終. 明けない夜はない


「じゃあ年越しは翔陽くんと一緒じゃないんだね」
『まあ、そうなるな』
「若くん寂しいんじゃない? どうせならこっち来ればよかったのに」
『あいつも朝には仕事を終えて帰って来る。そのときちゃんと迎えてやりたいんだ』
「ああ、なるほど。朝ごはんも若くんが作ってあげんの?」
『そうだ』
「へえ。料理できるようになったんだ」
『食べられるものはなんとか作れるようになった。一人だと面倒だが、自分以外に食べてくれるやつがいると作る気になるもんなんだな』
「そうだね〜。――あ、そろそろ大地くんが帰って来る時間だ。じゃあ切るよ?」
『わかった。よい年を』
「若くんも、よいお年を! 来年もよろしくね」

 牛島との電話を切って、照島は作りかけていた料理の続きに取り掛かった。



 満たされた環境にいると、月日の流れが早く感じるようになる。新しいカレンダーを壁にかけながら、照島はそれをまざまざと実感させられていた。
 照島が澤村と恋人として付き合い始めてもうすぐ九ヵ月になる。この九ヵ月はあっという間だった。澤村と二人で住むためのアパートを探してそこに引っ越したり、いい加減正社員として雇ってもらえる仕事を探したりしているうちに、いつの間にかもう大晦日だ。
 あっという間ではあったけれど、充実はしていた。澤村とたくさんの思い出をつくれたし、朝目覚めると毎日好きな人の顔を見られて幸せだった。
 玄関のドアが開く音がした。澤村が帰宅したようだ。慌ててリビングを飛び出して、玄関まで出迎えに行く。

「お帰り〜」
「ただいま。腹減った〜」
「もう晩飯の準備できてるから、すぐ食べられるよ」
「じゃあ先飯にする」
「はーい」

 澤村は帰る時間がわかるとすぐにメールをしてくれるから、いつも夕食の準備がしやすい。今日もタイミングばっちりに料理が出来上がっている。

「あれ、なんか今日は豪華だな〜。大晦日だからか?」
「何言ってんだよ。それ以前に大地くんの誕生日だろ」
「あ、そうだった。毎年仕事だからすっかり忘れてたな〜」

 去年の大晦日も確か澤村は仕事だった。しかも帰って来たのは年が明けてからで、それまで照島は一人寂しくテレビを観ていた記憶がある。そういえばあのときはまだ付き合ってなかったなと、少し懐かしい気持ちになった。

「大地くん、誕生日おめでとう。これオレからのプレゼント。おまけにオレの身体もついてくるよ」
「ありがとう。なんだろう?」
「俺はスルーかよ!」

 照島が差し出したプレゼントを受け取って、澤村は包みを丁寧に開けていく。

「お、腕時計だ。高かったんじゃないのか?」
「見た目ほど高いやつじゃないけどさ。大地くん、この間あったら便利だなーって言ってたじゃん。せっかくだから洒落てるのにしようと思ってそれにしたんだ。あ、気に入らなかったらごめん」
「いや、すげえ嬉しいよ。俺そういうののセンスないし、もし買うとしたら遊児に選んでもらおうと思ってたから。マジでありがとな。ああ、あとさっきスルーしたのは、そんなの今更だと思ったからだよ。遊児はとっくの昔に俺のもんだろ? 心も身体も全部」

 腕を掴まれたと思ったら、それを優しく引かれて次の瞬間には澤村の腕の中に閉じ込められていた。無骨な手が照島の後ろ頭を撫でる。額にキスされ、頬にもキスされ、耳元で澤村が息をついた。

「好きだよ遊児」
「うん。オレも好きだよ、大地くん」

 こういう瞬間が一番幸せだ。身体を重ねるときの燃え上がるような感覚もいいけれど、抱き合って愛の言葉を囁き合う瞬間に、いつも胸の中がパーッと温かくなる。

「飯食うか。すげえ美味そう」
「え、オレのことは食べてくれないの?」
「それはまたあとでな」

 それから夕食を食べて、買っておいた誕生日ケーキも分け合って、年末の歌番組を観ながら年が明けるのを待った。澤村と年を越すのは初めてだ。せっかくだから二人で初詣に行こうと、カウントダウンを見届けたあとに近くの神社に向かう。
 入ってすぐのところにあったおみくじは混んでいたので、先に参拝を済ませることにした。二人並んで賽銭箱に小銭を入れる。いつもこの瞬間に、財布の中身をすべて賽銭箱に投入した昔の記憶をふと思い出す。あれは初めて付き合った人の夢が叶うことを願ったときだった。もうずいぶんと昔の話だ。
 照島は、澤村がいつまでも健康でいてくれるようにと願った。彼が元気でいてくれるならそれでいい。ついでに自分も元気だったら尚いいのだが、澤村優先でお願いしますと、胸の中で懇願した。
 参拝が終わる頃にはおみくじも少し空き始めていたので、今度はそちらに向かった。

「お、大吉だ」

 先におみくじの紙を開いた澤村が、嬉しそうに言った。

「オレはっと……げ、中吉だ。一番リアクションに困るやつだ」
「まあ、凶よりはいいんじゃないか。むしろ大吉より中吉とか吉くらいのほうがいいと思うぞ。大吉引いたら、そこでもう運を使い果しちゃった気がするから」
「でも大吉が出て嬉しいだろ?」
「まあな」

 にやっと意地の悪い笑みを浮かべた澤村の肩を小突いて、照島はもう一度おみくじを見る。アドバイスのところにはいまいちパッとしないことばかり書かれている。所詮こんなのただの紙切れだと思うことにして、さっさとポケットの中にしまった。

「――遊児?」

 後ろから声をかけられたのは、そのときだった。
 隣にいた澤村の声ではないが、聞き覚えはあった。遠い昔に毎日のように聞いていた、あの声に似ている気がする。照島に夢を語り、愛の言葉を囁き、そして別れを告げた、あの声。
 照島はゆっくりと振り返る。そしてそこにいた人物を見た途端、七年の時を超えて高校生の頃の自分に戻ったような気がした。

「久しぶりだな」

 嬉しそうに笑った顔は、大人びてはいたものの、あの頃の優しい雰囲気を失っていなかった。春の優しい陽射しのような、ほんのりと温かい笑顔だ。昔照島が大好きだったその笑顔を、奥岳誠治は浮かべていた。

「ホント久しぶりだね! こっち帰って来てたんだ」
「うん。従弟の結婚式があったついでに、そのままこっちで年越したんだ。遊児にもメールしようと思ったんだけど、家の手伝いでこき使われちゃってさ」

 言っている最中に彼は照島の横にいた澤村に気づいて、「あっ」という顔をする。

「ごめん、友達と一緒だったんだな」
「友達っていうか……オレのいまの彼氏だよ」

 なんとなく、奥岳には隠したくないと思った。恒例となったお盆のメールのやりとりのときは伝えるのを忘れていたし、いまの自分を取り巻く環境を彼にも知っておいてほしかった。
 奥岳は驚いたように目を見開いたが、それはすぐに優しい顔になって照島に視線が返ってくる。

「そっか、恋人いたんだな。カッコいい人だな〜。あ、どうも初めまして。奥岳って言います。遊児の高校の先輩に当たる者です」
「澤村です。なんというか、そういうことです」

 自分が初めて愛した人と、いま愛している人が挨拶を交わす。不思議な光景だなと思いながら二人を見つめ、やっぱり似ていると改めて気づかされた。だからと言って今更奥岳に心を動かされたりしないが、ああいう優しい雰囲気の人はやっぱり好きだ。

「本当は今日メールするつもりだったんだけど、せっかく会えたからいま伝えておくよ」

 奥岳が真面目な顔で切り出した。やはり精悍な顔つきになったな、と思う。系統的には澤村と同じで、模範的な好青年といった感じだ。

「実はあっちでいい人見つけて、その人と結婚することになったんだ。式は挙げないけどな」
「マジで!? おめでとう!」
「ありがとう。まあ、まだ先の話になるんだけどね。俺はまだ大学院にいるし、夢も叶えられてないからな。でもその夢も、もしかしたら近いうちに叶えられるかもしれない。今度大きな発表会があって、いろんな審査を通ってそれに出してもらえることになったんだ。そこでたくさんの人にいい評価をもらえれば、プロの画家への道が開けるって言われてる。もしそこで成功すれば、夢が叶えられるかもしれない」
「マジかー! よかったじゃん! なんかオレもすげえ嬉しくなってきた」

 奥岳に画家になってほしいという思いは、彼と別れて七年経ったいまもなお照島の胸の中にあり続けていた。だからその報告は心の底から嬉しかったし、その発表会が上手くいけばいいと思う。

「約束、覚えてるか?」

 訊かれて思い出したのは、学校からの帰り道で、突然彼に別れを告げられたときのことだった。あのときの彼の台詞の一つ一つを――そして夕日を反射して美しく輝いた彼の涙を、照島はいまでも鮮明に覚えていた。

「覚えてるよ。つーか、あれってオレが言い出したことじゃん」

 プロの画家になり、個展を開く。奥岳が照島に語った大きな夢。そしてその暁には照島が一番に駆けつけるという、二人の約束。彼の夢は二人の愛を終わらせてしまう原因にもなってしまったが、照島はそれを一度たりとも憎んだことなどないし、夢を選んで自分のそばからいなくなってしまった彼を恨んだこともない。約束だって一日だって忘れたことなどなかった。

「もし個展を開くことができたら、来てくれるか?」
「もっちろん。アメリカだろうがどこだろうが、一番に駆けつけるよ。そんで誠治くんにお祝いの花束を渡すんだ。ああ、あとサインももらわないと。色紙じゃなくて、昔もらったあの絵に描いてほしい」

 高校の頃にもらった奥岳の絵。穏やかな海と晴天の空、そしてそれを眺める二人が描かれていた。照島はそれをいまも大事に飾っていた。

「ああ、あれか! ちゃんと持っててくれてたんだな!」
「当たり前だろう。オレの大事な初恋の思い出だからな」

 奥岳は照島に人を愛することの大切さを教えてくれた。喜びを分かち合い、互いを支えながら生きていくことの素晴らしさを教えてくれた。二人の愛は終わってしまったけれど、未練も後悔もいまはない。さっきの言葉のとおり、大事な思い出として照島の中で完結していた。

「遊児には本当に感謝してるよ。遊児と出会ってなければ、夢を追おうとは思わなかったかもしれない。きっと自分に自信が持てなくて、前に進めないままだった」
「大袈裟だよ。オレはただ誠治くんの絵が好きだった。もちろん誠治くんのこともだけど。だから夢、叶えてほしかったんだ。世界中の人に誠治くんの名前が知られればいいなって本気で思ってたよ」
「そうか。じゃあ、その思いになんとしても答えないとな。絶対に実現してやる」
「うん、頑張って。いつまでも応援してっから」
「ありがとう。じゃあ、そろそろ行くよ。――澤村さんと幸せにな。いつまでも幸せでいてくれることを願ってるよ。遊児が幸せでいてくれると、俺も嬉しいから」
「誠治くんも、未来のお嫁さんとお幸せに」
「うん。ああ、でも相手も男だからお嫁さんってのは変かな」
「え、そうだったの!?」
「そういうこと。いつか遊児たちにも紹介するよ」

 奥岳は照島に手を振ったあと、澤村にぺこりと頭を下げて人垣の向こうにいなくなった。

「あの人が遊児の初恋の人だったんだな」

 話を聞いていて二人の関係を察したのか、澤村がぽつりと呟いた。

「妬いた?」
「別に妬いてねえよ。でも、すげえ優しそうな人だな」
「うん、優しいよ。でも大地くんだってすげえ優しいじゃん」
「そうか?」
「そうだよ」

 その優しさにいつも救われている。いま照島が一番安心できる場所は、澤村の腕の中だ。

「そうだ。もう一回お参りに行ってきていい? 願い忘れたことがあった」
「ああ、いいぞ。俺腹減ったから焼きそば買って来るよ。遊児もいるか?」
「いる」

 そこで澤村と別れて、照島はさっき行ったばかりの向拝に向かう。もうピークは過ぎたのか、ほとんど人はいなかった。
 賽銭箱に小銭を投入する。さすがに財布の中身をすべて差し出すことはしなかったが、奮発して五百円玉を選んだ。

(どうか、誠治くんの夢が叶いますように……)

 あのときは同じように願掛けしたあと、照島は子どものように泣いた。奥岳との別れが辛くて、失恋の痛みに耐えられなくて、辺りが暗くなるまで賽銭箱に縋りついていた。
 だけどいまはもう泣かない。泣く理由もない。奥岳はもうそばにいないが、いまの自分には澤村がいる。澤村がいて、溢れんばかりの愛情を注いでくれている。奥岳に願われるまでもなく、照島はとっくの昔に幸せだった。




世界一長い夜にも、必ず朝は来る 終





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