09. かすかに揺れ動く


 バイトが終わり、帰り支度をしていると携帯のメールの受信を報せる着信音が鳴った。この時間に来るメールといえば、送り主は澤村であることが多い。たぶんこれもそうだろうと思ってウキウキしながらメールボックスを開いたが、そこにあった送り主の名前は澤村ではなかった。

(あれ、若くんだ)

 牛島とアドレス交換はしていたが、メールが来るのは初めてだ。いったいどういった用件だろうか。さっそく本文を開いてみる。

“今日この後暇か いいもの見せてやる”

 絵文字も顔文字も使われていない、短い文章だった。ぶっきらぼうな牛島らしいメールだが、せめてクエスチョンマークだけでも使えよと、呆れ半分に心の中で毒づいた。
 牛島の言う“いいもの”が何を指すのかはわからないが、そんなことを言われて気にならない人間はいないだろう。照島はすぐに返信し、互いが知っているスーパーで待ち合わせることに決まった。
 すでにバイトは終わって帰るところだったし、バイト先からそう遠くなかったので、照島はてっきり自分のほうが先に着くと思っていた。だが、待ち合わせのスーパーに辿り着くと、見慣れた巨漢が出入り口横の自販機の前に立っていた。

「若くん」

 まだ口に馴染んでいない彼の相性を呼ぶと、男臭いが整った顔立ちがこちらを振り返る。

「待たせた?」
「いや。三分前に着いたところだ」
「いいものってなんだよ? 食い物?」
「違う。俺んちにあるから、いまから来い」

 彼がこの辺りのアパートに住んでいるのは知っている。でもさすがにお邪魔する機会はないだろうと思っていたから、誘われて少し驚いた。この間怪我をしたときから彼が自分に気を許してくれているのはなんとなくわかっていたが、家に招かれるほどだとは思わなかった。

「嫌か?」
「え、いや全然! むしろ行きたいよ!」
「そうか。ついでに晩飯も食っていくといい。と言っても、なんもないからここで弁当でも買ってくか」
「今日の晩飯くらいオレが作ってやるよ。いいものが何かは知らないけど、それ見せてもらえるお礼も兼ねて」
「なら、よろしく頼む」

 スーパーで食材を買い、牛島のアパートに向かう。歩いて五分ほどで着いた牛島の部屋は、物が少なくて殺風景だった。整理整頓が行き届いていて綺麗だとも言えるが、生活感がなくて、初めて澤村の部屋に入ったときのように落ち着かなかった。

「適当に座っていてくれ。すぐ持ってくる」

 そう言って牛島は隣の寝室らしき部屋に入っていく。ものの数秒で出てきた彼の手には、サイズの大きな三冊の本が抱えられていた。それが牛島の言っていたいいものなのだろうか?

「何それ?」
「卒業アルバムだ。小、中、高の三冊。これ全部に大地が写ってる」

 そういえば牛島は澤村の幼馴染で、小学校からの付き合いだと言っていた。過去を知っていてもどうしようもないと牛島に言ってやったことがあるが、正直に言えば澤村と幼少期から仲がいいというのは少し羨ましかった。

「オレが見ていいの?」
「構わん。俺だけがあいつの小さい頃を知っているのは、なんだか不公平な気がしていた」
「なんだよそれ。そんなの別に気にしなくていいのに」
「じゃあ見ないでおくか?」
「いえ、ぜひ見させてください若さま」

 ここは順番通りに、小学校のアルバムから見て行くべきだろう。厚い表紙を開いてページを捲っていく。どこの学校もアルバムの構成は同じらしく、やはり最初のほうには様々な行事の写真が載っていた。その中から澤村を見つけるのは難しそうだったので、照島は早々に個人写真のページへとジャンプする。

「お、発見」

 六年二組のページの真ん中辺りに笑顔の澤村を見つけた。

「なんか大地くんはそのまま大きくなったって感じだね。基本そんなに変わってないな〜。学級委員長とかやってそうな顔だよ。これ」
「本当に学級委員長だったぞ、大地は。昔から真面目でしっかりしていたからな。人に頼られることも多かった」
「あー、やっぱりそうなんだ」

 あの安定感のある性格は、小六の時点ですでに出来上がっていたのかもしれない。

「あ、若くんもいるじゃん」

 次のページの一番上の列に牛島の顔写真を見つけたが、声を上げた途端にそれを牛島本人に手で隠された。

「なんで隠すんだよ!」
「これは駄目だ。見せられない」
「別に減るもんじゃないだろ! 離せよ、このっ」

 男らしくゴツゴツとした手を引き剥がそうと試みるが、びくともしなかった。牛島が馬鹿力なのは知っていたが、こうまで必死になられると意地でも見てやろうという気になる。無論、このまま見る見せないの押し問答を続けても照島に勝ち目はない。ならば一か八か、相手の急所を突くのが戦い方として正しいだろう。
 照島の目に、牛島の無防備になったわき腹が目に入る。ここをくすぐってみようか。そもそもこの牛島にくすぐったいなどという感覚が備わっているかどうかも怪しいが、賭けに出て損をすることはないだろう。しっかりと狙いを定め、隙だらけのそこに照島はくすぐりという名の攻撃を仕掛けた。

「……っ!?」

 効果は抜群だったらしい。アルバムの上部を掴んでいた牛島の手の力が緩んで、その一瞬の隙にアルバムを引っ手繰ることに成功した。すぐに取り返されないように牛島から少し距離を取って、目的である小学校時代の彼をじっくりと確かめる。

「な、なんじゃこりゃ……」

 写真を目にした照島は、衝撃のあまりそんなことを呟いていた。
 そこに写っていた牛島は、いまの彼からは想像もつかないような、溢れんばかりの笑顔を浮かべていた。面影がないことはないけれど、同姓同名の別人と言われればそっちを信じたくなるほど、いま目の前にいる本人とはかけ離れている。人間の純粋さと綺麗な部分を掻き集めたって、こんな顔にはならないだろう。

「か、可愛い……。これやばいよ若くん。悪い人に誘拐とかされなかった?」
「されるか。ほら、それはもう仕舞え」

 これがどうやったらこんなになるんだ。そんな失礼なことを思いながら、照島はいまの牛島の顔をまじまじと見つめる。残念ながら写真のような純粋さはなくなってしまったようだが、いい男にはなったとは思う。すきっとした輪郭にはっきりとした目鼻立ち、口の形や唇の厚さも程よく、全体的に整っている。もう少し目つきが柔らかければ引く手数多だっただろうが、いまのままでも十分に美男子と言える。
 中学、高校のアルバムでも澤村は大きな変化がなかった。逆に牛島は中学の時点で大人らしい顔立ちに変貌を遂げ、高校ではすっかりいまの彼が完成していた。あの純粋さはどこに行ったんだとぼやいたら、見終わったアルバムで頭を軽く叩かれた。

「腹が減った」
「そうだね。そろそろ晩飯作らないとな〜」

 牛島の部屋のキッチンに立つのは初めてだったから、最初に何がどこにあるかを確認する。調理器具や必要最低限の調味料はそろっていたが、冷蔵庫の中はずいぶんと寂しかった。

「若くんって自炊しないの?」
「昔から手先は不器用だったから、してない。惣菜や弁当で済ませてる」
「そんなんじゃ栄養が偏っちゃうだろ。少しは作ってみたら? なんならオレが教えてやるよ」
「……面倒だから嫌だ」
「この甲斐性なしめ。そんなんじゃ大地くんに好かれないぞ」
「大地は料理が好きだから大丈夫だ」
「あ、そうだった」

 その日の夕食は、牛島の好物だというかぼちゃをグラタンにしてみた。彼が表情もなく食べるからてっきり口に合わなかったのかと焦ったが、食べ終わったあとに「なかなか美味かった。またいつか作ってほしい」と言ってくれたのでホッとした。
 澤村と違って、牛島はあまり口数が多くない。だからと言って一緒にいて気まずいとも思わなかったし、むしろ牛島のそばにいるのは不思議と落ち着いた。この間まで殺伐としていたのが嘘みたいだ。

「よし、そろそろ帰ろっかな」

 いいものも見せてもらったし、牛島の腹を満たしてやることもできた。いい時間だしそろそろ頃合いだろうと、照島は立ち上がる。

「帰るのか?」
「うん。もういい時間だしね。明日も朝からバイトだから風呂入って寝ないと」
「泊まっていけばいい」

 まさか牛島にそう言われるとは思ってもみなくて、照島は驚いた。けれどその感情を胸の奥に押し込み、ニヤリと底意地の悪い笑みを浮かべてみせる。

「何、若くんってばオレにまだいてほしいの?」
「そんなこと言ってない」
「嘘つけよ。寂しそうな顔したくせに」
「してない。お前の見間違いだ。嫌なら帰れ」
「いいよ。いてあげるよ。若くんが寂しさのあまり泣いちゃいけないから」
「誰が泣くか」

 憎まれ口を叩くと、久しぶりに牛島に睨まれたが、そこに以前のような刺々しさはない。図体はデカいし顔もどちらかというと強面なくせに、そういう素直な反応をするところは可愛いと思う。
 照島は迷いなく泊まることに決めた。なんの準備もしていなかったから、着替えは牛島のを借りることにした。サイズは大きかったが、不自然に見えるほどではなかった。
 寝るときは予備の布団がないというので、同じベッドで一緒に寝ることになった。体格のいい牛島と一緒に寝て窮屈ではないだろうかと心配だったが、セミダブルサイズだったので多少は余裕があった。

「なんか不思議だなー」

 こちらに背中を向けた牛島に、照島はそう切り出す。

「何がだ?」
「オレらついこの間までテーブルの下で蹴り合いとかしてたんだよ? それに初めて会ったときなんか若くんに手錠はめられたし」
「そのことは謝らないぞ。俺は職務を全うしたにすぎない」
「別に謝ってほしくて言ったわけじゃねえよ。でも普通さ、そんな相手と仲良くならないよね。ましてや一緒に寝る日が来るなんて思いもしなかったな」
「まあ、そういうこともあるんだろう」
「適当だな〜。一応オレら恋敵のはずなんだけど」
「じゃあなぜ俺に誘われて断らなかったんだ? 泊まるのだって無理強いはしなかったはずだが」
「なんか前ほど若くんのこと嫌いじゃないっていうか、むしろ人としてちょっと好きになっちゃったんだよ。ぶっきらぼうだけど優しいし、何よりあのときオレのこと守ってくれたじゃん」

 暴行していた少年たちから照島を守ってくれた牛島の姿は、たぶん一生忘れないと思う。

「職務でもなんでもさ、ああいうふうに助けられたら好感持っちゃうって。それにあれから若くん、オレに普通に接してくれるようになったよね」
「……お前はもっと適当に生きてるやつだと思っていたからな。そういうのが大地にまとわりついているのは許せなかった。でも違った。お前は勇気があるし、正義感だってある。そういうやつは俺も好感が持てる」
「惚れた?」
「……誰が惚れるか」
「え〜、少しは惚れろよ〜」

 うるさい、と言って牛島は照島から少し離れて行った。

「若くんっていつから大地くんのこと好きなわけ?」

 二人が幼馴染だということは知っているが、牛島がいつから澤村を恋愛対象として意識し始めたのかは聞いたことがない。興味本位に訊ねてみる。

「あれはよく覚えている。小学六年のときだ。その年の初めての水泳授業のときに、大地の水着姿を見てすごく興奮してしまった。その夜に水着姿の大地とキスする夢を見て、初めて夢精した。意識し始めたのはそのときからだな」
「うわ、若くんエロい」
「夢は自分じゃどうしようもないからな。最初はかなり罪悪感に駆られたが、それもそのうち消えた。あとは大地が好きでどうしようもないって気持ちが残ってしまった」

 その気持ちは変わらないまま、二十四歳になったいまの牛島の中にも存在し続けているという。

「俺はいつまで大地のことが好きなんだろうな」
「オレが知るかよ。でもまあ、他に好きな人ができればその気持ちも段々薄れていって、最後には消えるんじゃねえの? いまはそんな人見つかりっこないって思ってても、そういう出会いって突然やって来るからな〜」
「他に好きな人ができれば、か……」

 感慨深げに呟いたあと、牛島はこちらに寝返りを打った。

「遊児」

 接触してしまいそうなほど近距離で目が合う。不覚にも一瞬ドキリとしながら、けれど目を逸らすのは悔しくて照島も見つめ返し続けた。

「頭、触らせろ」
「あ、頭? なんで?」
「大地が、お前の後ろ頭は触り心地がいいと言っていた。俺も触ってみたい」
「え、まあ、別にいいけど……」

 真剣な顔をしていたから、いったい何を言い出すのかと構えていた。だから出てきた台詞に拍子抜けする。

「ほら、どうぞ」

 牛島に背中を向けてやると、さっそく大きな手が照島の後ろ頭を撫でてくる。そこはちょうどツーブロックの刈り上げ部分になっていて、確かにジョリジョリしていて気持ちはいいかもしれない。
 無骨な手をしているくせに、牛島の触り方は優しかった。もっとガシガシやられるとばかり思っていたから意外だった。

「どう?」
「これは確かに、いい感じだ」

 撫でらるのは嫌ではないし、むしろ気持ちよくて好きなのだが、さっきから牛島の吐息が耳を掠めるのが落ち着かない。

「いつまで撫でてんだよ」
「俺の気が済むまでだ」
「だから、その気が済むまでの時間を訊いてんだけど」
「気にするな。別に減るもんでもないだろう」
「勝手に決めんな」

 牛島が意地でもやめないような気がしたから、照島はもう何も言わなかったし、抵抗もしなかった。十分くらい経った頃に、ふいにその手が止まる。頭の後ろで、静かな寝息が聞こえ始めた。

「寝たのかよ……」

 振り向くと、穏やかな寝顔が目の前にあった。そういえば以前澤村も、照島の頭を撫でながら寝入っていたことがある。幼馴染はこんなところまで似るんだろうかと思いながら、照島は牛島の頭をくしゃくしゃに撫でてやった。

「おやすみ、若くん」




続く





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