01. ある夜の事件-前編


 しまった、と扉を開けた瞬間に、朦朧とした意識の中で照島遊児は思った。駆け出た場所はずいぶんと視界が開けていて、隣に建ち並ぶビルや街並みが一望できる。そう、屋上に出たのだ。つまりそれ以上は上ることもできないし、後ろから追いかけられている以上、下ることもできない。完全に追い詰められてしまった。
 どうにかこの場所から逃れる方法はないかと、さして広くない屋上内を一周し、手摺から下を覗き込む。期待はしていなかったが、やはり脱出に使えそうなものはないし、飛び降りることもできそうになかった。
 はあ、と絶望的な気分で溜息をつくと同時に、さっき自分が通った出入り口の扉が開いた。月明かりに照らされて、現れた人物の青い制服が目に入る。
 照島はその制服が好きだった。それは着ている者を男らしく見せる。街で見かけるたび、何度あらぬ妄想をして、一人興奮しただろうか。けれどいまの照島にとっては、一番見たくないものだった。はっきりとその立ち位置を表すなら、“敵”だ。

「大人しく投降しろ! 両手を頭の後ろについて、その場に膝をつけ!」

 現れた若い警官は、よく通る声で照島にそう命じてくる。もちろん大人しく従うつもりなどない。彼に捕まれば、待っているのは辛い牢獄生活だ。楽しみなこともなければ、自由もない。入った時点で照島の人生は終わってしまう。
 だがしかし、ここから逃げられない以上、照島に残された道は彼に捕まる他なかった。――いや、一つだけある。照島はもう一度手摺から下を覗き込んだ。ここから飛び降りればきっと、一発で死ねる。残りの人生を全うできないのは惜しいが、務所の中で生きるよりはずっと楽なはずだ。痛みならきっと一瞬で済む。
 二十三年……なんて短い人生だったろう。やり残したことはたくさんあるし、行きたい場所もたくさんあった。けれどどんな後悔も今更遅い。

 照島が警官に追い詰められる原因となったのは、ある友人の誘いだった。

 クラブでパーティーがあるから来ないかと誘われ、そういった集まりが好きな照島は一瞬の迷いもなく参加する旨を返信した。そして実際に行った先は確かにクラブのパーティーだったのだが、もっと正確に言うなら、クラブでのドラッグパーティーだったのだ。
 酒も煙草も二十歳になるずいぶんと前から手をつけていた照島だが、さすがにドラッグに手を出そうとは思わなかった。だから集まりの正体がドラッグパーティーだと知ってすぐに帰ろうとしたのだが、口にした飲み物にそういった類の薬が仕込まれていたらしく、そのときには自分の足で歩くことができなくなっていた。
 警察が会場に押し入ってきたのは、照島がようやく立ち上がれる程度に回復した頃だった。幸いにも奥の出入り口の真ん前にいたために、パーティーのメインとなったフロアからは逃げることができたのだが、必死になって階段を駆け上がっているうちに、ここに出てきてしまったのである。

 ドラッグの後遺症か、あるいはいまの状況に恐怖しているのか、照島の手足はひどく震えていた。思うように身体に力が入らないが、それでもこの高さの手摺なら乗り越えられる。照島は一つ息を飲むと、身体を上手いこと手摺に乗せようと、身を乗り出した。

「おい、やめろっ!」
「こっち来んな!」

 駆け寄って来ようとした警官を声で制する。

「そこから動いたら、すぐ飛び降りてやるからなっ」
「馬鹿なことはやめろ! まだ若いんだから、これからいくらだってやり直せるだろ!」
「そんなの嘘だっ! お前に捕まったら、何もかもが終わりだっ。オレは務所なんか行きたくない。死んだほうがましだ」
「そんなことはない。辛いかもしれないけど、少しの間我慢すればまた外に出て、やりたいことをやればいいだろ」
「やりたいことなんか、できやしない。薬やった人間を受け入れてくれる場所なんてどこにもないんだ。そもそも俺は、薬なんかやりたくなかった。ドラッグパーティーなんて知らなかったし、飲み物に勝手に混ぜられてただけなのに……」

 悔しくて、情けなくて、言葉を紡ぎながら涙が零れた。こんなところで死にたくない。この先楽しみなことだってたくさんあったのに、それらを体験することなく自分の人生は幕を閉じる。嫌だけど、照島にはもうどうしようもなかった。

「事情を知らずに飲まされたなら、罪もそんなに重くないはずだ。だから刑期もきっと短い。ちょっとの我慢で済む」
「うるさいなっ。オレがいまここで死んだって、お前にとってはどうでもいいことだろ。それとも手柄が欲しいのか? 残念だけど、お前に手柄なんかくれてやらねえからな! ここでオレが死んで、それで終わりだ」
「お前が死んだら、お前の家族や友達が悲しむだろ! それに俺だってお前にここで死んでほしくない」
「だったら見逃せよ! オレを見逃すか、オレを死なせるかのどっちかだ」

 照島は何も本気で警官が自分を見逃してくれるとは思っていない。単なる最後の悪あがきのつもりで、そんなことを口走る。だが――照島の予想に反して、警官はたじろぐような様子を見せた。言葉は返って来ず、考え込むように顔を伏せたのを照島は見逃さなかった。これはもしかしたら、この窮地を脱するチャンスがあるかもしれない。

「あんたが見逃してくれるんなら、オレはもう絶対薬になんか手出さないし、悪いことは一切しない。これから先の人生は真面目に生きていくよ」

 未成年時の喫煙、飲酒を除けば、そもそも照島は犯罪的な悪いことなどしたことがない。けれどこの軽薄そうな見た目のせいで他人からあらぬ勘違いをされることが多かった。それが逆にいまは上手く利用できそうだ。

「なあ、どうする? オレを見殺しにする? それとも見逃してくれんの? 悪いけど、あんまし時間ないから早く決めてね」

 彼が結論を出すより先に他の警官が上がってきてしまえば、照島はもう飛び降りるしかない。せっかく掴んだチャンスをそんな形で無為にするのは嫌だった。
 地上や下の階からは怒号や悲鳴めいた声が聞こえる。けれど照島たちのいる屋上だけは、世界から切り離されたみたいにしんと静まり返っていた。ドクドクと脈打つ鼓動の音が聞こえてしまうのではないかと思った。

「……本当だな?」

 やがて警官は、重く引きずるような声で言葉を紡ぎ出す。

「本当に、俺が見逃したらちゃんと真っ当に生きてくんだな? 嘘ついてるんじゃないだろうな?」
「う、嘘なんかついてない。本当に約束は守るから……」

 照島がそう言うと、警官はゆっくりとこちらに近づいてくる。さっきの距離では、月明かりだけではその制服以外はよく見えなかった。けれどこの距離なら彼の顔がはっきりと見て取れる。
 声からして若いだろうとは思っていたが、目に飛び込んできた顔は想像していた以上に若かった。歳は照島とそれほど変わらないだろう。最初はどこにでもいそうな平凡な青年だと思ったが、よく見ればその顔立ちは上品で、和風美男と言った感じに仕上がっている。かなり短く切りそろえられた髪型は、誠実で頼もしい印象のその顔によく似合っていた。
 いい男だ、と照島はしばらく警官に見惚れた。まさに警官になるために生まれてきたような顔と雰囲気で、それは照島の好みに合致している。こんな状況でもなければ口説いて一発お願いしていたことだろうに、運命とは実に残酷なものだ。

「お前を見逃すよ。ここで死なれると、俺はたぶん一生後悔するから」
「……そっちこそ嘘ついてないよな? そんなこと言って油断させて、捕まえたりしないよな?」
「そんなことしない。自慢じゃないけど、俺は生まれてこの方人に嘘をついたことがない」

 それこそ嘘だろ、と一瞬思ったが、彼の持つ雰囲気は思わずその言葉を信じてしまいそうになるほどの誠実さを醸し出していた。

「信じてくれ。本当に、死んでほしくないんだ」

 なんてクソ真面目な男なのだろう。いまどきどこを探したって、こんな善人は存在しないだろう。こんな人間に警官なんてやらしていいのかと一瞬だけ心配になったが、自分が助かるのならいまはそんなことどうだっていい。

「……わかった。あんたを信じるよ」

 迷ったのは一瞬のこと、照島はすぐに彼を信じることにした。そもそも生きるか死ぬかの二択しかなかった。ならばほんのわずかだけでも希望を感じるほうを選ぶほうが、後悔が少ないに違いない。
 照島の返事を聞いて、警官は辺りをキョロキョロと見回し出した。何を探しているのかと訊こうとする前に腕を掴まれる。こんな状況にもかかわらず、肌が触れ合った瞬間に照島の胸は人知れず躍った。

「こっちだ」

 警官に手を引かれて連れて来られたのは、階段ホールの裏、何やらよくわからない装置の立ち並ぶ部屋だった。そこにあったロッカーに押し込まれ、ドアを外から閉められる。

「ここに隠れてろ。いま下に降りたら絶対に捕まっちゃうからな。いろいろ片付いたら迎えに来るから、それまでここから出るんじゃないぞ」

 警官の言うとおり、地上や他の階にはドラッグパーティーの捜査と薬物使用者及び販売者の検挙がくまなく執り行われていることだろう。いま下に降りれば照島は袋の鼠だ。ビルを脱出するにしても、事態のすべてが落ち着くのを待つ必要があった。

「俺は一度下に戻るよ。屋上は調べ済だと言っておけば、とりあえずはお前も安全だろう。お前、名前はなんて言うんだ?」
「……照島遊児。お巡りさんは?」
「俺は澤村大地だ。照島、かなり時間かかるかもしれないけど、じっとしててくれ。勝手に死んだりするんじゃないぞ」
「しないよ。信じるって言ったじゃん」

 ドアの通気口越しに、警官――澤村の笑う顔が見えた。人を安心させるような、優しい笑顔だった。




続く





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