16. 選択


「大地くん……」

 顔を見た途端に、そこに澤村がいたことに対する驚きよりも、彼の顔を久しぶりに見られたことに対する喜びが湧き上る。いまはまだ澤村のことが好きなのだ。できることならこうして再会するまでもう少し間を空けて、彼に対する恋心を完全に断ち切っておきたかった。でももう会ってしまったものは仕方がない。追い返すのもさすがに失礼だし、何より澤村は何か言いたいことがありそうな顔をしている。

「な、中入る?」

 照島が訊ねると、澤村は無言で部屋の中に入ってくる。
 ペットボトルのお茶をコップに注ぐと、リビングテーブルの前に座った澤村に差し出した。そして照島は彼の向かい側に座る。

「いままでどこに行ってたんだ?」

 予想していた質問だった。それはそうだろう。行先も告げず澤村の前から姿を消し、連絡も一切しなかったのだから。しかも澤村に恋人ができたと聞いたときの照島の帰り方は明らかに不自然だったと思う。誰だってそんなことをされたら、気になってしまうのが普通だろう。

「若くんのとこにお邪魔してただけだよ」
「でもあいつは、お前は来てないって言ってたぞ」
「そう言っておいてって、オレが頼んだから」

 なんで、と澤村は睨んでくる。

「お前メール受信拒否にしてるだろ。電話だってそうだ。連絡がとれないからと思ってここに何度も来てみたけど、全然帰って来なかった。何かに巻き込まれたんじゃないかって、すごく心配したんだぞ」
「ごめん……」
「理由、教えろよ。何も言わずにいきなりいなくなって、連絡もとれないようにするなんて、何か理由があるんだろ?」

 悪いのは澤村だ。――いや、彼を好きになってしまった自分だろうか。だけど本当の理由を打ち明けるわけにもいかず、照島は黙ってしまう。
 澤村もしばらく何も言わなかった。だが、部屋を見回していた瞳がある一点に止まったかと思うと、再び睨むような目つきで照島のほうを見た。

「あの服の入った段ボールはなんだよ? 服だけじゃない。靴も、本も……どこに持って行くつもりだ?」
「……山梨だけど。なんかあっちにいたら、そのまま住んじゃいたくなってさ。引っ越すことにした」
「どうしてそんな大事なことを言ってくれなかったんだ」
「……別にオレがいなくなったって、大地くんが困ることなんかないだろ」

 ダン、と澤村がリビングテーブルを叩いた。いつも優しい表情を灯した顔は、いまは目尻を険しく吊上げて怒っている。

「困るとか困らないとか、そういう問題じゃないだろ! もし今日こうして会えなかったら、俺はお前がどこに行ったのか知らないままだったんだぞ! 何も知らないで残されるのがどんな気持ちか、少しは考えろ!」
「オレがどこに行こうが、それを大地くんに言おうが言わまいが、オレの勝手じゃん。なんでそんなに怒られなきゃいけないんだよっ」
「勝手じゃない。俺はお前がいなくなったら心配するし、もし今日会えなかったら捜索願を出そうかと思ってた。それくらい大事なんだよ。どんなに仕事が遅くなっても、もしかしたらお前が帰って来てるかもしれないって毎日様子を見に来るくらい、大事なんだよ」

 大事に思われていることは嬉しいし、それは実感している。だけどやはりそれは、照島が澤村に抱いている気持ちとは違う。永遠に一方通行のまま、しかももうすぐ完全に遮断されてしまうのだ。

「それに、約束したじゃないか。ずっと俺の近くにいるって、嫌でも離れないって言ったじゃないか。その約束はどうなるんだっ」
「大地くんのそばにはもうオレの居場所なんかないじゃないかっ。どこにもないじゃないかっ」

 自分が本当にいたかった場所には、もう別の誰かが座っている。顔も知らない誰かがそこにはいる。そしてその場所と照島との間には、初めから見えない壁のようなものが存在していて、照島がどれだけ澤村のことを想おうと、乗り越えることは叶わないのだ。

「オレはもう、ただの友達として大地くんのそばにいるのは無理だ」

 そばにいて、澤村が他の誰かと幸せな家庭を築いていくのを平気な顔をして見ていられるほど、照島の神経は図太くない。少なくとも胸に恋愛の棘が刺さったままでは、素直に応援してやれる気がしなかった。

「だってオレは、大地くんが好きだもん。恋愛的な意味で好きなんだ」

 言おうかどうしようか迷った結果、照島は自分が澤村と出会ってから彼に対してずっと抱いていたその気持ちを――いま自分を苦しめ、泣きたくなるような辛い思いをさせているその気持ちを、言葉にして伝えた。それは一つのケジメでもあった。自分がちゃんと前へ進んでいくための、この強烈な想いを断ち切るための。
 澤村は狐に摘ままれたような顔でぽかんとしていた。やはり照島に気持ちには気づいていなかったようだ。誰かこの鈍感な男を海に沈めてはくれないだろうかと、内心で毒づきながら、澤村の言葉を待った。

「ごめん……」

 沈黙を破った謝罪の言葉に、胸がギリッと締めつけられたような気がした。覚悟はしていても、やはり実際に言われるのは辛いものがある。だけどこの辛さを乗り越えられれば、自分はきっと彼を諦めることができるのだ。そうしたら別の幸せに向かって、ちゃんと歩いて行ける。

「俺がもっと早く気づいていれば、遊児に辛い思いさせずに済んだのに……。あのとき俺の部屋を飛び出していったのは、俺が彼女の話をしたからだったんだな」

 心がばらばらに砕け散ってしまった、あの瞬間。いまもそれは修復に至っていないが、牛島が少しずつ治療してくれていた。

「そうだよ。大地くんに彼女ができて、しかも結婚するって言うから、絶対そばにいるのが辛くなるって思った。好きな人が幸せならそれでいいって人もいるのかもしんないけど、オレには無理だ。大地くんが他の人と幸せになってるのなんか――」
「あいつとは別れた」

 きっぱりと放たれた言葉に、照島は自分の耳を疑った。

「な、なんで? 結婚を前提とした付き合いだって言ったじゃん。美人で、性格もよくて、上手くいってるって嬉しそうに話してた」
「好きじゃないから別れた。というより、自分の本当の気持ちに気づいちゃったんだ」
「本当の気持ち……?」

 ああ、と頷いた澤村は、少し寂しそうな顔をした。

「自分でもよくわかっていなかったんだけど、俺はずっと好きな人がいたんだ。そいつは俺の仕事が遅くなるとき、いつも晩飯を作って待ってくれていた。次の日も朝からバイトがあるくせに、俺が帰るまで晩飯食べないで待ってくれていたんだ。寝るときは寂しいって言って甘えてきて、それがすごく可愛かった。俺が寂しい思いをさせないようにしないとって思えたな。俺はそいつと一緒にいると、いつも優しい気持ちになれた」

 澤村が言っているのが誰なのか、照島にはわかってしまった。こめかみが急に痛んで、何度か引き攣った呼吸を繰り返す。早鐘を打つ鼓動の音が耳に聞こえてきそうだった。

「俺は遊児のことが好きだ」

 そうして告げられた澤村の気持ちに、胸がぱっと熱くなるのを感じた。

「でも、自分の気持ちがよくわからなかったんだ。人をちゃんと好きになったことなんかなかったから。だからそれをはっきりさせようと思って、遊児と距離をとることにした。彼女のことがいいって思ったのは本当だ。でも、この二週間遊児がいなくなって、俺は彼女のことを差し置いてお前のことばっか考えてた。どこかで他の男と寝てるんじゃないかと思うと、ものすごく腹が立ったし、寂しくなった。それでようやく自分の気持ちに気づいたんだ」

 信じられなかった。澤村が自分のことを好きでいてくれたなんて、信じられなかった。でも彼の表情は真剣そのものだし、そもそもそんな嘘や冗談を言うような性格でもない。それが彼の本心なのだ。
 嬉しかった。涙が出そうになるくらい、嬉しかった。だけど照島の心の中に、明るいファンファーレは鳴り響かない。

「……なんで今頃になって言うんだよっ」

 喜びが過ぎ去ったあとに湧き出したのは、自分に辛い仕打ちを与えた澤村を責めたくなる気持ちだった。

「オレがあんときどんだけ辛かったと思ってんだよ! 彼女ができたって聞いて、結婚するかもしれないって言われて、どういう気持ちだったか少しは考えたことあんのかよ!」

 あのとき、照島は目の前の道が完全に見えなくなった。少しだけ頭の中で考えた澤村との幸せな未来予想図も、そして彼を愛しいと思う気持ちも、すべてが闇に飲み込まれ、あとには苦しい思いだけが残った。もしも牛島がいなかったら、死にたいとさえ思っていたかもしれない。

「本当にごめん。傷つけるようなことをして悪かった。でも……これは言い訳だけど、俺は遊児の気持ちをいまのいままで知らなかった」
「気づけよ! ただのダチがセックスしようなんて言うと思う? 帰り遅いのに、家で飯作って食べずに待ってるようなダチがいると思う? 全部大地くんのことが好きでやったんだよ。どうしてそれがわかんねえんだよっ」

 言葉ではいつも遠回しだったけど、行動ではいつもストレートに好意を伝えていたと思う。普通ならどこかでおかしいと気づくはずなのに、この男は最後までそれに気づかなかった。

「ごめん。やっぱりもう、遅いか? お前と付き合いたいって言っても駄目か?」

 同じ台詞を二週間前に言われたなら、照島はなんの迷いもなく「お願いします」と返していただろう。心は歓喜に湧いて、自分と同じ背丈の身体に思いっきり抱きついていたと思う。
 だが、この二週間で照島を取り巻く状況は変わった。頭の中に浮かんだのは、ぶっきらぼうだけど優しい男の顔だった。

「オレは……オレはいま、若くんと付き合ってる」
「えっ……」
「山梨に引っ越すのも、若くんと一緒に住むためなんだ。さすがに新幹線と特急で通うのは面倒だし」
「そう、だったのか……」

 澤村は寂しそうに眉を吊り下げた。

「そういうわけだから、オレは大地くんとは付き合えない」

 目の前に、自分にとっての一番の幸せがある。だけど照島はそれを掴まなかった。それを掴むことによってとても傷つく人がいるとわかっているからだ。
 二人の間に、沈黙が舞い降りる。息苦しいほどのそれは、まるで果てのない海のように続いた。

「……どうしても、若利じゃないと駄目なのか?」

 やがて澤村が、硬い声でそう訊いてきた。同時にテーブル越しに腕を掴まれ、いきなりのことに照島は跳び上がりそうになってしまう。

「俺じゃ駄目なのか? もう俺のことは好きじゃないのか? 若利のほうが、俺よりも好きなのか?」

 自分の腕に触れた彼の手から、懐かしい温もりが伝わってきた。それは照島の全身に溶け込んで、なかなか塞がらないでいた胸の傷をものすごい勢いで癒してくれる。
 心が大きく揺れた。このまますべてを放棄して、澤村の腕の中に飛び込みたいと思った。そう思ったのは、澤村を想う気持ちのほうが、牛島を想うそれよりも大きいと自覚しているからだ。どちらも大切な人だが、そこには確かな優劣が存在していた。
 どうすればいいのかわからない。目の前の幸せと、自分の帰りを待ってくれている牛島のことを交互に考え、頭の中がグチャグチャになりそうだった。

 ――どちらを選んでもすごく後悔する。でも同じ後悔をするなら、小さいほうがいいと思った。

 ふいに思い出したのは、照島の初めて愛した人が口にした台詞だった。
 彼もまたいまの照島のように、二つに分かれた道のどちらを選ぶか悩んだのかもしれない。結果的に彼は自分の夢を選んで、照島とは別れた。そちらのほうが、後悔が小さくて済むからと、寂しそうな顔で言っていたのを覚えている。
 照島にとって後悔が小さいほう――それはもう明確だった。切り捨てるべき選択肢は決まっている。その選択が人を一人不幸にする。それはものすごく恐かったけれど、いつまでも悩んでいるわけにもいかなかった。

「……一度山梨に戻るよ」

 腹は括った。照島にとっても辛い決断ではあったけど、放っておくことはできないし、他に選択肢はなかった。

「明日の夜、またこっち戻って来るから。そのときに返事する。それまで待ってて」
「……わかった。でも、絶対だぞ? またいなくなったりするんじゃないぞ?」
「大丈夫だよ。オレはもう逃げないから。大地くんからも……若くんからも」




続く





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