02. ある夜の事件-後編


 身体的にも精神的にも疲れていたのか、狭いロッカーの中で照島は立ったまま寝ていた。壁に顔をぶつけた衝撃で目が覚め、驚いた拍子に今度は腕をぶつけてしまう。

(全部夢だったらよかったのにな……)

 眠る前の記憶がはっきりと思い起こされる。照島の人生の中で、まず間違いなく史上最悪な夜だった。自分を追ってきた警官が澤村でなければ、更に最悪なことになっていただろう。いまは彼が照島を逃がす手はずを整えてくれている……はずだ。
 あんなお人よしは世界中探したってそうそう出くわすものではない。無理やり飲まされたとは言え、結果的に照島が薬物使用の犯罪者であることは間違いない。そんな人間に協力したことがばれたら、彼は首どころでは済まないだろう。そんなリスクを本人がわかっているのかいないのかは知らないが、照島にとって彼との出会いは奇跡そのものだった。
 ドアの開く音がした。澤村が来てくれたのだろうかと期待に胸が膨らむが、ロッカーを飛び出すような真似はしなかった。他の警官がまだうろついている可能性もある。慎重になるべきだろう。
 通気口から外を覗くと、澤村と同じ警官の制服が目に見えた。けれど澤村より背が高い。百九十センチくらいはありそうな長身の警官が、室内を丁寧に検分していた。

(早くどっか行ってくれないかな……)

 澤村が屋上に異常がないことを他の警官たちに伝えてくれたはずだが、現れた警官は立ち並ぶ装置の隙間や物陰を懇切丁寧に調べている。それは徐々に照島の入ったロッカーに近づいてきて、ついに通気口が彼の影に覆われた。

(や、やばっ、どうしよう……)

 せっかく澤村に逃がしてもらえると思ったのに、ここで再び人生の窮地に立たされる。見つかれば今度こそ終わりだ。澤村のようなお人よしが二人といるわけがないし、こんなところに隠れた以上、どんな言い訳も通用しないだろう。
 最後の悪あがきで、照島はドアが開かないように内側から強く引っ張った。それで状況がいいほうに転がるとはとても思えなかったが、どうせ捕まるのならできるだけのことをしておこうと思った。
 ドアが外から引かれる。もう終わりだ、と何もかもを諦めかけたが、警官は一度引いただけでロッカーから離れていった。鍵がかかっているとでも思ってくれたのだろうか? とりあえず脅威は去ったようだと、照島はホッと胸を撫で下ろす。

 ――その瞬間だった。

 その場の緊張感にそぐわない、軽快なメロディーがロッカーの中に響き渡った。音源は照島のジーンズのポケットの中からで、携帯電話のメールの受信を知らせる音楽だった。
 いまの音量なら、掃除道具入れから離れかけていた警官の耳にも届いていただろう。案の定、彼は身を翻して早足に再びこちらに近づいてくる。照島はさっきと同じように内側からドアを引くが、今度はまったくの無意味だった。物凄い力でドアは外に開かれ、それを掴んでいた照島もそのまま明かりの下へと引っ張り出されるような形になる。
 腕を掴まれたと思った瞬間、照島は魔法のような鮮やかさで床にうつ伏せにされていた。背中に体重をかけられ、完全に行動の自由を奪われる。

「まだこんなところに隠れていたとはな。無駄な抵抗はやめておけ。痛い思いをするのはお前のほうだ」

ぞっとするほど低い、洗練された声だった。思わず背中を振り返ると、そこには声に見合った精悍な顔立ちがあった。男臭いが、整った顔は澤村と同じような誠実さや精神力の強さを感じさせる。けれど澤村以上に意志の強そうな瞳は、一目見て気難しい人間だとわかるほどの、独特の鋭さを宿していた。

「離せよっ、このっ……!」

 拘束から逃れようと照島は身体に力を入れるが、びくともしなかった。逆に警官に腕を捻られて、あまりの痛さに呻きを漏らした。

「痛い思いをするのはお前のほうだと言っただろう。どっちにしろもうここからは逃げられない。大人しく捕まっておけ」

 抵抗が無駄だとわかると、照島はすぐに何もかもを諦めた。やはり澤村のようなお人よしはこの世に二人としていない。この警官は絶対に照島を逃がしてはくれないだろうし、むしろ痛みを持って照島を無力化しようとする。諦めるより他に選択肢などなかった。
 愕然とする中で、自分を見逃すと言ってくれた男の顔が浮かんだ。澤村は戻って来てはくれなかったけど、それはきっと照島を見捨てたわけではないと思う。きっとこいつが来たのだって入れ違いか何かだろうし、いまもまだ残処理にあたっているに違いない。照島はそう信じている。

(澤村さん、助けて……)

 この状況で、出会ったばかりの警官に助けを求めるなんて変な話だが、きっといま照島を救ってくれる人がいるなら、それは澤村に他ならなかった。助けてくれなくてもいいから、捕まる前にもう一度彼に会いたいと思った。あの人を安心させるような優しい笑みを、もう一度目にしたい。

「――ワカトシ!?」

 よく通る声が室内に響き渡ったのは、そのときだった。
 まさかと思い、期待を込めて出入り口のほうに目を向けると、そこにはいまし方頭の中に思い浮かべていた人物が立っていた。澤村大地だ。

「大地か。屋上を調べたのはお前だったな。ちゃんと隅々まで見ないと駄目だろう。そこのロッカーの中にこいつが隠れていた」
「俺が隠した」

 ワカトシと呼ばれた警官は驚いたように目を瞠ったが、それは照島も同じだった。まさか仲間の警官に、自分に手を貸したことを堂々と言うとは思ってもみなかったからだ。

「そいつを解放してやれ。そいつはドラッグパーティーとは関係ない。それに俺の……俺の従弟なんだ」
「俺がお前の従弟を知らないわけないだろう? いつからの付き合いだと思ってるんだ。なんでそんな嘘をつく」

 澤村の嘘をあっさりと見抜いた警官――ワカトシとか言ったか――は、ただでさえ鋭い目つきを更に鋭くして澤村を睨む。

「そいつは何も知らないで巻き込まれただけの被害者だ。だから薬もやってない」
「そんなのこいつが嘘をついてるだけかもしれないだろ。それにもしただ巻き込まれただけなのだとしても、事情聴取を行う必要はある。薬とは関係ないというなら、一日で解放されるだろう。こんなところに隠さなくてもいいはずだ」
「それはそうだけど……」

 澤村は考え込むような難しい顔をしたまま俯いた。さっき嘘をついたことがないと言っていたし、そんな彼が嘘でこの場を上手く誤魔化すのは厳しいだろう。それに仲間に嘘をつくこと自体、彼にとっては辛いことのように思える。

「澤村さんは俺に脅されてるんだよ」

 腹は括った。どうにかしてこの場から逃げたいという気持ちはあったけれど、これ以上澤村に嘘をつかせたくなかったし、彼の立場が危なくなるのは嫌だった。だからすべてを正直に話そうと口を開いた。

「見逃してくれなきゃ、ここから飛び降りるって脅したんだ。そしたらここに隠してくれた。ああ、ちなみに薬はやったよ。つってもやりたくてやったわけじゃなくて、無理やり飲まされたんだけどね。まあ、どっちにしたって捕まっちゃうんだろうけど」
「照島……」
「澤村さん、嘘つかせてごめんね。そんで、オレを逃がそうとしてくれてありがとう。その気持ちだけで嬉しかったよ」
「……ごめんな」

 澤村はひどく申し訳なさそうな顔をして頭を下げた。

「謝るなよ。澤村さんは何も悪くない。そうだ、出所したらオレと友達になってよ。澤村さんのこと好きになっちゃったから、また会いたい」
「……ああ。絶対また会おうな」

 手首に冷たいものが押し当てられる感触がした。そしてカチッと歯切れのいい音がして、手錠をはめられたのだとわかった。




続く





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