05. 片想い


 誰かの手が照島の額に触れた。そのまま掻き上げられ、猫でも可愛がるような優しい手つきで撫でられる。
 目を覚まし、自分に触れたその手を辿っていくと、男らしく精悍な顔立ちに行き着いた。寝ぼけていて一瞬誰だかわからなかったが、それが昨日身体を重ね合った相手だと気づいて、途端に顔を合わせるのが照れくさくなる。澤村の視線から逃れようと、照島は布団を頭まで引っ張った。

「おはよう、照島。俺そろそろ仕事行って来るな。朝飯冷蔵庫に入れといたから、起きたら適当に食べろよ」
「……ありがと」
「それとテーブルにこの部屋の合鍵置いておくから、外に出るときは一応戸締りよろしくな。昨日いろいろ聞きそびれたことがあるから、夜になったらまたここに戻って来いよ」
「うん……」

 行ってきます、と声がして、澤村が遠ざかっていく気配がした。寝室のドアが閉まり、辺りが元の静けさを取り戻すと、なんだか急に寂しさが込み上げてくる。
 照島は慌てて布団を飛び出した。寝室を出て玄関に走る。廊下に出ると、警官の制服に身を包んだ澤村は、まだ靴を履いている途中だった。

「さ、澤村さんっ……」
「そんなに慌ててどうしたよ?」
「いや、あの、え〜と……行ってらっしゃい」

 本当は抱きついて引き止めたかったけれど、そんなことをしては澤村に迷惑がかかる。いまにも彼に飛び掛かってしまいそうな衝動を懸命に堪えながら、照島は見送りの言葉を口にした。

「行ってきます」

 澤村は笑顔で答えてくれる。長い夜が明けたときに現れる、眩い朝日を思わせるような笑顔だった。



 澤村を見送った後、照島は一時間だけ二度寝して、彼が作ってくれた朝食を食べた。澤村が使ったらしい食器が水に浸けてあったので、自分の使った食器のついでにそれも一緒に洗う。
 それから乱れたベッドを整え、洗濯に出してまだ乾いていない自分の服の代わりに、衣装ケースから澤村の服を拝借した。地味な色合いの服ばかりだったが、品は悪くないし、背丈が変わらないのでサイズも問題なかった。
 ひと段落着くと無性に煙草が吸いたくなった。リビングの隅に置かれた自分のバッグから煙草の箱を取り出す。滑り出た一本を口に咥えた頃になって、昨日澤村に煙草はやめると言ったことを思い出した。彼に抱いてもらうための、交換条件の一つ。実際澤村は照島に、そんなところまで改心してほしいなどとは思っていないだろうが、自分から言い出した約束だ。実際に身体の関係を持った以上、守らなければならないだろう。
 やることのなくなった照島は、昨日の情事をぼんやりと思い出す。澤村は意外なほどすんなりと自分を抱いてくれた。照島の裸を見ても萎えなかったし、肌が触れ合っても抵抗がないようだった。案外そっちの気があるのかもしれないが、たったの一回ではよくわからない。

(澤村さん、カッコよかったな〜。なんかこう、雄って感じがした)

 静謐そうな澤村の、照島に己を差し入れたときに見せた攻撃的な瞳を思い出すと、頬がぼわっと赤くなってしまう。情事を思い出してこんなに恥ずかしくなるのは初めてかもしれない。自分のあられもない姿を散々澤村に晒してしまった。少し引かれてしまったのではないかと心配になるが、してしまったものはもうどうしようもない。

(今日もしてくれるのかな……)

 澤村は今日の夜も来てくれと言った。聞きそびれたこととは、きっと照島の住所や連絡先についてだろう。いろんな話をしたのに、その二つはまだ教えていなかった。その話が済んだら、また昨日みたいな優しく、けれど男の本能を剥き出しにしたセックスをしてくれるのだろうか?
 まだ午後を迎えていないのに、いまから身体が疼いてしまう。昨日受け入れたばかりでまだ違和感の残っているそこが、澤村を求めてヒクヒクしている気がした。


 ◆◆◆


 リビングテーブルに、色とりどりの料理が並ぶ。自分の手作り料理の見栄えに照島は満足して一つ頷いた。疲れて帰ってくる澤村も、きっと喜んでくれるだろう。

 ドラッグパーティーの事件から一ヵ月が経った。照島が留置場を出てからは三週間。あれから照島は、以前の遊びにかまけた生活に比べると、ずいぶんと健全で健康的な生活を送っていた。
 酒も煙草もギャンブルも、そして男漁りも、照島はきっぱりとやめた。澤村は非行に走らなければそれでいいと言ってくれたが、真面目な彼のそばにいると、それらはどうも自分の“穢れ”に思えてしまう。だから宣言どおり、すべてやめた。
 酒も煙草もギャンブルも、元々嗜む程度だったため案外手放すのは簡単だった。男漁りも澤村がセックスの相手をしてくれている以上必要ないし、いままで自分の生活の中心だと思っていたそれらをやめることに、苦労はまったくなかった。

 照島は週に三日だけ澤村のアパートに遊びに来ている。本当は毎日押しかけたかったが、彼に迷惑だと思われるのは嫌だった。だから三日だけで我慢している。
 警察官は激務らしく、澤村の帰りが夜遅くなることも少なくない。だから会うたびにセックスというわけにはいかなかったが、するとなれば意外にも澤村は積極的だったし、回数を重ねるごとに彼も上達しているようだったので、照島は満足だった。
 そして今日も彼の帰りは遅い。そういうときは照島が彼の夕食を作りに来ていた。まるで押しかけ女房だなと心の中で呟きながら、その響きも決して悪くないと自分で思う。

「ただいま」

 午後十時過ぎ、待ち焦がれていた相手がようやく帰宅した。

「大地くんお帰り。ご飯にする? お風呂にする? それともオレ?」
「飯がいい」
「少しは迷うそぶり見せてよ!」

 ごめんごめんと、澤村は笑いながらリビングテーブルに近づく。

「今日も美味そうだな。夜遅い日っていつもコンビニ弁当で済ませてたから、帰って来てこういうのが並んでるとすげえ嬉しい」
「一人だからってそういうとこ適当にしてると、身体壊しちゃうよ」

 と言った照島も面倒なときはコンビニ弁当で済ませているが、一応人に振る舞える程度の料理スキルは持ち合わせていた。

「って言うか、今日も俺が帰るまで食べないで待っててくれたんだな。嬉しいけど、お前だってバイトあるんだから先に食べて寝ててもいいんだぞ?」
「飯は一人より二人で食ったほうが美味いもんだろ? それに寝てちゃ遊びに来る意味ないじゃん。俺は大地くんほど朝が早いわけじゃないから、大丈夫だよ」
「ならいいんだけど……。すぐ手洗ってくるから、待っててな」
「うん」

 それから澤村と談笑しながら、遅い夕食を二人で過ごした。照島は言わずとも知れているが、澤村も意外とよく喋る。別によく喋る男が好みというわけではないし、寡黙な男もそれはそれで好きだ。でもやっぱり、一緒にいてお互いが楽しんでいると感じられるのは前者のほうだろう。澤村も自分との会話を楽しんでくれている。それがわかるから、照島も二人の時間をより楽しく感じることができた。
 夕食が終わると二人で食器を片づけて、澤村はシャワーを浴びに行った。背中を流そうかと提言したが、恥ずかしいから嫌だと断られた。

(なんでそこ恥ずかしがるんだろう? 散々エロいことしたのになー)

 ベッドの上で余すことなく互いの裸を見せ合っているというのに、今更何が恥ずかしいのだろうか。しかも体育会系の職場で生きているわけだから、裸の付き合いをする機会も多々あっただろう。

(オ、オレに触られると興奮しちゃうからとか? わあ、大地くん可愛い)

 などと勝手に澤村の心情を妄想しながら、ベッド周りを整えておく。
 シャワーを浴び終えた澤村は、いつもボクサーパンツ一枚というあられもない姿で洗面室から出てくる。背中を流されるのは恥ずかしいとか言うくせに、どうしてそこは大胆なんだと突っ込んでやりたい。けれどその逞しく、照島にとってとても美味しそうな身体はいつでも見たかったから、あえてそこは何も言っていない。
 澤村はクールダウンに一時間近くかけ、そしてその日は就寝となった。時刻はちょうど零時を回るところだ。以前の照島なら飲み歩いたり、そうでなければ適当な男と身体で遊んだりしていただろうが、最近は澤村に感化されて、一人のときでもこの時間に寝始めることが多くなった。実に健全で健康的だ。
 澤村は照島が同じベッドで寝ることを一切拒まなかった。それどころか、布団の中でいつも照島を抱きしめてくれる。今日も背中から包み込まれるように抱きしめられ、布越しに感じる彼の体温に、一人胸を高鳴らせた。

「遊児って兄弟いるんだっけ?」

 澤村を下の名前で呼ぶのはもう慣れたのに、彼に下の名前で呼ばれるのはまだ少し慣れない。呼ばれるたびにドキリとしてしまうのはなかなか治まらなかった。

「オレんとこはオレと兄貴の二人兄弟だよ。大地くんは?」
「俺は一人っ子。だから兄弟いるやつってちょっと羨ましかったな」
「え〜、でもオレの兄貴めっちゃ意地悪だよ? あとパシリにされたりさ〜。でもよく一緒に遊んでくれたし、ゲーム買ってくれたこともあったから、嫌いじゃないけどね」
「兄貴か……。俺は弟が欲しかったな」
「あ、オレも〜。絶対パシリにしてやったのに」
「ひどい兄貴だなおい!」
「だって、弟をパシリにできるのはやっぱり兄貴の特権だよ。でも大地くんが兄貴だったら、きっと優しくしてくれるんだろうな〜」

 少なくとも澤村は、照島の兄のような意地悪を弟にはしないだろう。

「最近思うんだ。弟がいたらこんな感じだったのかなって」
「こんなって、オレのこと?」
「そう」
「いや、弟とエロいことしちゃ駄目だろ」
「それは置いといて! 遊児は結構甘えてくるだろ? 弟がいたらそんな感じだったのかなって」
「まあ、大地くんみたいな兄貴だったら甘えちゃうだろうね」

 一人っ子と言えば自分勝手の天邪鬼なイメージだが、澤村からはそんな印象はまったく見受けられない。むしろ下の兄弟がいてもおかしくないような包容力さえ感じる。そんなのが自分の兄だったら、きっと自分はひどいブラコンになっていただろう。照島はそう思った。

「お前もう……俺の弟に……なれよ」

 澤村の声が途切れ途切れになったかと思うと、少しの間を置いて静かな寝息が聞こえ始めた。澤村はいつも布団に入って五分も経てば眠りに就く。今日もそこは平常運転のようだ。

「おやすみ、大地くん」

 照島は、眠りに落ちた澤村の額と頬、そして最後に唇にキスをする。

「オレは、大地くんの弟に生まれなくてよかったよ」

 澤村と兄弟だったら、少なくとも恋愛をすることはできなかった。いまだって照島の一方的な片想いであり、それが成就する可能性は低いかもしれないが、決してゼロではない。
 初めて澤村とセックスをしたときに自覚した、熱くて甘い感情。その正体がなんであるかなんて、人に聞かずとも照島はわかっていた。というか、この歳でそれがわからなければかなりの重症だ。

 照島は澤村に、恋をしていた。



 最近仕事が忙しいと、澤村は嘆いていた。それは本当のようで、いつも掃除が行き届いて綺麗だった澤村の部屋が、少し散らかり始めていた。水回りも目につくほど汚れている。

「おっし、オレが一丁掃除しときますか」

 その日宅配のバイトが休みだった照島は、朝から澤村の部屋を掃除することにした。元々掃除は得意なほうではなかったが、最近は澤村の影響を受けて自分の部屋を清潔に保つように努めている。それでも、相手に恋愛感情でも寄せてなければ、人の部屋まで掃除してやろうなどとは思わなかっただろう。
 とりあえず布団をベランダに干して、寝室のほうから掃除機をかけ始める。なんて献身的なのだろうかと自分で自分を褒めた。最終的には澤村が褒めてくれるのを想像して、ウキウキしながらヘッドを動かした。

「――おい」

 いきなり背後から声をかけられたのは、そのときだった。

「ぎゃああっ!?」

 自分一人しかいないはずの部屋で誰かに声をかけられることなど想像もしなかった照島は、猫のように飛び上がると同時に、思わず近所迷惑になりそうなほどの叫びを上げた。
 強盗か、あるいは霊的な何かか――いずれにしても目にするのは怖かったが、反射的に振り向いてしまったのでもう遅い。そこに佇む背の高い影の正体を、照島はしっかりと捉えていた。
 まず、男であることはすぐにわかった。顔立ちは男臭く、結構照島の好みである。系統で言えば澤村と同じ和風美男だ。けれど意志の強そうな瞳は一目見て気難しい人間だとわかるほどの、独特の鋭さを宿していた。――と、以前にも似たような印象を受けた顔を見たような気がする。そう、あれは確か一カ月と少し前、忌まわしいドラッグパーティーの事件のときだ。

 そこにいたのは、あの夜照島に手錠をはめた、若利とかいう警官だった。




続く/a>





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