17. 綺麗な心 心身ともに疲れていたけれど、照島はその日のうちに山梨に戻ることにした。小さな後悔を切り捨てる。それは辛い選択ではあったけれど、先延ばしにすればするほど辛さが増しそうで、覚悟を決めたその日に実行することにしたのだった。 電車の窓の外の景色をぽうっと眺めながら、何度も牛島の顔が頭に浮かんでくる。傷ついた照島を優しく包み込んでくれた牛島――そんな彼を、照島はいまから傷つける。彼が自分に対して抱いてくれた好意を踏みにじる。それを思うと気が重かった。だけどいまここで牛島のことを切り捨てなければ、自分はきっと一生後悔するのだろう。 駅から出て、歩いて二十分。外から牛島の部屋を見上げると、明かりは点いていなかった。どうやら今日はまだ仕事が終わっていないらしい。内心ホッとしながら階段を上り、合鍵で玄関を開ける。 リビングの電気を点けた瞬間、誰もいないと思っていた部屋の中に人影が浮かび上がって、照島は悲鳴を上げそうになった。ソファーの上で項垂れているその背中は、間違いなく牛島のものだった。 「び、びっくりしたー。電気も点けないで何してんだよ」 照島が声をかけると、牛島はゆっくりとこちらを振り返った。ずいぶんと疲れたような顔をしていた。むしろ病人のように生気がなくて、心配になって近づこうとすると「来るな」と怒鳴られた。 「……怒鳴って悪い。でも、いま近くに来られるとたぶん、お前を捕まえて二度と離せなくなる」 「何言ってるんだよ」 「さっき大地から電話があった」 照島は心臓が止まるかと思った。つまり牛島は、照島と澤村の間に何があったのかを知っているのだ。それならそんな顔をしているのも納得がいく。 「大地は、お前を好きだと言っていた。だから俺にお前をくれと、絶対に幸せにするから別れてくれと頼まれた」 ジョーカーは澤村からすでに放たれていたのだ。予想もしていなかった展開に照島は一瞬戸惑ったけど、たぶんそれがなければ自分は話を切り出すのもかなり躊躇っていただろう。牛島を傷つけるのは、やはり嫌だった。 「あとはお前が選んでくれ。俺はお前の判断に従う。大地を選ぶと言うなら、大人しく別れる」 牛島はとっくの昔に覚悟を決めているようだった。でもきっとそこに苦悩がなかったわけではないのだろう。だからこんな、険しい顔をしているのだ。そしてそうさせているのが自分だとわかって、罪悪感が蓋を開けて溢れ出した。 「ごめん……ごめん若くん。オレ若くんのこと好きだけど、やっぱり大地くんのほうが好きだ」 そうして照島もまた、ジョーカーを牛島に差し出した。泣きたくなるくらいに胸が痛んだが、それは堪えた。だって本当に泣きたいのは牛島のはずだ。ジョーカーを押しつけられた彼のほうがずっと辛いに決まっている。 「若くんの気持ちに答えたかった。でも大地くんの顔見た途端に、駄目になった。やっぱりこの人が好きだなって、この世界で一番好きだなって思って……」 自分の気持ちに嘘はつけなかった。目の前に自分の望んだ幸せがあるのに、それをあえて見逃すことなどできなかった。 「……最初からこうなることは覚悟していた。だけど実際にそうなってみると、きついもんだな」 牛島が苦しそうな声でぽつりと零した。 「お前といると大地のことを忘れられるような気がしていたし、実際忘れかけていた。これでやっと長い片想いから解放されると思ったが、上手くはいかないもんだな」 結局のところ照島は、彼の傷に塩を塗るようなことをしてしまったのだ。澤村に彼女がいることを告げられた日、やはり牛島を頼るべきではなかった。彼の気持ちを知っていながら縋ってしまった自分を、今更ながら後悔する。 「短い間だけど、お前と恋人みたいになれて俺は幸せだった。仕事から帰ってくるとお前が飯作って待っていて、寝るときも隣にいて、幸せってこういうもんなんだってことを知った。だからお前には感謝している」 感謝されるようなことなんて何一つしていない。自分勝手に押しかけて、牛島をぬか喜びさせたあげく、結局は澤村を選んだ。これほどひどいやつを照島は他に知らない。 「なんで、感謝なんかしてんだよっ。馬鹿にするなって怒るところだろ! なんで他のやつを選ぶんだって、自分勝手に人を振り回すなって怒れよ!」 照島は怒られるようなことを、殴られてもおかしくないようなことをした。だけど牛島は何一つ照島を責めようとはしなかった。それが逆に罪悪感を煽って、彼に申し訳ない気持ちが雪崩のように押し寄せる。 「最低な奴だって言えよ。お前みたいなやつは嫌いだって言って、いますぐ追い出せよ……」 「俺はお前が好きだ」 ぽつんと呟く。 「だけどやっぱり大地のことも好きだな。二人とも好きだ。だから俺にとっての幸せは、二人が幸せになってくれることだと思う。俺のことはいいんだ」 「よくねえよ。そんなの、ちっともよくない……」 好きな人が幸せなら、その相手がたとえ自分でなくてもいい。幸せな様子を見ているだけでいい。そんなのは綺麗事だと思っていた。だけどいまの牛島は本当にそんなふうに思っていそうで、切ない気持ちにさせられる。なんて綺麗な心なのだろう。そんな心に傷をつけてしまった自分が増々赦せなかった。 「よくないと言われても困る。俺は本当にそれでいい。お前が大地を選んでも、二人が幸せならそれでいい。正直に言えば、寂しい気持ちだって少しはある。だけどそんなものはきっとすぐに忘れる」 「嘘だよ。だって若くん、ずっと大地くんのこと好きだったじゃん。大地くんに彼女ができても、諦めきれなかったじゃん」 「それはそうだが……」 牛島の澤村に対する気持ちの重さは知っている。それは、いつかは本当に諦められる日が来るのかもしれない。照島の初めての失恋がそうであったように、いつかは相手を友人の一人として見ることができるようになるのかもしれない。だけどその人が他の誰かと結ばれることを、最初から快く受け入れられるはずがない。たとえその人と相手のどちらも好きだったとしても、背中を押すことなんてできないはずだ。 そこに来て照島は初めて、自分が牛島に責められたいのだと気づいた。希望を持たせておきながら裏切った自分を――牛島が長く想いを寄せた澤村を奪おうとしている自分を、罵倒してほしかったのだ。でなければ彼に後ろめたいという気持ちを捨て切れない気がした。 「今度こそ諦められかもしれないだろう? だって今度はいままでとは違う。大地の相手はお前だ。俺が好きだった、お前だ」 「それでも諦められなかったらどうするんだよっ」 「そのときは……そのときだ。だがもし諦められなかったとしても、もう二人から逃げることはしない。友達として二人のことを見守っていくつもりだ」 だけどやっぱり牛島の口から照島を責めるような言葉は出なかった。無理をして押し込んでいるというわけでもないのだろう。きっと本当に、照島と澤村が結ばれ、二人が幸せになることを望んでいるのだ。 自分はどうしてこの人に惚れなかったのだろうと、今更ながら疑問に思う。顔も男前だし、ぶっきらぼうだけど大きな愛情と優しさを持って接してくれる。だけどそういえば、出会いは最悪だった。照島はこの男に手錠を嵌められた。あの瞬間は牛島のことが憎くて仕方なかったし、友人として仲良くなるような未来など想像もできなかった。 いろんな出来事を通して、照島は牛島を好きになった。だけど澤村を想う気持ちには敵わなかった。この二週間のうちに何度身体を重ねても、牛島の与えてくれる愛情と同じくらいの愛情を返すことはできないまま、いま二人の関係は終わりを迎えようとしている。 「行けよ、大地のところへ。行ってあいつを幸せにしてやってくれ。そしてお前も幸せになるんだ」 そう言って牛島は微笑んだ。いつになく優しい微笑みだった。だけど細めた瞳の端から涙が流れ落ち、その顔は見る見るうちに苦しそうに歪んでしまう。 照島は慌ててソファーに駆け寄ると、自分よりも大きなその身体を強く抱きしめた。途端に逞しい肩が震え出し、いつも低くて男らしい声を出す口から、嗚咽が零れた。 「ごめんね……ごめんね」 どうか早く、この男を心の底から愛してくれる人が現れないだろうか。照島と澤村のことなんかすぐに忘れてしまうような、強烈な恋に落としてくれる人が現れないだろうか。早く助けに来てほしい。そして誠実で優しいこの男を、どうしようもないくらい幸せにしてほしい。何度も何度も謝罪の言葉を口にしながら、照島はそう願わずにはいられなかった。 |