14. 心が壊れる瞬間


 ここ最近澤村は忙しいらしく、なかなか顔を合わせることが叶わなかった。今日彼の部屋を訪れるのも久しぶりのことだ。二人分の夕食を作る前に、照島は寝室の彼のベッドに倒れ込む。そして枕に顔を押し当てると、思いっきり息を吸い込んだ。

(はあ……大地くんの匂いだ)

 最後に澤村と会ったのは約二週間前。こんなに会えない日が続いたのは初めてのことだ。その一カ月くらい前から、仕事やプライベートの用事で会えない日が多くなっていたので、照島の澤村不足は深刻なレベルに達していた。ついでに言うと性欲も溜まっている。もちろん自分で処理することもしたのはしたのだが、やはり澤村の味を知ってしまっているだけに、物足りなさを感じずにはいられなかった。
 今日はもうすぐ帰宅すると澤村から連絡があった。いまはまだ夕方だ。明日仕事だとしても寝るまで時間はたっぷりある。何が何でも澤村とセックスしたい。

「――ただいま……って、あれ? 遊児?」

 二週間聞きたくて堪らなかった声が、引違ドアの向こうから聞こえた。慌ててベッドから飛び起きると、飼い主の姿を見つけた犬のような勢いでリビングに走る。

「大地くん!」

 二週間ぶりに見る、大好きな彼の姿。誠実そうな男前は相変わらずで、その顔に浮かんだ微笑みも照島の知っているそれと同じで安心した。逞しい身体に飛びつくような勢いで抱きつき、髭も生えてないつるつるの顔に頬ずりする。

「寂しかったよぉ」
「二週間くらいで大袈裟だな〜。メールはしただろ?」
「メールじゃ顔見れないじゃん。オレがどんだけ会いたくて会いたくて震えてたと思ってんだよ」
「はいはい、寂しい思いさせてごめんな」

 無骨な手に、後ろ頭を撫でられる。この瞬間が照島は好きだった。そこに恋愛感情がないのだとしても、大事にされていると実感できた。

「ごめん大地くん、オレもさっき帰ったばっかだからまだ晩飯作ってないんだよね。すぐやるから、ちょっと待っててくれる?」
「ああ、いいよ。ってかまだちょっと早いし、ゆっくりでいいんじゃないか?」
「今日カレーにするつもりだから、いまから準備しとかないと」
「ああ、なるほど。じゃあ俺も手伝うよ」

 役割分担を決め、二人でキッチンに立って料理を始める。時々身体が触れ合ったりして、そのたびに照島は胸を高鳴らせた。新婚の夫婦はきっと、こんな感じなのだろう。そんなことを考えながらじゃがいもの皮を剥く。
 二人で料理をするのは初めてだったので、澤村の料理をしている姿を間近で見るもの初めてだった。真剣な顔で野菜を切っている姿は様になっている。男らしい顔をしているくせに包丁の扱いは丁寧で滑らかだ。そのギャップが堪らない。
 あとは煮詰めるだけという段階になると、時間があるので先に風呂に入ることにした。相変わらず澤村は二人で一緒に入るのは恥ずかしいらしく、今日も誘いを断られてしまった。
 それから作ったカレーを食べ、以前そうしていたように、ソファーに二人で並んで座ってテレビを観る。
 平和な日常が戻ってきた。澤村と二人で過ごす、幸せで温かい夜。一人でいるのはやはり寂しかったし、澤村の顔を見られなかった日々は、気がおかしくなりそうだった。

 そんな平和な日常が、わずか三十秒後に崩壊するなど、照島は想像もしていなかった。

「なあ遊児」

 澤村がこちらに顔を向ける気配がした。だから照島もテレビから視線を外して、澤村のほうに顔を向ける。そこには犯しがたい凛とした表情があった。どうしたのだろうかと首を傾げると、澤村は少し間を置いて口を開いた。

「俺、結婚するかもしれない」

 放たれた言葉が内耳に滑り込んできた瞬間、胸を鋭いもので貫かれるような衝撃に襲われた。

「つってもまだ先の話だけどな。先々月に、親の勧めでお見合いしたんだ。結婚なんてまだいいって思ってたけど、相手が結構いい人でさ。気も合うし付き合ってみてお互い悪くなかったから、早いけど結婚を考えてみてもいいかなって思ってる」

 胸に開いた大きな穴。そこから大切な何かが零れ出し、暖房の効いた部屋の中に溶けてなくなっていく。

「結構美人だし、性格も優しいし、俺にはもったいないくらいの人なんだ。うちの母さんなんか、絶対離しちゃ駄目だってうるさくって。たまに電話までかけてそれ言ってくるから、なんか俺より親のほうが必死だよ」

 やがて零れるものがなくなると、穴の表面が徐々に凍り始めた。それは胸の中のほうまでゆっくりと進んでいき、ついに照島の心までも、冷たい氷の中に閉じ込められてしまった。

「でもあれだな。そういうわけだから、遊児とはもうエロいことはできない。これからはエロ抜きの普通の友達だ」
「ま、待てよっ。オレ言ったじゃん。大地くんがしてくれないと悪いことするかもって」
「遊児はもうそんなことしない」

 おそろしく真剣な顔つきで、澤村はそう断言した。

「半年近く一緒にいたんだ。それくらいのことはわかる。それにエロいことをやめるって言っただけで、友達をやめるわけじゃない。遊児が悪いことしそうになったら、絶対に引っ張って正しい道に連れ戻してやる」

 それは優しい言葉だったのかもしれない。けれどいまの照島には、まるで余命を宣告されているようにしか思えなかった。澤村と一緒にいながらわずかに抱いていた希望の灯火が、完全に消えて見えなくなってしまう。

「人ってわからないもんだな。結婚なんて、考えるのさえまだまだ先の話だと思ってたのに。でも子どもは欲しいと思ってたし、するなら早いうちのほうがいいって上司や先輩が言ってたからな〜」

 照れたようにはにかむ顔。いつもならドキリとしながら見惚れてしまうはずなのに、いまは視界に入れたくなくて、照島はテレビのほうに視線を戻した。

「まあ、まだどうなるかわかんないけどな。一応結婚を前提とした付き合いではあるけど、プロポーズとかしたわけじゃないから」

 凍っていた心に、ひびが入る。それは急速に広がっていって、ガラスが割れるような音を立てながら、ついに粉々に砕け散ってしまった。目頭がじんわりと熱くなる。でもここで泣いてもどうしようもないからと、照島は目に力を入れてやり過ごした。

「よ、よかったじゃん」

 動揺で声が裏返りそうだった。だけどこんな状況になってしまった以上、自分の気持ちを澤村に悟られたくない。告げたところで始まった交際がなかったことになるわけではないし、照島の恋が叶うわけでもない。ただ彼を困らせるだけの、迷惑なだけの感情だ。

「あ、そういえばオレ用事あるんだった! 早く帰んないと……」

 これ以上澤村の話を聞きたくなかったし、顔も見たくなかった。一緒にいると、胸に押し込んだ感情のすべてが爆発してしまいそうで怖かった。だからおもむろに立ち上がると、そそくさと玄関に向かう。

「おい、遊児!?」

 澤村が慌てて追いかけてくるが、照島はもう足を止めなかった。靴も踵の部分を押し潰して履いて、ドアを開ける。

「どうしたんだよ!?」
「ごめん、ちょっと急ぐから」

 自分を呼ぶ声が聞こえたが、照島は振り返らずに走り去る。自分でもどこに向かっているのかわからなかった。けれど足を止めるとそのまま動けなくなってしまいそうで、ただひたすらに、夜の帳が舞い降りた街を疾走する。
 悲しくて、悔しくて、寂しくて、苦しい。様々な感情が複雑に絡み合い、粉々に砕け散ってしまった心の代わりに照島の中に根を張っていた。
 大好きだった。顔も、声も、身体も、中身も……澤村のすべてが好きで堪らなかった。自分のすべてを差し出してもいいと本気で思っていたし、澤村の代わりに死ぬことだってなんの迷いもなくできる。けれどそう思っていたのは自分だけだった。わかっていたけれど、それを現実に思い知らされて、底知れぬ絶望と悲しみに押し潰されそうになる。
 いつかは諦めなければならないと、ある程度は覚悟していた。その半面で自分にも脈があるかもしれないとわずかながらに期待していたから、落胆は大きかった。だが、泣くことはしない。泣くと余計に惨めな気持ちになりそうで嫌だった。

「大地くんのっ……馬鹿野郎っ」

 どうして気持ちに気づいてくれないんだ。どうして自分以外の人を好きになるんだ。どうして、どうして……。
 気づけば財布と携帯だけを持って、新幹線に乗っていた。一時間半で東京駅に着き、そこで下りて鈍行に乗り換える。鈍行は新宿駅までの二十数分という短い間だったが、車内は満員で息苦しかった。
 新宿駅で降りると、今度は特急に乗り換え、そこから一時間半で目的の駅に着く。
 駅から歩いて二十分。一度しか来たことがないし、そのときから間が空いてしまったから迷わずに行けるかどうか心配だった。けれど降り立ってみると案外道のりを覚えていたので、すんなりとそこに辿り着くことができた。
 照島は一件のアパートの前で足を止める。確か彼の部屋は二階の一番右端だったはずだ。その部屋の窓から光が零れているのを確認して、階段を上る。
 こういうとき、本当は彼を頼ってはいけないのだろう。それはわかっていたが、照島には他に頼れる人がいなかったし、誰かに縋らないと自分が暴走してしまいそうで恐かった。助けてほしい。この苦しいのを、この世のすべてを壊してしまいたくなるような衝動を、どうにかしてほしい。そう願いながらインターホンを押した。
 鍵が開錠される音がした。そしてドアがゆっくりと開いて、隙間から中の光が零れ出る。

 牛島若利は、ひどく驚いたような顔をした。

 それは当然だろう。なんの連絡もなしに、突然宮城からやって来たのだ。
 牛島の顔を目にした途端、緊張の糸が切れたのか、ずっと堪えていた涙が溢れ出した。何があったか言わなければならなかったのに、開いた口からは嗚咽ばかりが零れてくる。

「突然どうしたんだ。いったい何があった」

 戸惑いながらも、牛島は泣き出した照島を部屋の中に優しく引き入れてくれる。大きな手が背中に触れて、宥めるように擦ってくれた。

「若くんっ……大地くんがっ、大地くんが……」

 ちゃんと状況を伝えようと思うのに、嗚咽でつっかえて言葉が続かない。けれど牛島は急かしたりしなかった。背中を擦ったまま、黙って照島が落ち着くのを待ってくれた。

「大地くんが……彼女できて、そいつと結婚するって」
「なっ……」

 最初牛島は、さっきドアを開けて照島を見たときと同じような、驚いた顔をしたが、その表情が段々と悲しげに曇っていく。身も世もない、哀れな顔だった。だけどきっと自分もいま、同じ顔をしている。いや、それ以上にひどい顔をしているかもしれない。澤村に対して抱いていた気持ちは、照島も牛島も同じだった。だから結婚するかもしれないという事実を知って抱く感情も、痛いほどわかってしまう。

「どうすりゃいいんだよ。どうすりゃこの苦しいの、なくなるの? 教えてよ若くんっ……」

 照島は牛島の大きな身体に縋りつく。すると彼は包み込むようにして優しく抱きしめてくれた。自分だって辛いはずなのに、泣きたいはずなのに、何も言わずにただ抱きしめてくれた。
 牛島の温もりが、胸にぽっかり空いてしまった穴に沁み込んでくる。塞がりはしないけれど、痛みを感じなくて済むように、熱で表面を覆っていく。そんな感覚がした。

「……俺と付き合うか」

 やがて牛島の口から出てきたのは、そんな言葉だった。

「大地の代わりでもいい。俺は、いまのお前を一人にしたくない。それに俺と付き合っているうちに大地を諦められるかもしれないし、俺だって諦めたい。だから俺と付き合え」

 そう言った牛島の目は真剣そのものだ。思わぬ提言に心を動かされる。澤村を諦めるためには、確かにその方法が一番いいのかもしれない。それに牛島は照島を好きだと言っていたし、照島も牛島のことが人として好きだった。その“好き”が恋愛感情に変わる可能性は十分にあると思う。

「嫌ならはっきりと断れよ」

 そう言いながら牛島は、照島の頬に触れてくる。温かい手だ。まるで彼の持つ優しさのすべてがそこに集まっているかのようだった。
 男臭い顔がぐっと迫ってくる。キスをされるのだとすぐにわかったが、照島はそれを嫌だとは思わなかった。むしろその唇が欲しいと、目を閉じて触れ合うのを待った。

 唇に触れた柔らかな感触と、自分を抱きしめる腕の力――その二つを感じながら、照島はこの人を好きになりたいと心の底から思った。




続く





inserted by FC2 system