終. あなたは夢を現実にする


 温かい感触が唇に触れたと思ったら、それは奥岳の唇だった。唇と唇が重なる。つまりキスをしているのだと気づいた瞬間に、驚きと戸惑い、そして燃え上がるような興奮が激流のように流れ込んできた。
 決して照島からキスをしたわけではない。妄想でもなんでもなく、間違いなく奥岳のほうからキスをしてきたのだ。なぜそんなことをしてきたのかわからない。わからないけど……もしかしたら、期待をしていいのかもしれない。
 いったい何秒くらい触れ合っていただろうか。長かったような気もするし、短かったような気もする。それは始まったときと同じように、唐突に終わった。閉じていた目を開けると、奥岳は顔を青くしていた。

「わ、悪い遊児! 俺、こんなことするつもりじゃなかったのに……ごめん、なんか我慢効かなくなった。口濯いでくるか? 気持ち悪かっただろう」

 慌てふためく奥岳とは対照的に、照島は落ち着いていた。いや、落ち着いていたのはあくまで表面だけの話で、内心ではまだかなりドキドキしている。

「べ、別に気持ち悪くなかったよ。むしろオレはもっとしたい、かも……」

 言いながら奥岳の頬に触れてみる。性的な意味で彼に触れるのは初めてだ。いままでずっと我慢していたけれど、もうそうする必要はないのだろうと予感した。
 奥岳は驚いたように目を瞠っていた。何か信じられないものを見た、あるいは聞いたときのような顔だ。

「好きなんだ。誠治くんのこと」

 照島は心の中に隠していた気持ちを、奥岳本人に告げた。一生口にすることなく終わってしまうかもしれないと思っていた恋心を、言葉にして奥岳に伝えた。

「こんなことって、あるんだな……」

 奥岳の声は、泣きそうに震えていた。絵具で少し汚れた手で顔を覆うと、肩を震わせる。

「どうすればいいかわからなかった。遊児は純粋に俺の絵が好きで応援してくれているだけなのに、そばにいると段々好きになってしまってて……男同士だから告白なんかできないし、そうでなくても俺はこんな顔だから、諦めかけてた。でも、こんなことってあるんだな。気持ちが通じ合うことって、あるんだな」

 照島だって同じだ。自分の恋が実ることになるなんて思いもしなかった。いままでのように、眺めているうちに失恋をして、勝手に終わっていくものだとばかり思っていた。
 でも、今度は違う。奥岳も照島のことを好きでいてくれて、互いの想いが一つになった。嬉しい。キャンバスの中の空のように、胸の中が晴れ渡るようだった。こんなの奇跡だ。もしも二人を引き合わせてくれた存在がいるのだとしたら、いくらでも賽銭を捧げたいと思った。

「遊児」

 名前を呼ばれて、顔を上げた。そこにはいつもの優しい笑顔があった。照島が奥岳の表情の中で、一番好きなそれだ。

「遊児のことが好きです。俺と付き合って下さい」

 真面目な奥岳らしい、シンプルな告白だった。だけどそこに彼の気持ちのすべてが集約されているとわかったから、照島は死ぬほど嬉しかった。

「よろしくお願いします」



 そうして二人は、恋人としての交際をスタートさせた。
 照島は、いろんな初めてを奥岳に捧げた。初めてのキスもそうだし、初めての恋人も奥岳だった。そして付き合い始めて二週間が過ぎた頃に、初めてのセックスをした。奥岳のほうも初めての経験だったから、互いに手間取りながらの初体験だった。少し痛い思いもしたけれど、身体も心もすごく満たされた。

 奥岳とずっと一緒にいたい。と言うよりも、たぶん自分たちはずっと一緒にいるのだろうと、照島の中にはそんな予感があった。根拠はないけれど、そんな気がする。二人で四季が移り変わるのを見ながら、ゆったりとした時間を共有して、そして大人になってもその関係は続いていく。
 いつか、本当の意味で奥岳を支えられようになりたいと思った。いまは言葉でしか彼を支えてあげられない。画家になるには、きっと結構な額のお金がかかるのだろう。そういった面でも協力できるようになりたいと、まだ遠い未来のことをひっそりと考える。

 けれど、交際を始めて九ヵ月目を迎える頃に、二人の間を秋風が抜け始めた。



「――別れたい」

 奥岳と帰る放課後の帰り道で、照島は突然そう告げられた。

「な、なんで?」

 自分たちの交際は順風満帆だったはずだ。互いに愛し合い、尊重し合い、上手く妥協し合える、理想的な恋人関係になれていたはずだ。喧嘩もなかったし、会えば互いに求め合った。それがどうして別れに繋がるのか、照島にはまったくわからなかった。

「オ、オレのこと嫌いになった? なんか悪いところがあったら治すけど……」
「俺が遊児を嫌いになるわけないだろう。そばにいてくれることがどれだけ心強いか……でも、それだけじゃ駄目なんだ。俺自身がもっと高みを目指して努力しないと、夢に近づけない」

 奥岳は辛そうな顔で首を横に振る。

「俺は、高校を卒業したらアメリカの美大に行こうと思う」
「えっ……」

 照島は自分の耳を疑った。アメリカの大学――そんな話、奥岳はいままで一度もしなかった。だから遠くてもせいぜい東京辺りの美大に進学するのだろうと勝手に思っていたし、それなら会う頻度は減っても、交際は続けられると安心していた。

「日本の美大じゃ、夢を叶えるのに遠回りになるかもしれないんだ。だからアメリカの美大に行きたい。合格するの、すごく難しいらしいんだ。だから入試までにいろんな技術を身に着けておかないといけない。いま持ってる力だけじゃ、とても無理だと思う。でもそうすると、必然的に遊児に会う時間はなくなるだろうし、本当にあっちの美大に合格できたら、簡単に会うことができなくなる」
「オ、オレは大丈夫だよ。遠距離でも我慢できるし、勉強の邪魔もしないから。だから……」
「遊児が大丈夫だとしても、きっと俺は大丈夫じゃない。恋人である以上はやっぱり気になるし、寂しい思いをさせちゃいけないって思ってしまう。――いまは、自分のことだけを考えていたいんだ。我儘なことを言ってるってわかってるよ。でも、俺にとって夢はそれくらい大事なものだ。自分の人生のすべてを賭けていいって思ってるくらい、大事なんだ」

 奥岳の、画家になりたいという意志が強いことは知っていた。いや、知っているつもりだった、と言うべきだろう。でもまさかそれと自分とが天秤にかけられる日が来るなんて、思いもしなかった。
 指先がスウっと冷たくなる。照島がここで頷いてしまえば、この穏やかだった恋は終わってしまうのだろう。大事な思い出だけを残して、この人はどこかへ行ってしまう。
 嫌だと思った。いまの照島にとって、奥岳は人生のすべてだ。そばにいたい。二人でいろんなところに遊びに行って、たくさんの思い出をつくりたい。死ぬまでずっと彼の隣を並んで歩いていたいと思う。
 だけど彼の夢の邪魔はしたくない。自分のわがまま一つで彼の夢が壊されるなんて、そんなの駄目だ。彼は画家になる。画家になって、たくさんの絵を描いて、世界に羽ばたいて行ってほしい。

「……じゃあ、しょうがないよね」

 引き止めたいという気持ちを胸の奥に押し込んで、照島は別れを了承する言葉を吐き出した。

「夢、叶えるためだもん。しょうがないよね」

 照島の人生が照島自身だけのものであるように、奥岳の人生もまた奥岳自身だけのものだ。自分で選択し、自由に生きる権利がある。そこに照島の気持ちが入る余地はない。いや、あってはならないのだ。

「オレは誠治くんに夢叶えてほしいよ。だって誠治くんの絵、好きだもん。世界中のみんなにそのすごさを知ってほしいって思うよ」

 自分が彼の足枷になってはいけない。それに夢を現実にしてほしいという願いは、照島の本心だ。心の底から奥岳のことを、そして彼の描く絵を愛していた。

「だから別れてもいい。でも、友達として応援するのはいいだろ?」

 奥岳は泣きそうな顔をして頷いた。泣きたいのはこっちのほうだと、少し責めたいような気持ちになったけれど、彼にとってもきっと、これは辛い決断だったのだろう。一緒にいて、いつも温かな愛情に包まれていると感じていた。自分を一途に想ってくれているのだと、いつも伝わってきた。二人の間には、確かに愛情があったのだ。

「ごめんな……。どちらを選んでもすごく後悔する。でも同じ後悔をするなら、小さいほうがいいと思った」
「いいんだよ。その代わり、絶対アメリカの美大に受かって、絶対画家になってよ。そんで美術展を開くことができたら、一番にオレに教えてほしい。約束して」
「……わかった。絶対に画家になって、夢が叶ったら一番に遊児に連絡するよ。いつになるかわからないけど、それまで応援してくれるか?」
「うん。オレはいつまでも、何年、何十年経っても誠治くんを応援してるよ。だから絶対に諦めないで」
「ああ」

 奥岳は笑った。優しげに細められた瞳の端から、涙が流れ落ちる。それは山間に沈みかけた太陽の残光を反射して、まるで彼の描く絵のように美しかった。
 そして二人は、いつもの分かれ道でそれぞれの帰路に着く。
 奥岳は本当にすごいと思う。自分の夢を叶えるためとは言え、海外に行くことを決めるなんて、相当な勇気が要っただろう。それに話を聞く限りでは、彼が行くことに決めたアメリカの美大の合格率は相当低いようだ。いままでも自身の力量向上に努めてきたつもりだが、それ以上の努力が必要だと、奥岳は苦笑しながらぼやいていた。
 帰り道に神社があった。そこは別に学問の神様が祭られているわけではないのだが、あんな話を聞いて、照島は素通りすることなどできなかった。
 財布の中身を、惜しげもなくすべて賽銭箱に入れる。いつもは適当な願掛けも、今日は鈴を鳴らした後に、ちゃんと二礼二拍してからやってみた。

(どうか、誠治くんの夢が叶いますように……)

 大学に合格して、そこでいい成績を収めて、いつか彼の作品だけが飾られた美術展を開く。それは照島の夢でもあり、奥岳と別れてもきっと自分の中に存在し続けるのだろう。
 奥岳本人に言ったように、いつまでも応援している。夢が叶ったと連絡があれば、一番に駆けつけて「おめでとう」と祝ってやるのだ。そしていつか、世界中に奥岳誠治の名前が広まる日を待っている。
 ふいに涙が零れた。最初の一粒が零れると、あとは堰を切ったように次々と溢れ出し、賽銭箱に落ちて雨降りのような音を立てた。

「誠治くんっ……」

 名前を呼んだところで、もう元には戻れない。どんなに好きでも、もう戻ることはできない。二人は別々の道を歩いていくことを選んだのだから。
 照島は賽銭箱の上に顔を伏せる。額に何か触れたと思ったら、それはイルカの刺繍が入ったリストバンドだった。いつの日か奥岳がくれた、大切な宝物だった。
 しばらくの間、照島は子どものように手放しで泣いていた。


 ◆◆◆


 目を覚ました照島は、枕が濡れていることに気づいて苦笑した。
 久しぶりに奥岳の夢を見た。もう未練はないはずなのに、どうしてあのときの夢を見たのだろう。
 ふと、ベッドのそばに飾ったキャンバスを見る。青く澄んだ空と、その空の色を映し出した穏やかな海。そして手前の歩道には、海を眺める自分と奥岳の姿が描かれていた。
 現実の照島のそばにはもう、奥岳はいない。そのことに寂しさをまったく感じないと言えば嘘になるが、あのとき確かに存在していたはずの熱情は、この六年でいろんな恋をしている間に薄れていった。
 一年の間で元旦とお盆の二回だけ、奥岳は近況報告のメールをくれた。そして照島もそのメールにちゃんと返事を返している。恋愛感情は薄れたけれど、彼の夢を応援したいという気持ちはいまもなお照島の中にあり続けていた。
 アメリカの美大には無事に合格できたけれど、彼の最終的な夢はまだ現実のものになっていない。仮に現実にできたとしても、自分たちはもう恋人同士には戻らないだろう。

(だけどもう、それでいいんだ)

 ベッドから起きて、顔を洗いに行く。今日は夕方から知り合いに誘われたクラブのイベントに行くつもりだった。賑やかな場所は好きだ。いろんなおもしろい話を聞けたり、思わぬ出会いがあったりする。今日はどんなことがあるだろうかと、照島は歯を磨きながら一人ウキウキしていた。

 澤村大地と初めて出会う、五時間前のことだった。



世界一長い冬にも、必ず春は来る 終





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