12. さようならの言葉は言わない


 その日の澤村は、目に見えて元気がなかった。照島が話しかけてもいつものような切れのいい返事は返ってこないし、笑った顔もどこか無理をしている気がした。原因はなんとなくわかる。今日は月が替わった初めの日だ。きっと職場で辞令が出て、あのことを知ってしまったのだろう。

「大地くん、なんかあったの? さっきから元気ないけど」

 原因を知っていながら白々しく訊くのは、なんだか胸が苦しかった。けれど澤村より先に自分があのことを知っていたと知ると、彼はもっと落ち込んでしまうだろう。だから照島は知らない体を装い続けることにした。

「平気なふりしててもばれるもんなんだな、そういうのは」

 苦笑しながら澤村はぽつりと零した。

「全然ふりになってなかったよ。むしろ大地くんわかりやすすぎ」
「そうだったか? 演技は向いてないのかな、俺」
「別にオレの前で演技する必要なんかねえよ。オレじゃ頼りないかもしんないけどさ、たまには頼ってくれてもいいじゃん。ダチってそういうもんだろ?」
「遊児……そうだな」

 澤村は顔を上げる。寂しそうな目で照島を見てから、口を開いた。

「若利が山梨に転勤することになったんだ。職業柄転勤はよくあることだし、俺もそのうち経験するんだろうけど、あいつ転勤することを俺に全然話してくれなかったんだ。今日辞令が出て、初めてそれを知った」

 やっぱり澤村が落ち込んでいる原因は、牛島の転勤のことだった。この間河原で照島に言ったように、牛島は本当に辞令が出るまで澤村にそのことを言わなかったようだ。

「俺、あいつのこと幼馴染として結構大事に思ってた。でもあいつはそうでもなかったのかな……」
「そんなことないと思うよ。若くん、オレと二人でいるときはいつも大地くんの話ばっかしてたし。きっと言い辛かったんだよ。仲のいい人にそういう話するのって、なんか寂しいじゃん」
「そうなのかな……」
「きっとそうだよ。大地くんが若くんのこと大事に思ってるように、若くんも大地くんのことすごく大事に思ってると思うよ。傍から見てて、そういうのすごく伝わってくるから」

 その近しい関係が初めの頃はすごく羨ましかった。いまでも時々、三人でいてほんの少しだけ疎外感を抱くこともある。だけど近しい関係だったからこそ、牛島は苦しい思いをしていた。
 牛島に想いを告白され、転勤の話を聞いたとき以来、照島は牛島の顔を見ていないし、連絡も取っていない。あちらからも連絡はないし、本当に彼はこのまま照島の前からいなくなってしまうつもりなのだろう。彼が勤めている警察署に行けば会えるのかもしれないが、照島はそれをしようとは思わなかった。そうすることで彼が余計に辛い思いをするとわかっていたからだ。

「寂しいな……」

 澤村が独り言のように呟いた。

「いままでずっと一緒にいたから、あいつがいなくなるのはなんか寂しい。しかも山梨だからな……なんであんな遠いところに転勤するんだっ」

 遠いからこそ、牛島は転勤の話を受け入れたのだろう。澤村と照島に対する恋心を切り離すために。
 それにしても、澤村の落ち込み具合は想像以上だ。普段からしっかりしているし、誰もに頼られそうな兄貴的性分の持ち主だが、いまはそういったポジティヴな部分がすっかり成りを潜めている。むしろ迷子の子犬のような哀愁漂わせた顔は、彼がいかに牛島を大事に思っていたかを物語っていた。

「オレがどっか遠くに行っても、同じくらい寂しい?」

 言ってすぐに、照島は馬鹿なことを訊いてしまったと後悔した。長い付き合いの牛島と、ぽっと出の自分が同列なわけがないし、そもそもそんなことを訊いたってどうしようもない。嫉妬心が顔を出して、ついそんなことを口にしてしまっていた。

「ごめん、いまの忘れて」
「いや……遊児も、どこかに行っちゃうのか?」
「オレはどこにも行かないよ。大地くんが嫌って言っても、ずっと近くにいる」

 そっか、と澤村は安堵したように少し微笑んだ。

「友達は他にもいるけどさ、やっぱり二人は俺にとって特別なんだと思う。どちらがいなくなっても同じくらい寂しい。それも物凄く。大げさかもしれないけど、二人がいないと俺は生きていくのが楽しくなくなる気がする」

 だから、と言いながら澤村は照島の頭を撫でる。

「せめて遊児だけでも、俺の近くにいてくれ。……おかしいな。俺、こんなに寂しがりじゃなかったはずなのに」
「そんなの普通だよ。大事な人が離れるって誰だって寂しいもんだろ。オレも大地くんが近くにいないと嫌だよ。もちろん若くんだって」

 牛島の顔が頭に浮かぶ。ぶっきらぼうだけど、優しい男。このまま本当に顔を合わせることなく別れるのは、やはり寂しかった。

「二人で送別会してあげようよ。きっと若くんも寂しいはずだから」
「うん。そうだな」

 牛島はもう会いたくないと言ったが、そんなのは牛島の勝手だ。だからこっちも勝手にさせてもらう。彼が拒否しようが、送別会は絶対にやる。照島はそう決めた。


 ◆◆◆


 月日はあっという間に流れ、牛島が山梨に引っ越す日を迎えてしまった。牛島は午後の新幹線で発つというので、送別会はその日の午前中にやることに決まっていた。本当は昨日の夜にしたかったのだが、澤村の都合がつかず当日になってしまったのだ。
 予想はしていたが、澤村が送別会のことを牛島に話すと、彼は最初それを辞退しようとしたらしい。それをなんとか説得――というより、口論の末に約束を取り付けることができたらしく、無事にその日を迎えることができた。
 澤村の車に乗って牛島をアパートまで迎えに行く。駐車場で待っていると言っていたが、二人が着いたときにはあの目立つ長身はそこにいなかった。

「まだ寝てたりして……」
「まさか。少し待ってみるか」

 牛島の車は先に山梨に送っていて、彼の部屋番号が書かれたスペースは空だった。そこに澤村は車を入れ、今日の主役が出てくるのを待つことにした。だが、五分経っても牛島は一向に現れず、痺れを切らした澤村が携帯で電話をかけていた。

「あれ……?」

 携帯の画面を見ながら、澤村が首を傾げる。

「どしたの?」
「番号が使われてないって……おかしいな。昨日は普通に電話できたのに」

 それを聞いて、照島は嫌な予感に駆られる。
 牛島は別れが寂しくなるから、照島とは二度と顔を合わせないつもりだと言っていた。澤村ともできることなら会いたくないようだったが、職場が同じだからとそちらは諦めていた。送別会に参加するとなると、彼は照島と澤村の両方に会わざるを得なくなる。もしかしたらその状況になることから逃げたのかもしれない。

「大地くん、若くんの部屋行ってみよ」
「ああ」

 二人は車を降り、駆け足で牛島の部屋に向かった。インターホンを鳴らすが、返事はない。ドアを叩きながら牛島の名前を呼んでみても、部屋の中からは物音ひとつしなかった。

「――あら、牛島くんのお友達?」

 自分たちにかけられたであろう声に振り返ると、そこには五十代くらいの女性が、何か珍しいものでも見つけたような顔をして立っていた。以前牛島の部屋に遊びに来たときに見かけた覚えがある。確か牛島がこのアパートの大家だと言っていたはずだ。

「牛島くんなら二十分くらい前に、うちに挨拶に来たわよ。転勤するんですってねえ。スーツケースを持っていたから、そのまま行っちゃったのかしら」
「え……」

 照島と澤村は互いに顔を見合わせる。どうやら悪い予感は的中してしまったらしい。牛島はこのまま、自分たち二人とは顔を合わさずに山梨へと発ち、そして二度と会わないつもりなのだ。
 二人は同時に駆け出した。すぐに車に乗り込んで、牛島を追うべく近くの駅へと向かう。新幹線で移動するというのは本人から聞いていたから、いま牛島がいるとすればその駅以外にないだろう。新幹線を使うこと自体が牛島の嘘だったら元も子もないが、いまはもう残された可能性を信じるしかない。
 澤村が車を駐車場に停めに行っている間、照島は先に降りて構内を探すことにした。休日ということもあって、駅はたくさんの人が行き交っていた。牛島がいたとしても、これではいくら長身の彼であっても見つけ出すのは容易ではない。だからと言ってやる前から諦めるわけにはいかず、人々の間をすり抜けながら隅々まで目を凝らす。
 新幹線口の前まで来ても、牛島は見当たらないかった。もう発ってしまったか、あるいは改札の向こうに入ってしまったのだろうか? ならばその可能性に賭け、自分も入ってみよう。照島は入場券を買うべく、切符売り場に向かう。

 見覚えのある後ろ姿を見つけたのは、そのときだった。

 切符売り場の向かい側にある売店に、スーツケースを持つ長身の姿があった。あれは間違いなく牛島だ。気づかれるとなんとなく逃げられそうな気がしたから、照島は彼に見つからないようにそっと近づく。

「おい」

 声をかけると同時に、たくましい腕を掴んだ。驚いたような顔でこちらを振り返った牛島を、照島は怒りも露わに睨んでやる。

「何してんだよっ」

 訊ねると、牛島はバツが悪そうに目を逸らした。その態度がなんだかムカついて、照島は一目も憚らず牛島の胸倉を乱暴に掴んだ。

「なんで何も言わないで、顔も見せないで行こうとするんだよ! 俺らから逃げようとしてんじゃねえよ!」
「……もう会わないと言ったはずだ。その理由だってお前は知ってるはずだろう?」
「知ってるよ。でも、オレはこのまま顔も見ないでお別れなんて嫌だよっ。そりゃ、オレのは恋愛感情じゃないかもしんないけどさ、いなくなったらすげえ寂しいって思うくらい、人として若くんのこと好きだよ」

 出会いは最悪な形だったかもしれないし、初めの頃は互いに壁を作っていた。けれどあの暴行事件をきっかけにその壁を壊してみたら、それまでの冷え切った関係が嘘のように仲良くなることができた。牛島がいなくなると、澤村を狙うライバルがいなくなる。そう思う気持ちよりも、彼がいなくなって寂しいという気持ちのほうが照島の中では大きかった。

「オレはまだいいよ。でも、大地くんはどうなるんだよ? 大事な幼馴染なんだろっ。なのに何も言わずに山梨に行って、大地くんがどう思うか考えたことないのか? あんたが転勤するの黙ってて、大地くんがどんだけ落ち込んだと思ってんだよっ」
「これは俺の気持ちの問題だろ」
「そうだけど、だからって大地くんがあんたを大事に思う気持ちを踏みにじっていいわけねえだろ! そのくらいわかれよ! 好きならもっと、大事にしろよっ……」

 照島が牛島と仲良くしてくれて、澤村は嬉しいと言っていた。ぶっきらぼうな幼馴染をいつも心配していて、大事にされている牛島が羨ましかった。牛島だって澤村のことはとても大事なはずだ。照島と話すときの話題の中心は、いつも澤村のことだった。

「離れるのが辛いから、顔を見たくないって気持ちもわかるよ。一緒にいると辛い思いをするから、離れたいってのもわかる。でも逃げたって結局辛いものは辛いんだよ。離れたって気持ちはそう簡単に動いたりしねえんだ。十二年間気持ちが変わらなかったんなら、尚更だろ」
「わかったようなことを言うなっ。俺がどれだけ苦しい思いをしているか、お前にはわからないだろっ」
「じゃああんたが何も言わずにいなくなることで、大地くんが苦しい思いをするのはいいって言うのか!?」
「っ……」

 牛島は押し黙る。怒っているような、あるいは苦しそうな表情をした顔を伏せ、額を手で押さえる。

「さっきも言ったけどさ、オレは若くんがいなくなったら寂しいよ。今日の送別会で泣いちゃうんじゃないかって心配になるくらい、寂しかった。でもたぶん、大地くんはもっと寂しいと思う。山梨に行くのはもうどうしようもできないかもしんないけど、せめて連絡先くらい教えて行けよ。二度と会わないとか、そんなの駄目だからな」
「……なんでそんなこと言うんだっ」

 顔を上げた牛島は、照島を責めるような目をしていた。

「なんでいまそんなこと言うんだっ。お前らから離れるって心に決めたのに、そんなことを言われたら、その決意も揺らぐだろ。離れるのが辛くなるだろ。だから、今日は会いたくなかったっ」
「この間オレに転勤の話をしたとき、若くんの背中すげえ寂しそうだった。いろいろ悩んで出した結論だったのかもしんないけどさ、そんな寂しそうにしてるやつを黙って見送ってあげられるわけないだろ。それに同じ感情じゃなかったかもしれないけど、オレら若くんのこと好きだもん。もう会わないなんて、そんなことできるわけないじゃん」

 照島は掴んでいた牛島の胸倉をゆっくりと離す。彼はきっともう逃げない。そんな気がした。

「――若利!」

 澤村の声がして、二人同時にそちらを振り向く。こちらに走ってくる澤村は、目に見えてわかるほど怒っていた。その気持ちは痛いほどわかるし、牛島はその怒りをぶつけられて当然だ。どうぞやっちゃってくださいと言わんばかりに、照島は牛島のそばからさっと離れた。

「若利」

 牛島の前に立って、澤村は彼の名前をもう一度口にする。

「俺は幼馴染として、お前のことが大事だった。でも、お前のほうは違ったんだな」
「俺がお前を大事に思ってないわけないだろう」
「そんなの嘘だっ。転勤のことだって、辞令が出るまで話してくれなかったじゃないか」
「……それは悪かったと思う。でも、大事だからこそ……ずっと一緒にいたからこそ、言えなかった。これは俺のわがままだ。自分の気持ちから逃げて、寂しいと感じることからも逃げようとした」
「自分の気持ち……?」
「……いまは何も訊くな。いつになるかわからないが、いつかきっと大地にも話す。――お前を幼馴染として大事に思っているという気持ちに嘘偽りはない。それは信じてほしい」

 牛島の想いを知らない澤村には、彼の抱えているものが何なのか想像もつかないだろう。けれど何も訊かず、わかった、と柔らかい笑みを浮かべて頷いた。

「送別会、すっぽかして悪かった」
「ホントだよ。せっかくいいとこ予約してたのに」

 照島が冗談っぽく口を尖らせると、牛島はもう一度「悪かった」と謝った。

「でもどうせ何か食べるなら、俺はお前ら二人の手料理がいい」

 ずっと険しい表情をしていた牛島が、今日初めて笑った。その優しい顔で澤村と照島、二人を交互に見つめる。そして彼の逞しい腕が、二人の身体をまとめて抱きしめた。

「時々会いに来る。だから二人も時々、会いに来てくれ」

 牛島の口からようやく、彼の素直な気持ちが出てきた。安堵すると同時に、彼が離れることへの寂しさを思い出し、照島は我慢できずに泣いてしまった。すると牛島が照島の頭を、澤村が背中を優しく撫でてくれる。公衆の目もあって少し恥ずかしくはあったが、その温かさが惜しくて、照島はしばらくの間二人の身体に縋りついていた。




続く





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