03. 澤村大地という男


 陽射しが思っていた以上に眩しくて、照島は思わず目を瞑った。それをゆっくり開いていくと、久しぶりの“外”の景色が視界に飛び込んでくる。壁もなければ鉄格子もない、自由な世界だ。
 ドラッグパーティーの事件から一週間、結局照島が刑務所に入れられることはなかった。薬を無理やり飲まされたという真実を警察はきっと信じてくれないだろうと諦めていたが、意外にも彼らはそれに関してきちんと調査をしてくれた。確実な証拠を集めるのに数日はかかったらしいものの、最終的には無実で解放され、そしていまに至る。
 何はともあれ無事に外の世界に戻れてよかった。留置所では、聴取のとき以外はとにかく暇で仕方がなかった、自分の行く先がとにかく不安で仕方なかった。それに出された食事が病院食のように薄味な上、肉類があまりなかったせいで、腹は満たされても舌は物足りなかった。とりあえずファミレスのものでいいからハンバーグでも食べよう。そしてそのあとは、今日は誰でもいいから適当な男とセックスしたい。一週間オナニーすらできない状況だったから、食欲の次に性欲が溜まっている。

「照島!」

 いきなり名前を呼ばれたのは、警察署の敷地を出てすぐのことだった。
 声のしたほうを向くと、少し離れたところで一人の青年が手を振っていた。自分を迎えに来てくれるような人間に心当たりはないし、遊び仲間にこんな地味な出で立ちの男などいただろうか? 少し訝しく思いながらまじまじと彼の顔を見直して、それが一週間前の夜に見たものだとようやく思い出した。

「澤村さん!」

 警官の制服ではなく、私服だったせいで最初は誰かわからなかったが、そこにいたのはあのとき照島を警察の検挙から逃がそうとしてくれた男だった。

「今日釈放されるって聞いてたから、待ってたんだ」
「待ってたの? オレを? なんで?」
「ちゃんと謝りたかったんだ。あのとき、最後まで助けてやれなくてごめんな。俺のこと信じてくれって言っておきながら、がっかりさせちゃったよな……」

 まさか彼に再び謝られるとは思ってもみなくて、照島は少し驚くと同時に、逆にひどく申し訳なくなる。そもそも澤村に謝る理由なんてないはずだ。確かに照島を逃がすことはできなかったかもしれないが、本来なら彼は照島を捕まえる立場であり、自分の身を案じることもせずに照島を助けようとしてくれた。本当にお人よしなのだと、照島は呆れ半分で苦笑する。

「いいって、そんなの。澤村さんはオレのことちゃんと助けようとしてくれた。それだけで十分だって言ったじゃん。むしろ謝るのはオレのほうだよ。仲間の警官に嘘つかせちゃったし……あの後、あの目つきの悪いやつにチクられたりしなかった?」
「目つきの悪いやつって、若利のことか? あいつは黙っててくれたみたいだ。普段はそういうの絶対赦さないやつだけど、俺は幼馴染だから赦されたのかな」

 そう言って澤村は笑った。一歩間違えたら自分が首になっていたかもしれないというのに、よくも平然と笑っていられるものだと照島は内心で思った。

「今日は仕事終わったの?」
「今日は非番なんだ。照島が釈放される日と被ってよかったよ。連絡先も知らないし、下手すりゃ会えずじまいだったかもしれないからな。せめて約束だけでも守れないと、なんかすげえ申し訳ないし」
「約束?」
「忘れたのか? 友達になってくれって言っただろ」

 そういえば、若利とかいう警官に連れて行かれる直前に、そんなことを言った覚えがある。

「覚えててくれたんだ」
「当たり前だべ。だからさ、その……友達になってくれるだろ?」

 少し照れくさそうな顔で手を差し出され、照島もなんだかむず痒いような恥ずかしさを覚えた。けれど素直に嬉しかったし、断る理由などどこにもない。男らしく無骨なその手をそっと握った。

「オレ結構馬鹿だし、澤村さんみたいにちゃんとしてないよ。それでも友達になってくれる?」
「ちゃんとしてないってなんだよ。俺は別に照島がどんな人間だろうと、友達になりたいって思うよ。放っておけないってのもあるけどな」
「へへっ、なんか嬉しいな。本当に友達になってくれるなんて思わなかった」

 照島の周りに澤村のような、真面目で誠実な人間はいない。そんな人間とは縁がないと思っていたし、あったとしても友達になりたいとは思わなかった。フラフラと遊びながら生きている自分とは、きっと気が合わなくておもしろくないだろうと決めつけていたからだ。
 けれど澤村とは友達になりたかった。あのとき助けてようとしてくれた恩もあるけれど、それ以上に彼がどんな人生を歩み、何を思い生きているのか興味があった。あとは彼の容姿が照島の好みの範疇であることも理由の一つである。

「ハグしていい?」
「なんでハグ?」
「すごく嬉しいことがあると、ハグしたくなることってない?」
「まあ、わからないでもないけど……。ここはさすがに人目がな〜」
「人目がないところだったらいいの? じゃあこっち来て」

 照島は澤村の返事も聞かずに、握ったままでいた彼の手を引っ張って、警察署の裏まで連れて行く。狭い路地で人通りはないし、ちょうど電柱が盾になって道路からも見えにくい。

「ここならいいだろう?」
「うん、まあ、大丈夫かな。でも相手が俺でいいのか? むさ苦しいだけだと思うぞ?」
「オレは澤村さんがいいの」

 苦笑する澤村の前に立ってみて、そこで初めて自分と身長がほとんど変わらないことに気づいた。顔はやはり最初に見たときに感じたとおり、上品な和風美男子だ。中性的な要素はなく、男らしく精悍で、頼もしい。いまどきあまり見かけないタイプの顔立ちだ。
 照島は澤村の身体に軽く抱きついてみる。こういうスキンシップを嫌がるノンケは結構多いが、幸いにも澤村はそちら側ではなかったらしい。遠慮がちだがそれでもちゃんと照島の背中に腕を回してくれた。
 抱きしめた身体は想像していたよりも厚みがあった。服の上からでも鍛えられているとわかるほどに硬い。脱いだらどんな感じなのだろうかと、おぼろげに彼の裸を妄想して、照島は危うく勃起してしまうところだった。



 何をするにしてもとりあえず腹を満たしたかったということもあり、時間的に少し早いが二人で夕食をとることにした。味の濃いものと肉ならなんでもよかったので、一番近くにあったファミレスに入る。
 望みどおりハンバーグにありつきながら、改めて互いの身辺情報を交換し合った。
 澤村は照島の一つ上の二十四歳で、警察官は六年目だそうだ。身長は百七十六,八センチ、体重は七十,一キロ。家はここから歩いて十分くらいのところにアパートを借りているという。

「え、身長の割に体重ちょっと重いんじゃね?」
「うるさいよ」

 他にも好きな食べ物や趣味、これまでの経歴なんかも聞いた。とにかく彼は清く正しく、道を踏み外すことなく生きてきたようで、過去にいろんな悪さをしてきた自分との違いに思わず苦笑が零れる。ただ、彼はガチガチの真面目くんというわけではない。冗談も言うし、照島の話がおもしろければ素直に笑ってくれる。話せば話すほど付き合いやすく、そして魅力的な人間だと感じた。
 食欲が満たされると、今度はもう一つの欲が顕著になってきた。そんな中で目の前には照島の好みど真ん中に当てはまるような、いい男がいる。いったいこの男はどうやったら自分を抱いてくれるだろうかと、割と真剣に考えていた。
 普通に頼んだってさすがに断られるだろうし、かと言って無理やり押し倒すような真似はしたくない。何かもっと澤村が協力的になってくれるような状況は作れないだろうかと考えに考え、照島はふと彼が極度のお人よしであることを思い出した。
 彼のこの性格は上手く利用できる気がする。あの事件のときだって、追い詰められた照島の半ば脅しめいた言葉に、彼は悩みながらも従ってくれた。今度だってもしかしたら、自分の身体を差し出すくらいしてくれるかもしれない。もちろん成功するのと引き換えに、せっかく築いた友好的な関係が崩れてしまうリスクもあったが、それを恐れる心よりも溢れ出した性欲のほうが勝ってしまう。

「ねえ、澤村さん。オレって結構フラフラしてるんだよね」

 ファミレスを出て適当に歩きながら、照島はさっき用意した台詞を口にする。

「流されやすいし、適当に生きてるし、だからこの間みたいなことにまた巻き込まれちゃうかもしれない」
「……おい、薬には絶対手を出さないし、悪いことは一切しないってあのとき自分から言ったじゃないか」
「そうだね。でもなんかわかんなくなってきた。家族とは絶縁状態だし、友達も浅い付き合いのやつらばっかだからさ。今回捕まってた間だって、誰一人連絡してくれるやつなんていなかったっぽい。なんか、オレのこと本気で心配してくれるような人間なんかいないんだなって思うと、少々道を逸れたっていいやって思うよ」
「いまは俺がいるだろう。俺はお前のこと心配するし、道を逸れそうになったら引っ張ってやりたいって思うよ」
「本当に? 出会ったばかりで、そんなに深い間柄でもないのに?」
「出会ったばかりとか、そういうの関係ないだろう。照島は俺の友達だ。友達になった以上、心配するのは当たり前のことだと思うし、照島に悪いことさせたくない」

 澤村の手が肩に触れた。覗き込むようにして近づいてきた顔には、少し怒ったような険しい表情が浮かんでいる。彼の優しそうな笑顔も好きだが、こういう男らしさが滲み出るような表情もグッとくる。いっそこのまま押し倒してくれれば問題解決なのにと思いながら、照島は次の台詞を頭の中から引き出した。

「じゃあ、オレを抱いてよ」

 険しかった表情が、そう言った途端に虚を突かれたようにキョトンとなった。

「澤村さんがオレを抱いてくれるなら、もう絶対悪いことなんかしないし、酒も煙草もギャンブルもしない」
「抱くって……俺ら男同士だろう?」
「澤村さんだって、男同士でセックスできるってことくらい知ってるだろ? オレはそっち側の人間だから、全然ウェルカムなんだけど」
「いや、でも、それは……」

 困ったような顔はするが、やはりすぐには断らない。この人は簡単に悪徳商法に引っかかってしまいそうだと、少しだけいらぬ心配をした。

「オレはたぶん寂しいんだと思う。貧しい人間関係しかつくれなかったのはオレ自身の責任だけどさ。澤村さんみたいにオレのこと本気で心配してくれる人、他にいないんだ」

 言いながら照島は、哀愁漂う儚げな表情をつくってみせる。プロの俳優も顔負けの演技ではないかと心の中で自画自賛しながら、今度は弱々しく笑った。

「セックスっはさ、スキンシップの一つだと思うよ。もちろん好きな者同士でやるのが一番いいんだろうけど、友達同士でも寂しさを満たすためにすることあるよ」
「友達同士でするのか?」
「うん。最近は結構そういうの多いらしいよ」

 というのはもちろん口から出まかせだが、澤村は真に受けたらしく、「そうなのか……」と感慨深げに呟いた。

「だからさ、澤村さんがオレの寂しさを埋めてよ。そしたらオレは絶対に悪いことしないから」

 澤村はしばらく唸っていた。
 照島と澤村が顔を合わせるのはまだ二回目だ。そんな浅い間柄の相手に本気で悩んでくれていて、それが少しだけ照島に罪悪感を覚えさせる。さすがにこれ以上は可哀想だろうか。好きでもない相手との、それも自分と同じ男相手のセックスなんて、身体は満たされたとしてもきっと心は辛いだろう。誰かを救うために自分の心を犠牲にするなんて、こんな善人にやらせてはいけないことだ。ここは自分の欲望を押し殺して、大人しく引き下がるべきかもしれない。そう思って照島は口を開きかけたのだが――

「わかった」

 はっきりと了承の返事が返ってきて、照島の計画は一歩前進してしまう。

「ほ、本当にいいの? だって澤村さん、ホモじゃないだろ?」
「そうだけど、でも、道を踏み外すかもしれないって聞いておいて、放っておくわけにはいかないだろう? まあ、抱くんじゃなくて抱かせろって言われてたら、さすがに断ってたかもしれないけどな」
「一回だけじゃないよ? オレが飽きるまで、ずっと相手してもらうよ?」
「いいよ。それでお前がちゃんと真っ当に生きてくれるんだったら、俺はいい。それにお前は男前だしな。案外悪い気はしないのかもしれない」

 そう言って澤村は苦笑した。

「今度はちゃんと助けたいんだ。あのときもっと上手く立ち回れたらよかったのになって、すごく後悔したから」
「あのときのことはもう気にしなくていいって言ったじゃん」
「照島が気にしなくても、俺は気にする。人一人の人生が懸っていたわけだしな。いまだってそうだ。もうお前は他人じゃない。大事な友達の一人だ。それに友達としてのスキンシップなんだろ? ならそんなに深く考えなくてもいいんじゃないかって思い至った」

 結局、澤村大地という男はそういう人間なのだろう。目の前に困っている人間がいると自分の身体まで差し出してしまう、どうしようもないくらいのお人よし。そのことを改めて思い知らされた。
 照島の胸の中にあった罪悪感が、消えかけの花火のように徐々に薄らいでいく。あとにはこの男とセックスできるという喜びと、どうしようもないくらいの興奮が心と身体に新たな輝きを打ち上げるのだった。
 真面目で誠実で、そして純粋で――そんな彼はいったい、どんなふうに自分を抱いてくれるのだろうか? どんな体位が好きで、どこが一番感じるのだろう。照島の頭の中は、すぐにそんなことでいっぱいになった。




続く





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