03. 幸せの予感


 照島が美術部の部室に――と言うより、奥岳の元に通い始めて一ヵ月が経とうとしていた。
 掃除当番だったせいで、その日の放課後はすぐには奥岳に会えなかった。内心で少し苛々しながら手早く掃除を済ませると、早足に部室に向かう。土日の間は会えなかったから、いつも以上に胸が弾んでいた。
 だが、部室に入った途端に、その弾んでいた気持ちは急速に冷めてしまう。
 空気がおかしい、と照島は入ってすぐに気がついた。いつもはもっと落ち着くような柔らかな雰囲気に包まれているはずなのに、今日はそれが嘘のように、どこか張り詰めたものを感じ取った。
 奥岳もいる。友人の沼尻だっている。他の部員たちも、いつものメンツと変わらない。――いや、一人だけ見慣れない顔を見つけた。奥岳のキャンバスの前に、ひょろっと背の高い男子生徒が立っている。眼鏡の奥の瞳は、どこか神経質な性格を感じさせる鋭さを備えていた。

「照島」

 照島を呼んだのは沼尻だった。小さく手招きするから、照島は素直に彼の元に歩み寄る。

「来ちゃったか〜」

 沼尻はさっきのひょろ眼鏡を見つつ、小さな声でそう言った。

「来ちゃったか、ってなんだよ? っつーかあの人誰?」
「前部長の三年生だよ。あれがいるから今日空気が最悪。早く帰ってくんねえかな〜」
「嫌われてんだな」
「実際嫌な奴だよ。奥岳さんも目の敵にされちゃって……あ〜、照島さ、奥岳さんファンだからって何があっても暴れんなよ」
「なんでオレが暴れるんだよ……」

 池尻が何を言いたいのかはよくわからなかったが、あのひょろ眼鏡が奥岳を目の敵にしていたというのは気になる。しかも奴はいま奥岳のそばにいた。誰にだって優しい奥岳が、あまり歓迎していないような顔をしている。何かが起こるのではないかと、二人の様子を注意深く観察することにした。

「相変わらずお前は上手いな〜」

 褒めているはずなのに、ひょろ眼鏡は人を馬鹿にしたような表情を浮かべていた。底意地悪そうな笑顔が、不愉快になるほど気持ち悪かった。そんな汚い顔で奥岳のそばに近寄らないでほしい。お前の心の穢れが奥岳にうつってしまったらどうするんだと、恨みを込めて睨みつける。

「でも、ここはもうちょっと濃い色のほうがいいんじゃないのか?」
「は、はあ……」

 ひょろ眼鏡の絵は見たことないが、奥岳にアドバイスできるほどの技量の持ち主なのだろうか。いや、絶対に違う。あれはただ奥岳を貶めたいだけだ。顔がそう言っている。もしも奴が奥岳を傷つけようとしたら、絶対に容赦しない。
 そんな照島の決意などひょろ眼鏡が知る由もなく、奥岳の持っていたパレットと筆を、いきなり引っ手繰るようにして奪い取った。何をするつもりなのかすぐにわかったが、一歩遅かった。奥岳の描きかけのキャンバスに、意味を成さない青いラインが勝手に付け加えられてしまう。
 その瞬間、燃え滾るような熱が、激しい波のように全身に広がる感覚がした。それが足の先まで到達した途端、照島は無意識のうちに駆け出していた。短い距離だからあっという間にひょろ眼鏡の元までたどり着く。そして、感情のすべてを込めた己の拳を、痩せた頬に叩き込んだ。

「照島!」

 誰かが自分を呼んだような気がしたが、そんなことはどうでもよかった。いきなりのことにまったく防御ができなかったひょろ眼鏡が態勢を崩す。そこに今度は蹴りを入れ、床に倒れ込んだ身体に圧し掛かる。

「やめろ遊児!」

 一番近くにいた奥岳が、振り上げた照島の手を掴んできたが、反対の手でひょろ眼鏡を殴った。顔の原型がわからなくなるくらいに殴ってやろうと思った。けれど今度は身体ごと後ろから引き離される。

「俺は大丈夫だから。これ以上やったら、取り返しのつかないことになる」

 宥めるような声に、怒りで理性が吹っ飛びかけた心が、徐々に落ち着きを取り戻してくる。
 隣に立てかけたキャンバスには、穏やかな昼の海が描かれていた。奥岳と初めて水族館に行ったときに二人で眺めた、あの海だ。自分の中の大事な思い出。その思い出の中の風景が汚されてしまったことが悔しくて、涙がボロボロと零れ出す。

「遊児……」

 奥岳が背中を擦ってくれる。その優しさに余計に涙が溢れた。

「また描き直すから、泣かないでくれよ」
「うん……」



 その後、騒ぎを聞きつけた教師が部室にやって来て、照島には一週間の停学処分が言い渡された。暴力沙汰にしては軽い処分だと思っていたら、どうやら奥岳や沼尻を含めた美術部員たちが、照島を擁護する証言をしてくれたらしい。
 照島は自分のした行いに、後悔はしていなかった。ひょろ眼鏡は殴られて当然のことをした。奥岳は優しいから怒らなかったし、気にしないと言っていたけど、内心ではきっと自分の絵が汚されて悲しかったはずだ。あれは奥岳と照島、二人分の怒りだ。
 唯一後悔したことと言えば、停学処分になったことで一週間も奥岳に会えなくなってしまったことだ。自分の部屋で出された課題を片づけながら、奥岳の顔を見たい衝動に駆られる。声が聞きたい。絵を描いている姿を見たい。そんな思いが照島の中に募っていく。

「遊児、お客さんよ」

 ノックとともに母親がそう言って照島を呼んだのは、停学になって三日目のことだった。

「誰? 先生?」
「いいえ。美術部の部長さんよ。というかあんた、美術部だったのね」

 似合ってないわよ、という母親のからかいはもう照島には聞こえていなかった。慌てて椅子から立ち上がると、部屋を出て一目散に階段を駆け下りる。
 玄関には、照島が会いたくて堪らなかった人の姿があった。たった三日会えなかっただけなのに、顔を見られて嬉しいという気持ちで胸が満たされた。

「元気?」

 奥岳が苦笑しながら訊いてくる。

「元気だよ。課題はちょっときついけど、のんびりやってる。今日はどうしたの?」
「遊児に言いたいことあったから。あとこれ、仕上がったんだ。それを見せたかった」

 これ、と言って奥岳が抱えたのは、布に包まれた四角いものだった。大きさからしておそらくキャンバスだろう。きっと汚されてしまったあの海の絵を、描き直したものだ。

「上がらせてもらってもいい?」
「もっちろん」

 むしろ大歓迎だと心の中で呟きながら、照島は奥岳を自分の部屋に案内した。

「あれ、意外と綺麗だ」
「どんな部屋想像してたんだよ。失礼しちゃうなー」
「ごめん、ごめん」

 奥岳はキャンバスを壁に立てかけ、包んでいた布を剥ぎ取った。
 澄んだ青空と、穏やかな海。遠くのほうには大きな船が浮かんでいる。あのとき目にした風景のままだ。ただ一つ違うのは、手前の歩道の手摺に人が立っているところだった。

「ひょっとして、これってオレ?」

顔は海のほうを向いていてわからないが、髪型からして立っているのが自分だとわかった。

「そう。最初は海と空だけにしようかと思ったけど、二人で見た景色だったから、一緒に見てくれた遊児も描きたくなった」

 奥岳が多少なりとも照島と一緒にいたことを意識してくれていたことが、素直に嬉しかった。思わず顔が綻んでしまう。

「この絵は遊児にあげるよ。あ、でもこんな大きなもの邪魔になるかな」
「全然邪魔じゃないよ! むしろください! あ、でもどうせくれるなら、隣に誠治くんも描いてほしいな」
「俺を?」
「うん。さっき二人で見た景色って誠治くんも言っただろ? これじゃなんかオレ一人で見てきたみたいで、少し寂しいじゃん」
「ああ、まあ、言われてみればそうかも……。けど自分を描いたことってないから、なんだか恥ずかしいな〜」

 あのとき照島は小さな幸せを感じていた。それは隣に奥岳がいたからだ。絵の中の自分にも、その小さな幸せを感じていてほしいと思った。だから隣に奥岳を描いてほしい。

「ここ、また行きたいな」
「俺も行きたい。二人でぼうっと海を眺めて、時々話もして、ゆっくりと時間が流れるのを感じていたい」

 会話が途切れて、二人してじっと海の絵を眺める。眺めながら照島は、絵の中の場所での会話よりも、電車の中で奥岳の肩に頭を預けて、眠ったふりをしたときのことを思い出していた。温かい感触に、汗っぽい匂い。次にあそこに行く機会があったら、帰りの電車でまた同じことをしよう。そう固く決意する。

「この間はありがとな」

 絵を見ていた奥岳の顔がこちらを向いた。優しい目と視線が交わってドキリとしながら、この間のこととはなんだったろうかと首を傾げた。

「もう忘れたのかよ。停学になっちゃった理由だよ」
「ああ、あれか……」

 綺麗な思い出に浸っていたから、そんな忌まわしい記憶は一瞬だけ忘れかけていた。

「俺の代わりに怒ってくれてありがとう」
「別にお礼を言われるようなことはしてないよ。ただムカついて殴っただけだから」
「それでも、俺は嬉しかったんだ。俺の絵のことで怒ってくれる人がいる。一緒に悔しいって思ってくれる人がいる。俺の絵を上手いと言ってくれる人はたくさんいたけど、遊児みたいに俺の絵一つのことで感情を剥き出しにするような人はいなかった。一人でもそういう人がいてくれるのは、すごく嬉しいことなんだって初めて知ったよ。自分の絵に自信がないわけじゃないけど、やっぱり絵描きを目指すのに不安はあったんだ」

 奥岳は苦笑する。

「ずっと悩んでた。絵描きを目指して、それが失敗に終わったらどうしようって。失敗して苦しい思いをするくらいなら、普通に就職して生きていったほうがいいんじゃないかとも思った。でもこの間のことがあって、やっぱり夢は諦めないって決められた。遊児のように心の底から応援してくれる人、俺の絵を好きだと言ってくれる人、そういう人に出会えるかもしれないって希望を持てたんだ。だから、ありがとう」

 こんな自分でも奥岳に勇気を与えられるなら、いくらでも言葉を捧げる。いくらでも力になる。そんな思いを込めて、照島は彼の優しい瞳を見つめ返した。

「わ、悪い。なんかすごく長々と語っちゃった」
「別にいいよ。オレも誠治くんが夢に向かって真っすぐ進むことを決めてくれて、嬉しいから」
「ならいいんだけど……。あ〜、なんか顔熱くなってきた。窓開けていいか?」

 いいよ、と頷くと、奥岳はキャンバスから離れて窓のほうに向かう。そのとき、床に無造作に置かれたダンベルに躓いた。上手くバランスを修正できなかったのか、そのまま床に座っていた照島のほうに向かって倒れてくる。
 頭こそ打たなかったが、身体が派手にぶつかり合って痛かった。奥岳も痛そうに呻いている。

「ごめん、遊児。大丈夫か?」
「な、なんとか……」

 心配そうにこちらを見てくる顔が、意外なほど近くにあった。相変わらずのイモ臭い顔だ。だけど照島はその顔が大好きで、だからこそ触れ合いそうなほど近くにあったことに、動揺してしまう。
 いっそキスしてしまおうか。したあとに「冗談だよ」と笑っておけば、本当に冗談で済ませられるかもしれない。だけど自分はそんなことなど絶対にできないとわかっている。自分の弱さは自分がよく知っている。照島は妄想を吹き飛ばすように、溜息をついた。

 だが――

 その直後に、奥岳の唇が照島の唇に覆い被さってきた。




続く





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