてよかったよ。応援してくれている人がいると思うと、すごく勇気になる」

 この人の支えになりたい。自分のすべてを捧げてもいいから、そばにいて、悩むときは一緒に悩んで、喜びは二人で分け合いたい。いままでの恋とは一味違う熱量が、照島の中に生まれつつあった。



 帰りの電車の中で、照島は寝たふりをして奥岳の肩に縋った。首筋からは少し汗っぽい匂いがする。これが奥岳の体臭なのかと思うと、全身の血が沸騰するような興奮を感じた。
 このままずっとこうしていたい。奥岳に密着したまま、永遠に電車に揺られていたい。駅に着かなければいいのにと、布越しに奥岳の体温を感じながら照島はひっそりと願うのだった。




続く





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