10. 牛島の想い


「最近若利と仲いいんだな」

 テレビを観ながら夕食を食べていると、澤村が脈絡もなくそう切り出した。
 言われたとおり、確かに照島は最近牛島と一緒に過ごすことが多くなった。彼のアパートに泊まりに行くこともあるし、この間は買い物に付き合ってくれないかと誘われた。

「何、大地くんひょっとして妬いてる?」

 からかい半分にそう言うと、澤村は呆れたような顔で首を横に振った。

「なんで俺が嫉妬するんだよ。あいつ見た目がちょっと恐そうだから、昔からあんまり人が近寄って来ないんだよ。だからお前みたいにあいつと仲良くしてくれるやつがいるのは、幼馴染としてちょっと嬉しいんだ」

 確かに牛島は近寄りがたい雰囲気を持っている。だが、話してみれば案外優しいし、素直で少し可愛い一面があるのも知っている。初めの一歩さえ踏み出してしまえば、よほどのことがない限り誰もがいい友人になれるだろう。

「若利もいつか彼女ができたりするのかな〜。全然想像つかないけど」
「……どうだろうね」

 澤村はたぶん、自分が牛島に想いを寄せられているなんて思いもしないだろう。以前三人でいたときの牛島のあからさまな態度を見ても気づかないくらいだから、澤村は結構鈍感だ。いや、連れ添った時間が長かったからこそ、案外そういう気持ちには気づきにくいのかもしれない。
 牛島以上にあからさまに好意を示しているつもりの照島のそれにも、きっと澤村は気づいていない。気づいていながら知らないふりができるほど器用な人間だとは思えないし、やっぱり鈍感なのだろうか。

「そういう大地くんはどうなわけ?」
「何が?」
「彼女だよ、彼女。できる予定はないの?」
「俺もないな〜。いまはそういうの、別にいっかって思ってる。遊児や若利と遊んでるほうが楽しいから」
「じゃあいっそオレと付き合えよ。恋人もできて一石二鳥じゃん」
「何言ってんだよ、まったく」

 そもそも照島の言葉を本気だと思っていないようだ。確かに見た目からして軽薄だし、言い方も冗談っぽいから本気に思えないのも無理はないが、少しくらい靡いてくれてもいいのにと、少し恨めしい気持ちで澤村を睨む。

(でももし本当に大地くんに彼女ができたらどうしよう……)

 澤村に恋人ができてしまったら、自分のこの気持ちはどうなってしまうのだろう? 考えただけで虚しくなる。なまじ身体を重ねてしまった分、この恋を諦めなければならなくなったときの辛さは、きっと想像している以上のものになるだろう。
 恐い。ただ漠然と照島はそう感じた。澤村を想う気持ちは、長年彼を想っている牛島のそれにも負けない。だからこそその想いが通じることなくこの恋が終わってしまうことが、どうしようもなく恐かった。

「遊児?」

 澤村に名前を呼ばれ、照島はふと現実に引き戻される。

「急に喋らなくなってどうしたよ?」
「あ、いや、別に! ちょっと考え事してただけ」
「そうか?」

 心配そうに顔を覗き込んでくる澤村から逃げるように、照島はテレビのほうへ視線を向ける。
 自分と澤村の関係は、言うならば友達以上恋人未満だ。いつまで続くかは定かではないし、終わりもきっとある。それならいまのこの曖昧で居心地のいい関係を楽しんでおこう。すべてを諦めなければならなくなったときに、思い残すことがないように――。



 なんとなく、牛島と話したいと思った。メールを送ると牛島は非番だったらしく、いまはジョギング中だと返信があった。照島のバイト先の近くを通るというので、そのまま落ち合うことになった。

「ジョギング中に邪魔しちゃってごめんね」
「別にいい。今日のノルマはもう達成していた。それに俺も話したいことがあったから、ちょうどいい」

 ランニングウェア姿の牛島というのも新鮮だ。警察官の制服も似合っているが、こういうスポーツマンらしい格好も様になっている。体格がいいから余計にそう見えた。

「少し歩くのに付き合ってくれないか? 身体をクールダウンさせたい」
「オッケー」

 照島が隣に並ぶと、牛島はゆっくりと歩き出す。しばらくは今日あったことや、最近身近で起こった出来事を互いに話した。照島が話したいと思っていた話題を切り出したのは、五分ほど歩いて川沿いの道に出たときだった。

「大地くんって、昔彼女いたことあるんだよね?」

 確か出会ったばかりの頃に、二人ほど交際をしたことがあると澤村本人が言っていた覚えがある。それをわざわざ牛島に聞いたのは、澤村の恋愛に対する姿勢や気持ちを知りたかったからだ。さすがに本人に切り込んでいくのは気が引けた。

「二人あるな。どちらもあまり長くは続かなかったが」
「続かなかったって意外だな。大地くんって一途っぽいし、相手のこと大事にしそうなのに」
「そいつらのこと、そんなに好きじゃなかったんだろう。あまり好きじゃないけど、断れなくて付き合ったって感じだった」

 言われてみれば澤村は迫られると断れない性質のように見える。照島がいつの日かビルの屋上に追い詰められたときだって、自分の立場が危うくなるのも顧みずにこちらの要求を呑んでくれた。あれがいい例だ。

「結局大地が相手を好きになることはなかったし、相手はそれを感じ取って大地から離れて行った。どちらもそのパターンだったな」

 きっと澤村のことだから、相手を傷つけたくなくて告白を受け入れたのだろう。それが後々相手を余計に傷つけることになると、想像できなかったのだろうか?

「大地くんはこれからもそんな感じなのかな?」

 そうであれば照島にとっても、そして牛島にとってもいいことだろう。誰にも澤村を取られることなく、いまの平和な日常を歩み続けることができるのだから。

「さあな。あいつも今年で二十四だ。そろそろ本気で守りたいと思えるやつが出てくるかもしれない」
「そうなったら……嫌だな」
「俺だって嫌だ。でも本当にそうなったら、俺たちはあいつを諦めるしかない。邪魔だけは絶対にしちゃいけないだろう」
「昔大地くんに彼女ができたとき、若くんは辛くなかった?」

 想像するだけでこんなに辛いのに、実際にそれを味わった牛島はどんな気持ちだったのだろう。無遠慮だとは思ったが、どうしても聞いておきたかった。

「辛かったに決まってるだろ。飯も喉を通らないくらいだった」
「やっぱそうなるよな……」
「邪魔してやりたかったけど、できなかったな。それで大地に嫌われるのは恐かった。破局したときは正直かなり嬉しかったな。嫌なやつだろう?」
「別に、そんなの普通じゃん。俺が若くんの立場だったら絶対同じこと思ってたよ」

 たぶん誰だって皆同じだ。好きな人が幸せなら、その人が愛するのが自分以外の人でもいいなんて、そんなの綺麗ごとにすぎない。本心では絶対自分が選ばれなかったことを悔やみ、そして選ばれた人間を恨むものだ。

「若くんは、他に好きな人を見つけようとは思わなかったの?」

 失恋を癒したり、望みのない恋を諦めさせてくれたりするのは、新しい恋だ。照島はいままでの経験でそれを知っていた。

「努力はした。でも無理だった。身体は動いても、結局心が動かない。一歩踏み出そうとしても、いつも大地の顔が浮かんでしまう」
「そっか……」

 照島が初めて失恋したときも、牛島が言ったような感覚を味わった記憶がある。この世のすべてがモノクロに映り、自分の生きる意味を見失う。あんな思いをまたいつかしなければならないのだろうか?

「大地以上の男はそうそういないんだろうな」

 牛島の言うとおりだ。見た目はもちろんのこと、あんなに心優しくて温かい人には、この先何年生きたって出会えない気がする。初めて付き合った男も優しかったが、澤村のような、包み込むようなそれではなかった。それ以外の男は、失礼ながらろくでもないのばかりだったし、それは照島自身がろくでもなかったから仕方がない。

「人を好きになるって辛いな」

 少し間があってから、そうだな、と牛島は頷いた。
 それからしばらくは互いに無言だった。目的もなく河合沿いの道をゆっくりと歩く。

「そういえば、若くんも話したいことがあったんじゃねえの?」

 待ち合わせの場所で牛島がそう言っていたのをふと思い出す。

「そうだったな。――そこのベンチにでも座るか」

 土手を少し下りたところに、木製の小さなベンチがあった。特に汚れてはいないようだったから、照島はそのまま腰かける。だが、ここに座ろうと言ったはずの牛島はなかなか座ろうとせず、なぜか照島の目の前を険しい表情でウロウロしていた。

「何してんの?」
「考えをまとめている。少し待ってくれ」

 何を考えているのかはさっぱりわからないが、照島は言われたとおり待っていた。牛島が足を止めてこちらに顔を向けたのは、それから五分後のことだった。

「遊児は、同時に二人の人間を好きになったことはあるか?」

 何を言い出すのかと思えば、牛島の口から出たのはそんな台詞だった。

「オレはないな。でもそういうこともあるんじゃねえの? 一人しか好きになっちゃいけないなんて決まりないわけだし。っていうか、なんでそんな話?」
「……同僚に相談されたんだ。でも俺はそういう経験がないから、答えてやることができなかった」

 確かに一途の牛島には、そういった類の悩みはよくわからないだろう。

「やっぱり不純だろうか?」
「そんなことないよ。その人に付き合ってる人がいて、その恋人以外の人を好きになっちゃったなら不純だけど、フリーなら何人好きになったって別にいいじゃん」
「そういうものなのか?」
「そういうもんだろ。深刻になる必要なんてどこにもないと思うけどな〜」

 わかった、と牛島は納得したように頷いて、照島の横に腰かけた。
 二人の間に風が吹きつける。少しだけ冷たさを帯びてきただろうか。夏もそろそろ終わりかもしれない。

「俺は大地が好きだ」

 河の流れる音に耳を澄ませていると、隣で独り言のように牛島がそう呟いた。

「知ってるよ。さっきもそういう話してたじゃん」
「その台詞には続きがある」

 続きって何、と横を向くと、同じように牛島も顔をこちらに向けた。いつもならまっすぐにこちらを見てくるはずのその瞳が、なぜだかすぐに逸らされた。

「……大地を好きなのと同じように、遊児のことも好きだ」

 その瞬間、照島の耳には河の音も、吹きつける風の音も、その他の雑音のすべてが聞こえなくなった。




続く





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