08. 牛島若利という男 救急車が来るまで、照島は動かなくなった牛島の身体をずっと抱きしめていた。そうしていなければ、この温かい体温がどこかへ逃げてしまいそうで恐かったからだ。 五分ほどで到着した救急車に牛島は乗せられ、照島も一緒に乗って病院に向かった。牛島はそのまま集中治療室に運ばれて、照島は別室で医者に診察を受ける。念のためレントゲンを撮ってもらったが、骨に異常はなかった。 牛島が入れられた集中治療室の前の長椅子に座り、照島は頭を抱えた。牛島が助からなかったら、それは自分の責任だ。自分が正義を気取って人助けなんかしたから、牛島がこんな目に遭ってしまったのだ。恐喝されていた子を無事に助けられても、牛島が無事でなければなんの意味もない。こうなるのだとわかっていたら、あんな自分らしくないことしなかったのに。 「――遊児!」 聞き覚えのある声が照島を呼んだ。顔を上げると、廊下の向こうから澤村が早足に歩いてくるところだった。 「大地くんっ……牛島さんがっ」 「聞いてる。お前もひどい怪我じゃないか。大丈夫なのか?」 「オレは大丈夫だよ。でも、牛島さんは……」 澤村の顔を見ると少し気が抜けた。我慢していた涙が堰を切ったように溢れ出す。すると澤村が隣に腰を下ろして、優しく背中を擦ってくれた。 「牛島さんが死んじゃったらどうしようっ……」 「あいつは丈夫だからそう簡単には死なない」 「でも、頭から結構血出てた。呼んでも、身体揺すっても全然起きなかった。オレのせいで……オレが馬鹿なことしたから、牛島さんは……」 「なんで遊児のせいなんだ? と言うか、いったい何があったんだ? 全部話してくれ。――あ、いや、すまん。俺じゃなくてあの人に話したほうがよさそうだ」 あの人、と言って澤村が視線を向けた先には、よれたスーツに身を包んだ、四十代くらいの男が立っていた。彼に向かって澤村が会釈する。たぶん刑事なのだろうと照島は察した。その予想は的中し、警察手帳を見せられながら簡単に自己紹介された。 照島はさっき裏路地で起こったことをありのままにその刑事に話した。照島が話し終えると、刑事は「なるほど、よくわかりました」と納得したような顔をする。 「あの場に倒れていた少年二人を逮捕しました。彼らの供述とあなたの証言から、事態のしっかりとした全体像が見えました。あとはもう一人の……牛島を殴ったという少年を捕まえるだけです。まあ、凶器は現場に残ったままでしたし、先に捕まえた少年たちがその子の名前を出しているので、今日中には捕まるのではないかと思います」 それから刑事は澤村と一言二言会話を交わして、病院から帰って行った。治療室のドアが開いたのは、それから五分ほど経った頃だった。 「牛島さんのご友人ですか?」 処置を担当したらしい医師が、二人を交互に見ながら訊いてくる。 「俺は職場の同僚です。牛島は大丈夫なんですか?」 照島より先に澤村が、医師に詰め寄るようにして投げかけた。 「表面上の怪我はありますが、頭の中のほうは大丈夫でした。命にも別状はありませんし、後遺症などが残る心配もないでしょう。ただ、しばらくは安静にしなければなりません」 照島と澤村が、同時に安堵の息を零した。 「ほら、あいつは丈夫だって言っただろ?」 そう言う澤村だって結構心配していたのだろう。顔は笑っていたが、細められた目には涙が滲んでいる。 「三日ほどは念のため入院していただきます。いまは眠っている状態です。そのまま病室にお運びしますが、お顔を見られて帰りますか? 病室に移ってからは、今日のうちはご家族の方以外は面会できませんので」 「じゃあ、少しだけ見て帰ります。遊児はどうする?」 「オレは……オレはいいや」 断ったのは、牛島の顔を見ると罪悪感に駆られるとわかっていたからだ。その気持ちを察してくれたのか、澤村はすぐに「わかった」と答えた。 「ロビーで待っててくれ。すぐに行くから」 「うん」 一人ロビーに下りて、たまたま目についた自動販売機で飲み物を買った。澤村の分も一緒に買って、それを排出口から取り出したところでちょうど澤村に声をかけられた。 「帰るか。俺んち来るだろ?」 「うん。あ、これ大地くんの」 「サンキュー」 帰りの道中、二人の間に会話は少なかった。牛島の命に別状はないとわかって安堵はしたが、照島の心はそれだけでは晴れなかった。結局のところ牛島は自分のせいで怪我をしてしまったわけだし、澤村にも心配をかけてしまった。そのことがやはりひどく申し訳なかった。 スーパーで買った惣菜をそこそこに食べ、シャワーを浴びるといつもより早く就寝することになった。いつもと同じように、一つのベッドに澤村と二人で入る。布団を被った途端に、澤村に背中から抱きしめられた。 「痛いところあるか?」 「大丈夫。心配かけてごめん。あと、牛島さんのことも、ごめん……」 「なんでお前が謝るんだ? 刑事に話したとおりのことが起こったんなら、お前は何も悪くないだろ?」 「でも、オレが馬鹿なことしなきゃ牛島さんはあんな目に遭わなかったじゃん」 「馬鹿なことってなんだよ。遊児は何も間違ったことなんかしてないだろ。それに遊児のしたことが馬鹿だって言うなら、若利のしたことだって馬鹿なことになる。お前は若利が馬鹿なことをしたって思ってるのか?」 「思ってない……」 「そうだろう。だから絶対、若利もお前が悪いだなんて思ってないだろうし、自分のしたことに後悔もしてないと思うぞ。だからもう、自分を責めるのはやめろ」 澤村の言葉が胸に染み渡る。それは冷たい湖に沈みかけていた照島の心を、温かい地表へと救い上げてくれる。どうしようもない優しさに触れて、照島はまた泣いてしまった。澤村は何も言わずに、照島が眠りに就くまでずっと抱きしめてくれていた。 バイトが終わり、自分の携帯をチェックすると、メールが一件届いているのに気がついた。澤村からだ。彼が勤務している警察署に来てほしいということだったので、自分のアパートには帰らずそのまま向かう。 「来てもらって悪いな」 受付に澤村の名前を出すと、本人がすぐに出てきた。申し訳なさそうな顔をする彼の手には、人の顔より少し大きいくらいの紙の包みが抱えられていた。 「これ、若利のところに持って行ってくれないか? 俺からのお見舞い。本当は直接渡したかったんだけど、今日は抜ける暇がなさそうなんだ」 「牛島さん、目覚ましたの?」 「ああ。うちの上司の話によると、すこぶる元気らしいぞ。それと、若利を殴った少年は今朝逮捕されたらしい。とりあえずは一見落着ってところだな」 「そっか。カツアゲされてた子もこれで安心しただろうな〜」 少年三人に囲まれていた、小柄で気の弱そうな一人の少年。これで彼が恐喝に怯えなくて済むようになったのなら、照島があのとき助けに入ったのも意味があったのかもしれない。 だが、すぐに牛島の顔が浮かんで、胸が痛む。怪我をさせてしまったことを謝りたい。そう思う半面で、なんだか顔を見るのが辛かった。でもここで逃げてしまったら、それこそ自分が昨日した行為も、そして自分を助けてくれた牛島のことさえも否定することになるような気がする。だから澤村からの見舞いの品を預かって、その足で牛島のもとへ向かうことにした。 澤村から聞いていた病室の前に立ち、まだ迷っている自分を心の中で叱咤して、ドアを優しくノックする。はい、と牛島の低い声が返事をした。 「オレ……照島だけど」 「ああ、入れ」 牛島の病室は広い個室になっていて、入り口とその正面の窓とのちょうど中間辺りの壁際にベッドがあった。その上に、頭に包帯を巻いた牛島が座っていた。相変わらず表情はないが、痛みに悩まされているような様子もない。澤村の言っていたとおり、元気なようだ。 「あの、これ、大地くんからのお見舞い」 「そうか」 手渡してやると、牛島はさっそく包みを開けた。中から出てきたのはフルーツの盛り合わせだった。果物ナイフも預かっていたが、どうやらこれを切るためのものだったらしい。 見舞いの品を興味深く眺めている牛島を前に、照島はどう切り出すべきか迷っていた。言わなければならないことはわかっているし、ここに向かう道中で台詞も考えていたはずなのに、いざ口にするとなるとなぜだか緊張してその台詞が出てこなかった。 「ど、どうしてオレのこと助けたんだよ」 開口一番に謝るはずだったのに、照島は順番を間違えて――というより、訊かないでおこうと思っていたその疑問を牛島に投げかけていた。 「あんた、オレのこと嫌いじゃん」 牛島にとって照島は、自分が長らく恋い焦がれた想い人を横から掠め盗ろうとする、言うならば泥棒猫のような存在だろう。邪魔で邪魔で仕方がないはずの照島をなぜ助けたのか、罪悪感に埋もれた心の片隅でずっと気になっていた。 「一般市民を守るのが警察の責務だ。そこに個人的な感情があってはならない」 何を当たり前のことを言わせるのだという顔と声で、牛島はそう口にした。 「それに、お前に万が一のことがあったら大地が悲しむ」 「そう……なのかな?」 「そうに決まっている。俺はあいつの悲しむ顔は見たくない。それに俺だってさすがにいい気はしないぞ。嫌いだからと言って、暴行されてざまーみろとは思えない」 「そうなの?」 「そうだ。それとも、俺はそんなに性格悪く見えるか?」 「そうじゃないけど……。意外と優しいんだなって思ってさ」 その優しい部分を見つけてしまったからこそ、怪我をさせてしまったことが余計に申し訳なく思えた。 「ごめん」 謝罪の言葉が口を突いて出る。 「怪我させてごめん」 「……なんでお前が謝るんだ?」 「だって、オレが無謀なことしたから牛島さんは怪我しちゃったんじゃん。一歩間違えたら死んでたかもしれない」 照島の上に倒れ込み、Tシャツを濡らした牛島の血の生温かい感触。死んでしまうのではないかと恐くなったのを、いまでも鮮明に思い出すことができる。 「確かにお前は無謀だった」 牛島はそう言ったが、照島を責めるような口調ではなかった。 「でも、勇敢だった。――上司から話は聞いている。お前はカツアゲされていた子を助けたんだろう?」 「そうだけど……」 「なら胸を張って堂々としていればいい。お前は何も悪くない。むしろいいことをしたんだ。俺が怪我をしたのは、俺の詰めが甘かったからだ。俺自身の責任であって、お前が責任を感じる必要なんかどこにもない。でも、そうだな……もしもまた同じような場面に遭遇したら、自分で踏み込むより先に警察を呼べ」 「うん、わかった。……ありがとう」 優しい、と思った。牛島を優しいなどと思える日が来るなんて思いもしなかったが、彼の言葉の一つ一つが本当に優しい。胸に抱えていた罪悪感やいろんな心配がその優しさに溶かされ、泣きたくなるほどの安堵感に包まれる。 「お、おい。なんで泣くんだ」 「だって、牛島さんが優しくするから……」 「俺が優しくしたらなんで泣くんだ。もう泣くなよ。泣かれると、どうしていいかわからなくなる」 戸惑う牛島の姿がちょっとおかしくて、照島は泣きながら笑ってしまった。 「そういえば、お前のほうは身体大丈夫なのか?」 「うん、大丈夫だよ。表面的な怪我だけで、骨とかは全然異常なかった」 「そうか。でも、顔に痣が残ってしまったな」 「ちょっとアクセントが効いててちょうどいいだろ?」 冗談っぽくおどけると、牛島は軽く噴き出した。 「あ、笑った」 「笑ってない」 「いや、いま明らかに噴き出しただろ!」 「呆れて溜息が零れただけだ」 「絶対違うだろ! なんでそんな嘘つくんだよ!」 「嘘じゃない。お前の気のせいだ」 「あーもうっ。せっかくちょっと見直してたのに、なんで自分で台無しにするかなー」 照島は自分を助けてくれたせめてものお礼にと、見舞いの品の果物を切ってやることにした。牛島もちょうど腹が減っていたらしく、照島が切った端からどんどん口に入れていく。その様子を見ていると、ふいに照島の腹が鳴った。そういえば昼食を食べてからもうずいぶんと経つ。 「お前も食うといい。美味いぞ」 「え、いいの?」 「切ってくれたからな。それに俺は、腹を空かしたやつが目の前にいるのに、自分の食い物を独り占めするほど性格悪くないぞ」 どうだかな、と軽口を叩きながら、照島は自分の切った果物に手を伸ばす。確かに美味い。そこらへんのスーパーで買いそろえたというわけではなさそうだ。 「そういえば、お前は大地のことを下の名前で呼ぶな」 「そうだね。それがどうかした?」 「俺のことも下の名前で呼べ。俺もお前のこと下の名前で呼ぶから」 「ええと……若利さん?」 「呼び捨てでも構わん」 「いや、さすがに呼び捨ては気が引けるな……」 出会ったばかりの頃、照島は牛島に馴れ馴れしく下の名前で呼ぶなと言われた記憶がある。それを取り消されたということは、牛島の照島に対する好感度が上がったのかもしれない。だからと言って照島が何か得をするわけではなかったが、人に好かれるというのはやはり悪い気はしなかった。 「そうだ、“若くん”って呼んじゃ駄目? そのほうが呼びやすいし」 「別に構わん」 「じゃあそれで。――今日はそろそろ帰るよ。晩飯の準備もしたいし、長居は迷惑だからね」 「そうか……」 「そんな寂しそうな顔すんなって」 「寂しくなんかない。ただ、暇つぶしの相手がいなくなって退屈になりそうだと思っただけだ」 「それって遠まわしに寂しいって言ってるのと同じじゃん」 「全然違う。勝手に変な解釈をするな」 そう言いながらも牛島はどこか照れくさそうで、ちょっと可愛いなと照島は思う。ここであんまりからかうのもひどいかなと、後ろ髪を引かれつつも照島は病室の出入り口に向かった。 「遊児」 名前を呼ばれたのは、ドアに触れたときだった。 「その……明日も来るか?」 「来るよ。バイトがいつもどおりに終わればこの時間には来れると思う」 「そうか」 安堵したような声だった。いったいどんな顔をして言ったのだろうと振り返ると、いつもの不機嫌そうな表情がなりを潜め、優しそうな、それでいて嬉しそう顔で牛島は笑っていた。 |