18. 初恋の終わり


「遊児、大変だ」

 夜遅い時間にバイトを終えた照島がアパートに帰るなり、先に帰って来ていた澤村が険しい顔でそう言った。澤村は滅多なことではそんな顔をしたりしない。余程の緊急事態なのだろうか。

「どうしたんだよ?」
「若利に恋人ができたらしい」
「ええ!?」

 予想もしていなかった言葉に、照島は跳び上がるような勢いで驚いた。

「さっき電話があったんだ。付き合い始めてもう一カ月近く経つらしい」
「マジで!? この間メールしたときは何も言ってなかったのに……」

 あの牛島に恋人ができた。びっくりはしたけれど、照島にとって――そして澤村にとってもおそらく、それは嬉しい報せだった。
 照島は牛島に希望を持たせておきながら、最終的には裏切ってしまった。それが三カ月前の出来事である。牛島は照島を責めなかったし、むしろ澤村と幸せになれと背中を押してくれたけれど、やはり照島の中には罪悪感が残った。その証拠にメールで会話することはできても、電話をすることや、直接顔を合わせる勇気は未だに出なかった。
 その罪悪感を消し去る方法があるのだとしたら、それは牛島が幸せになってくれることだと思っていた。だからずっと彼を愛してくれる人が現れてくれることを待ち望んでいたし、実際にそういう相手ができたと聞いて嬉しかった。

「明日バイト休みだったよな?」
「そうだよ」
「明後日は?」
「今日と同じ、夕方から」
「じゃあ明日山梨に行くか。俺も明日、明後日は休みだし、若利はその恋人を紹介したいみたいだった。何より俺もどんな相手なのか見てみたい」
「あ、オレも見てみたい」

 牛島の好みはよくわからない。真面目で誠実な澤村を好きだと言っていたかと思えば、見た目も中身も軟派な照島を好きだと言い出したりする。今度の相手はいったいどちら寄りなのだろうかと想像しながら、照島は三カ月ぶりに牛島に会うことを決めた。



 いろいろ話し合った結果、その日は山梨の遊園地で遊ぶことに決まった。現地で落ち合ったほうが早いということで、照島と澤村は東京駅からバスに乗り換えた。高速道路を一時間半ほど走ったところで、前方に目的地が見えてくる。
 照島は少しだけ緊張していた。牛島と顔を合わせるのは、別れを告げたあの日以来だ。正直なところ、彼とどう接していいのかわからない。澤村はいつもどおりでいいと言うが、いつもどういうふうに接していたか思い出せないでいた。
 そんな照島の気など知る由もなく、バスは遊園地の入園ゲート前に到着する。牛島はすぐに見つかった。こういうとき、長身の人間は目印になって便利だなと思う。

「よう」

 澤村が声をかけると、牛島が「ああ」と挨拶と言っていいのかわからないような返事をした。切れ長の瞳が今度は照島のほうを見る。とりあえず笑っておこうと思って笑顔をつくった途端に、牛島はなぜだか軽く噴き出した。

「いま、変な顔してたぞ。昨日テレビで観た芸人が同じような顔をしていた」
「おい、いきなり失礼だな! そういう若くんはいつもモアイ像みたいな顔してんだろ!」
「うるさい」

 たったそれだけのやりとりで、照島はさっきまで感じていた緊張が吹き飛ぶのを感じた。そういえば以前の自分たちはこんな感じだった気がする。いや、少し初期の頃に戻りすぎたような気はするが、なんとなく気分が楽になった。

「あれ、若利の恋人どこだよ? 今日一緒に来てるんだろ?」
「あー、そうそう、それが今日の目的だったわ。まさか二次元彼氏でゲームの中にいるとか言わないよな?」
「ちゃんと実在する人間の一人だ。いまは便所に行ってる。――ほら、戻ってきた」

 照島と澤村は、そろって牛島の視線を辿る。入園ゲートの左手の建物から人が出てきたところだった。だけど一人じゃなくて、二、三人いたからどれがそうなのかすぐにはわからなかった。高校生かあるいは中学生くらいの少年と、自分たちと同い年くらいの青年がこちらに近づいてくる。最初は青年のほうがそうなのかと思ったが、彼は照島たちの近くにいた別のグループの輪に入っていった。と言うことは――

「ちわっす!」

 小柄な少年が、元気よく挨拶をしてくる。想像していたのとあまりにも違いすぎて、照島は挨拶を返すことを忘れていた。それは澤村も同様だ。

「俺のパートナーの日向翔陽だ。翔陽、こっちは幼馴染の大地と、そのパートナーの遊児だ」
「よろしくお願いあす!」

 礼儀正しいし、明るそうな子だ。物静かな牛島とはバランスが取れてちょうどいいのかもしれない。いや、問題はそこじゃない。

「はい、集合〜。日向くんはちょっとそこで待っててね」
「え、あ、はい」

 澤村の号令で、日向を除いた三人が、日向から少し離れたところに集まる。集められた理由はすぐにわかったし、澤村がそうしなければ照島が同じようにしているところだった。わかってないのは牛島だけだ。

「犯罪じゃないか」

 澤村の声は硬かった。それは当然である。牛島に恋人ができたことは嬉しかったけれど、まさかそれが未成年だなんて思いもしなかった。二人の間にどんな事情があろうがいまはもう素直に喜べない。むしろ牛島を責めたい気持ちでいっぱいだった。

「そうだよ、若くん。犯罪じゃん。警察官がそんなことしていいのか? 未成年連れ去りとかそういうあれで捕まるんじゃねえの?」
「……待て。お前らは誤解している。翔陽は俺と二つしか歳変わらないぞ」
「んなわけないだろ。あれはどう見たって高校生か、下手すりゃ中学生にしか見えないんだけど」
「本当に本当だ。なんなら免許証を借りて来るか? あいつ年相応に見られないことをかなり気にしてるから、できることならしたくないが……」

 照島はもう一度、向こうにいる日向を見る。顔立ちはやはりずいぶんと幼い。それに背が低いのも手伝って、とても自分の一つ下の青年には見えなかった。だけど牛島は嘘をつかない性格だし、あの子も人を騙すようには見えない。ということは、本当に二十二歳で間違いないのだろう。

「若くんってショタコンだったんだね……」
「失礼な言い方をするな。好きになったやつがたまたま童顔だっただけだ」
「まあ、若利と日向くんがお互いに好き合ってるならそれでいいけどな……」

 軟派な照島にも、硬派な澤村にも似ていない。まったく違ったタイプの、牛島の恋人。予想と違って驚きはしたけれど、上手くいっているならそれでいいか、と照島は思う。そしてどうか二人の仲がずっと続くようにと、モアイ像のような牛島と、少年のような日向を交互に見ながら、照島はぼんやりと願うのだった。


 ◆◆◆


「おれ便所行ってきます」
「あ、オレもオレも」

 そうして日向と照島の二人が席を外して、テーブルには牛島と澤村の二人が残った。
 澤村と二人きりというシチュエーションもずいぶんと久しぶりだ。相変わらず澤村は男前で、凛々しい横顔は男女問わず人目を惹きそうだと思う。だけどついこの間まで彼に感じていたはずのときめきのようなものは、いまはもう牛島の中になかった。
 不思議なものだと思う。あんなに彼を好いていて、一生それを抱えて生きていかなければならないのかと思っていたのに、それは日向に出会ったことでいとも簡単に吹き飛んで行った。人は本当にわからない。久しぶりに澤村と――そして照島と顔を合わせて、それを実感させられた。

「日向くん、いい子だな」

 澤村が優しげに微笑みながらそう言った。

「やらんぞ」
「誰もくれなんて言ってないだろ。それに遊児のほうが可愛い」
「それは聞き捨てならないな。確かに遊児は可愛いが、翔陽の無邪気な可愛さには遠く及ばない」
「遊児だって無邪気じゃないか。しかも甘え方がものすごく可愛い」
「でもあの背の高さじゃお前の腕の中には納まらないだろ? その点翔陽は腕の中にすっぽりはまって可愛いぞ」
「小さけりゃいいってもんじゃないだろ。むしろ小ささと童顔に頼った可愛さは、本当の可愛さじゃない」
「小さいのと童顔なのはある意味才能だろ。遊児にはそれが……」

 反論に反論を重ねようとしたところで、牛島は自分たちが周囲の注目を集めていることに気がついた。牛島が黙ったことで澤村もそれに気づいたらしい。互いに不自然に沈黙したまま、衆目を避けるように顔を伏せる。

「まあ、それぞれに違った良さがあるってことにしておくか……」
「そうだな……」

 少し恥ずかしかったのを誤魔化すように、二人して目の前のドリンクを飲んだ。

「でも、本当によかったよ。お前に恋人ができて。俺は、やっぱりずっと気にしてたんだ。お前から遊児を取ってしまったこと」
「……俺は別に、お前があいつを取っていったとは思ってないぞ」

 それは本当だ。なぜなら照島は始めから澤村のことが好きだったからだ。それを知っていて付き合おうと言ったのは牛島自身だし、いつか照島が澤村のほうを選び直す日が来るかもしれないと、覚悟はしていた。

「お前が思ってなくても、俺はそう思うんだ。お前に辛い思いをさせるってわかってたけど、譲れなかった」
「それでいいんだ。俺はお前のことも遊児のことも大事だった。だから俺が遊児を手放すことで二人が幸せになれるなら、そのほうがよかった。そりゃ、寂しさを感じなかったわけじゃないが、いまの俺には翔陽がいる。だからそれでいい。お前や遊児が俺に悪びれる必要なんてどこにもないんだ。というか、いい加減鬱陶しいからやめろ」
「……お前は優しいのな」

 どうだろうか、と牛島は他人事のように呟いた。自分が優しい人間だとはとてもじゃないが思えない。好きな人の幸せを願うのは、当たり前のことではないだろうか。
 中高生の頃、澤村に彼女ができたのを牛島は素直に祝ってあげられなかった。もちろんそれは嫉妬心のせいもあったのだろうが、何より澤村が相手のことを好きじゃなかったのが気になった。好きじゃないのに付き合う意味がわからないし、それは澤村にとって悪戯に時間を浪費するだけになる。口に出しては言わなかったが、牛島は内心でずっとそう思っていた。
 だけど照島の場合は違う。照島は澤村のことを心から愛していて、そして澤村も照島に大きな愛情を寄せている。愛し合っている二人が恋人同士になるのは当然の流れだと思うし、そこに一番の幸せがあるのだと牛島にだってわかる。だから素直に照島を澤村に託した。そうすることが彼らにとっての一番の幸せだと思ったからだ。

「大地に聞いてほしい話がある」

 もしもまだ澤村の中に罪悪の意識があるのなら、それを取り除いてやりたい。そしてそれを取り除くには、すべてを打ち明けなければならないと思い、そう切り出した。

「悩み相談か?」
「そうじゃない。俺の昔話を……初恋の話を聞いてほしい」
「若利の初恋? って、遊児じゃなかったのか?」
「そんなわけないだろう。お前と違って俺はそんなに遅れてない」
「おい、いまさりげなく失礼なこと言っただろ! まあいいや。で、初恋がどうしたんだよ?」

 澤村は本当に、何も知らないという顔をしている。人の痛みや寂しさには敏感なくせに、彼がこの手のことにひどく鈍感だということは、嫌と言うほど知っている。

「俺はそいつのことを小さい頃から知っていた。無口であまり人と上手く付き合えなかった俺の代わりに、そいつはいつも俺をみんなの輪に引っ張ってくれて、一人にならないようにしてくれた。そいつの優しさに俺はいつも救われていたし、憧れてもいたな。初めてそう言った意味で意識したのは、小六のときだった。きっかけは……まあいい」

 澤村の水着姿に興奮し、その日の夜にいやらしい夢を見て彼を意識し始めたことは伏せておいた。

「とにかく俺はそいつを好きなった。中学になっても、高校になってもそいつは俺のそばにいてくれたな。ある日そいつは警察官になりたいって言い出した。いや、小さい頃からそう言ってたんだが、本気で目指すつもりだったなんて高校生になるまで思わなかったな。俺は特になりたいものとかなかったから、そいつと一緒に警察学校の試験を受けた。二人そろって無事に合格して、警察学校を卒業したら同じ警察署に勤めることになって、なんだかんだで人生の半分以上をそいつの近くで過ごしてきた」
「おい……」
「小六の頃からだから、約十二年か。俺はそれだけの長い間、そいつに片想いしていた。ついこの間までその気持ちは俺の中にあった。いまはもう、その気持ちは翔陽に全部やっちまったけどな」
「若利……」

 澤村は、悲しそうな顔をした。どうしてそういう顔をするのかわからなかったが、牛島は彼の瞳をまっすぐに見つめて、ずっと言えなかったその想いを言葉にして伝えた。

「俺は、大地のことがずっと好きだった」

 これは、牛島にとって一つのケジメでもあった。長年牛島の中にあり続けたその想いを吐き出さなければ、初恋が完全には思い出の一部にならない気がしていた。そして次の恋に進むための――日向を愛するための、ステップでもあった。

「俺、そんなの初めて聞いたぞ」
「初めて言ったからな。お前にばれないよう努力もした」
「なんで今頃になって言うんだよっ」
「いまだから言えたんだ。お前以上に愛せるやつを見つけたから」

 少年のような顔立ちの、牛島のいまの恋人の顔が浮かぶ。牛島の守りたい人は、幸せにしてやりたい人は、もう澤村ではない。

「遊児に出会えなければ、俺は未だにお前のことを諦められなかっただろう。翔陽にも出会えてなかったと思う。だからあいつには感謝しているし、お前にだって感謝している」
「俺は何もしてない」
「お前がそばにいたから、俺は誰かを大事に想う気持ちのあったかさみたいなのを知った。こんな俺でも優しくなれるんだって知った。……お前がいてくれたから、生きるのが楽しいと思えた。だから感謝している。もう、俺に申し訳ないとか思うな。俺は翔陽と幸せになる。お前は遊児と幸せになってくれ」

 澤村は苦しそうに顔を歪めた。片手で両目を覆い、口をへの字に曲げて黙り込む。

「なんでお前がそんな顔するんだ」
「だって俺、いままで全然気づかなかったから……。お前に辛い思いをさせたこともあったんじゃないのか?」
「なかったと言えば嘘になる。だが、いまはもう全部いい思い出だ。だからそんな顔をする必要はない」
「そんな顔ってどんなだよっ。モアイ像よりひどいのか?」
「モアイ像って言うな。実際そんなに似てないだろ」
「いいや、似てる」
「絶対似てない」
「絶対似てる」

 似てる、似てないの押し問答を繰り広げた後に、二人はどちらともなく噴き出した。
 笑う澤村を見ながら、これからも彼に笑っていてほしいと心の底から思う。牛島にとってやっぱり彼は大事な人だ。それは恋心がなくなったって変わらない。大事な友人で、大事な幼馴染で、一生幸せでいてくれれば牛島も嬉しい。
 長い、とてつもなく長い片想いだった。とても好きだった。何を置いても守りたいと思うほど、好きだった。辛い思いをしたこともあったけれど、彼を好きになったことを後悔したことなど一度もない。そんな初恋に、牛島はいま終止符を打った。




続く





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