06. 恋敵


「テルシマユウジ」

 ぞっとするような低い声が、照島の名前を片言のように呟いた。

「あんたは……え〜と、若利さん?」
「気安く下の名前で呼ぶな」

 ただでさえ鋭い若利とやらの目つきが、更に鋭くなって照島を見下ろす。

「だってオレあんたの苗字知らないし」
「牛島だ。それより、なんでお前が大地の部屋にいる? 薬の次は不法侵入か?」
「不法侵入してわざわざ律儀に掃除するやつなんかいないだろ! しかも薬に関しては結局無罪だったじゃん!」
「そうだとしても、調査の結果お前の素行は褒められたものじゃなかった。そんなやつがなんで大地の部屋にいるんだ? また脅したのか?」
「失礼だな! オレは大地くんと友達になったんだよ! 友達が家に遊びに来ちゃ悪いわけ?」
「友達? お前が、大地の?」

 フッと、牛島は不敵に笑う。嫌な感じだ。まるで人を見下したような、あるいは軽蔑しているかのような態度に、照島は内心でムッとした。

「大地は責任感が強いからな。あのときお前を助けられなかったことを気にして、仲良くしてやってるんだろう」

 牛島の言ったことは、半分は事実だと思う。実際に澤村本人がそう言ったわけではないけれど、最初はやっぱりあの事件の責任を感じて、彼は自分とは正反対の性格をした照島と仲良くしようと思ったのだろう。でもそれはあくまで最初だけで、いまの二人の関係に、そういった責任や脅しなんかはない。互いが互いを、ちゃんと友達だと思っているはずだ。

「あんたがどう思おうとあんたの勝手だけど、きっかけがどうであれいま楽しく遊んでるんだったら、それはもうダチだろ? それにもし大地くんが本当に責任感とかで付き合ってくれてるんだとしても、オレがダチだって思ってるならそれでいいじゃん」
「お前なんか大地の友達にふさわしくない」
「ふさわしくないってなんだよ! そんなの大地くんが決めることだろ! あんたが勝手に決めんな!」

 一発ぶん殴ってしまいたい衝動に駆られたが、なんとか堪えた。ここで本当に手を出せば、今度こそ刑務所に送られてしまう。そもそも牛島の顔に照島の手が届くことはないだろう。体格差とあの夜にお見舞いされた技を考えると、照島の拳が彼に到達する前にその手を掴まれたあげく、床に投げ出されてしまうという残念な結果になるとしか思えない。

「俺はあいつの幼馴染だ。幼馴染に悪い虫が付くのを黙って見過ごすことはできない」
「そんなこと言って、本当は大地くんのこと好きなだけなんじゃねえの?」

 照島としては、その台詞はほんの冗談に過ぎなかった。けれど、言った途端にあれほど威勢のよかった牛島が何も言葉を返さなくなった。もしやと思い、自分よりも十センチ以上高い場所にある彼の顔を見上げると、表情こそ来たときと変わらなかったが、両耳が明らかに赤くなっている。

「な、何を馬鹿なことをっ」

 低い声が少し上擦った。どうやら自分は核心を突いてしまったらしいと、彼の反応を見て照島は理解した。

「へえ、そうなんだ〜。大地くんのことが好きなんだ〜」

 からかうように言ってやると牛島はキッと睨んできたが、耳の赤さが顔にまで及んでいては大した迫力もない。

「違う」
「違わないだろ。いまのでバレバレだよ」

 ただの幼馴染にしてはずいぶんと厚かましいとさっきから思っていたが、彼が澤村に好意を寄せているなら、やたら照島を澤村から遠ざけようとする言動にも納得がいく。
 ムカつく奴の思わぬ弱点を見つけられて、照島は少し楽しくなってきた。どう攻撃してやろうかと頭の中で意地悪なことを考えながら、思わず頬が綻んでしまう。

「じゃあ、オレのライバルだね」
「ライバル……?」
「だってオレも大地くんのこと好きだもん」

なんだと、と牛島は驚いているのか怒っているのかわからないような顔で呟いた。

「牛島さんも、恋愛的な意味で大地くんのこと好きなんだろ? だったらオレらはライバルだ。まっ、いまのところはオレが一歩リードしてるかな。最近週に三回はここに泊まってるし」
「何っ?」
「しかも泊まるときはそこのベッドで一緒に寝てるよ」

 さすがに肉体関係があることは口にしなかったが、同じベッドで寝ているという事実は牛島にかなりのダメージを負わせたらしい。男臭い顔立ちが般若のような恐い表情になり、鋭い目つきはいまにもこちらに襲いかかってきそうな殺意を宿していた。
 けれど照島は別に恐れたりしない。彼の立場上本当に襲いかかってくることはないとわかっているし、だからこそ何もできずにわなわなと握った拳を震わせるのを見て、いっそう愉快な気分になった。

「お、俺はあいつの幼馴染だ。お前の知らない大地をたくさん知ってる」
「過去を知ってたってどうしようもないっしょ。大事なのはいまだよ。思い出ならいまからだっていくらでもつくれるんだから。それにオレだって、あんたの知らない大地くんのこと知ってるよ」

 たとえば照島に欲情して、獲物を狩ろうとする獣のような目をした顔とか。いくら澤村と付き合いの長い牛島でも、そんな顔は知らないだろう。

「お前なんか大地にふさわしくない」
「さっきも言ったけど、それって大地くんが決めることじゃん。それともあんたなら大地くんにふさわしいっていうのか? どんだけ自意識過剰だよ」
「少なくともお前よりはマシだ。不特定多数の男と寝たり、薬もギャンブルもしない」
「薬はオレもやってねえよ! 男遊びもギャンブルも、ついでに煙草と酒もいまはやめた。これでもなんか文句あるわけ?」
「大地は、お前のことなんか好きにならない」
「あんたのことだって好きになったりしねえよ。いくら清く生きてきたからって、無愛想で態度がでかいだけのやつなんか絶対好きにならない」

 牛島は悔しそうに唇を噛んでいたが、やがて「帰る」と吐き捨てるように呟いて、照島が掃除中だった寝室を出ていった。ついで玄関のドアが閉まる音がして、照島はこの不毛で無意味な争いに勝ったことを悟った。別に嬉しくはなかったが、相手の悔しそうな顔を見るのは愉快な気分だった。いっそ仕上げに塩でも撒いておこうか。

(そういえばあいつ何しに来たんだ?)

 澤村が留守ということは、同じ警察署に勤めているなら牛島も知っているはずだ。いったい何の用だったのだろうと疑問に思っていると、ふと開けっ放しになっていた引違ドアの向こうに、大きな段ボールが置かれているのに気がついた。
 封はされていない。遠慮なく中を覗いてみると、そこにはじゃがいもや人参、キャベツといった数々の野菜が詰め込まれていた。仕送りか本人が買ってきたのかは知らないが、どうやら牛島はこれを届けに来たようだった。
 さすがにこれを捨ててやるほど照島も性格は悪くないが、代わりに牛島の無愛想な顔を思い浮かべながら、段ボールの側面を軽く蹴りつけた。



 今日の澤村は珍しく定時に上がれたという。照島もバイトを終えていたので、今日は早い時間から会える。しかも明日は非番だと言っていた。ということは、時間の余った夜は澤村とセックスができるかもしれない。
 ワクワクしながら澤村のアパートに向かい、合鍵で玄関の鍵を開錠した。だが、ドアを開けた瞬間に、浮足立っていた照島の心は急速に冷えることになる。
 見慣れた澤村の靴の隣に、もう一つ大きな靴が置かれていた。誰かが来ている。しかもこの靴のサイズからして相手は結構な高身長だ。澤村の知り合いで高身長と言えば、あの男しかいない。

「お帰り、遊児」

 玄関が開く音に気づいたのか、澤村が廊下の向こうから顔を覗かせた。どうやら料理をしている途中だったらしく、エプロンに身を包んでいる。

「ただいま。誰か来てる?」
「ああ、うん。若利が来てる。今日は勤務が一緒だし、明日も同じ非番だから久々に泊まりたいってさ。ああ、心配すんなよ。予備の布団あるから、遊児も泊まれるぞ」

 靴の持ち主はやはり牛島だった。最悪だ。できることなら二度と顔を見たくなかった。無論、澤村がそんな照島の心情を知るわけがないし、照島も今更帰るとは言えなかった。

(しかも泊まるのかよ。図々しいな)

 リビングに入ると、ソファーに座った大きな影が嫌でも目に入る。牛島はこちらを振り返ったが、すぐに興味がなさそうに目を逸らした。その態度に内心腹を立てながらも、さすがに澤村の前で突っかかるのは気が引けたので、黙って荷物を部屋の隅に置いた。

「もうすぐ出来上がるからお前も座ってろよ」
「何か手伝おうか?」
「いまは大丈夫。皿運ぶときにまた呼ぶから」

 できることなら牛島と二人きりにはなりたくなかったが、手が要らないと言うなら仕方ない。諦めて牛島の近くに座ることにした。

「なんでいるんだよ」

 澤村に聞こえない程度の声で、照島は遠慮なく牛島を切りにかかった。

「幼馴染だからな。いたって別におかしなことはないだろ?」
「マジで泊まんの? 普通に邪魔なんだけど」
「邪魔かどうかは大地が決めることであって、お前が決めることじゃない」

 その台詞は、この間自分が牛島に言ってやったのとよく似ている。わざわざ真似てくるということは、あのときのことを相当根に持っているのだろう。不毛で無意味な争いは、残念ながらまだ終わっていなかったようだ。
 それから二人は何も喋らなかった。テレビが点いているおかげで気まずい空気は誤魔化されるが、素直に寛ぐことはできなかった。ついさっきまでここに来ることをあんなにワクワクしていたのに、いまは苛立ちばかりが照島を取り巻いている。だからと言ってこのまま泊まらずに帰るのも癪だった。牛島を澤村と二人きりにしてやるのは悔しい。
 十分ほど経ったところで澤村の料理が完成し、盛り付けられた皿を三人でリビングテーブルに運んだ。そういえば澤村の手料理を食べるのは初めてだ。今日ここに来て初めて楽しみなイベントがやって来たと、忘れかけていたワクワク感が蘇る。

「いっただっきまーす」
「いただきます」
「いただきます」

 澤村が作ったのはカレーライスだった。具沢山で味も美味しい。あとは大皿に大盛りのサラダが盛られているのを、各々が好きなだけ小皿に取っていく。

「照島、お前マヨネーズ好きって言ってたよな。もっとかけたほうがいいんじゃないのか?」

 そう言ってきたのは牛島だ。照島はマヨネーズが好きだなんて言った覚えはなかったし、サラダは胡麻ドレッシングで食べる派だ。いったいなんの冗談だと牛島を睨むと、小皿に盛った照島のサラダに、彼が勝手にマヨネーズをかけ始めた。しかも、誰がどう見てもかけすぎと言うほどにたっぷりとかけられ、盛った野菜の姿が完全に見えなくなる。

「何すんだよ!」
「すまん、手が滑った」
「滑ってこんなに出るわけないだろ!」
「出たものは出たんだから仕方ないだろう」

 などと言いながら、牛島はニヤリと笑っている。こんなのわざと以外の何物でもない。

「ひどいことになってんな。嫌なら俺のと替えてやろうか?」

 優しくそう提言してくれたのは澤村だ。

「い、いいよ。オレが食べるよ。マヨネーズ嫌いなわけじゃないし、作ってくれた人にこんな状態のを食べさせるわけにはいかないだろ」

 むしろお前が食べろよ、と牛島を睨むが、彼はもうこちらを見てはいなかった。腹が立つ。マヨネーズの海に沈んだ野菜たちを箸で救い上げながら、照島はテーブルの下で牛島の足を蹴った。



 食事が終わると、三人で順番にシャワーを浴びた。それからテレビを観ながら寛ぐ。相変わらず照島と牛島の間に会話はなかったが、代わりに足を蹴り合うという、ある意味で新しいコミュニケーションの取り方をしていた。照島からすればそんなものさえ不要だったが、やられたらやり返さなければ気が済まず、まるで子どものような喧嘩――じゃれ合いとも言える――はなかなか終わらなかった。ちなみに澤村は最後までテーブルの下の争いに気づいていなかった。
 そんなことをしているうちに就寝することになる。予備の布団があると言っていたが、ベッドの隣に敷かれていたのは一組だけだった。どうやら三人の中から二人は同じ布団あるいはベッドで寝なければならないようだ。

「俺と遊児がベッドで一緒に寝るから、若利はそっちの布団使ってくれ」

 無論、組合せとしてはそれが妥当だろうし、照島としては牛島と澤村を同じベッドで寝かせるつもりなどない。

「いや、待て大地。俺と大地が一緒に寝るべきだ。照島は肉体労働で疲れているだろうし、一人でゆっくり寝たほうがいい」

 牛島がそう抗議した。最もらしいことを言ってはいるが、きっと実際は自分が澤村と一緒に寝たいだけなのだろう。

「何言ってんだよ。体格的に無理に決まってるだろ。お前と一緒なんて窮屈そうだから嫌だよ。俺と遊児ならぎりぎりどうにかなるから大丈夫」
「そうだそうだー。変なこと言ってないでさっさと寝ろー」

 にやけ面を隠しもせずに言い放ってやると、牛島はムスっと黙り込んだ。そのまま布団に横になったかと思うと、掛布団を頭まで被って丸くなる。牛島よりも体格が小さいことで有利になることがあるとは思わなかったが、照島にとってこれは嬉しい誤算だ。ざまーみろ、と布団の中の牛島に舌を出して、ベッドの上ですでに寝る態勢に入っていた澤村の隣に潜り込む。
 澤村はいつも寝入るのが早いが、今日はまた一段と早かった。さっきもリビングでウトウトしているようだったし、きっと疲れていたのだろう。照島は向けられた澤村の背中に勝手に抱きついて、首筋に顔を埋める。この状態を牛島が目にして勝手に悔しがればいいな、と心の中で意地悪なことを思いながら、珍しく五分もしないうちに眠りに落ちていた。




続く





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