その顔に見覚えがある気がして、岩泉一は再び帰路に着きかけていた足を止めた。ゴミ捨て場に倒れた男にもう一度近づき、その姿を今度はまじまじと確認する。 髪の毛は坊主に近い短髪だった。サイドから後頭部、そして逆サイドにかけてまで二本の剃り込みが入っており、細く剃られた眉毛と相まって、いかにも柄が悪そうな印象を受ける。それは岩泉の記憶の中のある男の容姿と一致していた。 (京谷……?) 倒れていたのは、高校時代の部活の後輩だった。京谷はその見た目のとおり素行が悪く、入部早々当時の三年生――岩泉よりも更に先輩――と衝突し、揉めた結果部活に来なくなった。けれど退部したわけではなかったようで、岩泉にとっての最後の春高予選にはレギュラーメンバーの一人として出場していた。 京谷は出会ったばかりの頃、理由はわからないが何かと岩泉に勝負を挑んできた。たとえばそれは部活でしていたバレーだったり、そうかと思えば野球だったり、とにかくありとあらゆるスポーツで競い合いを持ちかけてきて、そのすべてに岩泉が勝利していた。それもあってか彼は岩泉にだけは従順で、次第に生意気な口を利くこともなくなっていた。 京谷と会うのは高校卒業以来、約七年ぶりだ。あまり変化のない容姿に内心で苦笑しながら、岩泉は彼の肩を優しく揺すった。 「京谷、起きろよ」 声をかけるが、反応はない。死んでいるのではないかと心配になって呼吸の有無を確認すると、ちゃんと息はあった。しかし吐かれる息はかなり酒臭く、それを嗅ぐだけでこちらまで酔ってしまいそうなほどだった。 これが知らない人間なら、岩泉はなんの躊躇いもなく放っておくことができただろう。けれど相手は七年間顔を合せなかったとはいえ、可愛い後輩の一人だ。このまま放置しておくのは良心が痛むし、凍死なんかされたらそれこそ責任を感じてしまうだろう。 (連れて帰るか……) 岩泉は彼を介抱してやる決意をして、ゴミ捨て場に倒れたその身体を背中に抱えた。 自分がとても厄介なものを拾ってしまったとは、このときの岩泉にはまだ知る由もなかった。 幸せの欠片 T. 八帖のリビング・ダイニングに、六帖の寝室と四帖のキッチン、それからバスにトイレ、洗面室。それが岩泉の住んでいるアパートの間取りだ。一人暮らしの部屋にしては広さに余裕があるが、駅やコンビニ、あるいはスーパーや病院といった公共施設が近くにないせいか、家賃は思いのほか安い。 この部屋に人を上げるのはずいぶんと久しぶりだった。二十五歳にもなると、近しい存在だった友人たちも結婚や仕事を理由に疎遠になり、顔を合わせることもほとんどなくなってしまった。 背中に背負った京谷を、岩泉は狭い玄関にゆっくりと下ろす。このまま寝室まで運んでいくのは躊躇われた。相手はなんせゴミ捨て場に倒れていた身だ。服くらいは着替えさせないと不衛生だろう。 (身長そんなに変わんねえし、俺の服でいっか) 寒い玄関に放置するのは悪い気がしたが、とりあえず服をどうにかしないことには先に進めそうになかったから、岩泉は寝室に着替えを取りに行くことにした。 戻って来ても京谷は相変わらず寝入ったままで、まったく起きる気配がない。酒臭いのも相変わらずだが、鼻が慣れてきたのか最初のときほどは気にならなくなっていた。 とりあえず上から順番に着ているものを脱がしていく。ダウンジャケット、派手な模様の入ったトレーナー、Tシャツ――重い身体を支えながら脱がしていくのはなかなか面倒だったが、なんとか上は全部脱がし終えた。 露わになった京谷の裸体に、岩泉は思わず見惚れた。全体的に細身だがしっかりと引き締まっており、言うならばボクサーのような綺麗な身体が服の下には隠されていた。腹筋も描いたようにきっかりと割れ、岩泉は生唾を飲み込みながら、思わずそれに手を伸ばしていた。 温かい人肌の感触と、硬い筋肉の感触。その凹凸を無遠慮に撫で、岩泉は人知れず興奮する。 京谷を拾って連れて帰ったのは、ただ知っている顔だったからというだけではない。正直に言えば、顔が好みだった。そんな下心が岩泉の中にあったのだ。 自分の下肢がじんと熱くなるのを感じながら、岩泉は彼のベルトに手をかけた。ジーンズのホックとチャックを開き、裾を引っ張って足から引き抜く。 黄色のぴっちりとしたボクサーパンツ。その中心部はもっこりと膨らみ、岩泉の興奮を更に煽った。けれどそこに伸ばしかけた手をすぐに引っ込める。触ってしまうと、あとからとてつもない罪悪感に駆られる気がした。自分の不甲斐なさに内心で苦笑しながら、今度は服を着せる作業に移る。 顔も濡れタオルで一応拭いてやり、今度こそ京谷の身体をベッドまで運んだ。 岩泉はベッドのそばで、少しだけ彼の寝顔を眺めていた。京谷の顔立ちは少し大人っぽくなったような気はするが、劇的に何かが変わった様子はない。 (まあ、人間そんなもんなのかもしんねえけど。俺も変わってねえってよく言われるし) しかし変化はそんなにないはずなのに、高校時代には感じなかったはずの欲情を今の京谷には抱いてしまう。いや、きっとそれは自分が変わったのだ。ただひたすらにバレーに打ち込んでいた高校時代の自分とは違って、今の自分はいろんなことを知った。たとえばそれは誰かを好きになることだったり、誰かと身体を重ねることだったり、年相応にいろんな経験を積んできたからこそ、京谷に対して七年前とは違う感情を抱いているのだろう。 岩泉はその感情を押し殺し、京谷の頭を一つ撫でてから寝室を後にした。今日はもうこたつで寝る。一日くらいならそうそう風邪もひかないだろうし、彼と一緒の部屋では落ち着いて寝られそうになかった。 目覚まし時計のアラームより先に、寝室の引違ドアの開く音で岩泉は目を覚ました。昨日拾ってきた彼が起きたのだとすぐに理解して、岩泉は慌てて身体を起こす。 案の定、開いたドアの前に京谷が立っていた。その顔は最初不機嫌そのものといった様子だったが、視線が交わった瞬間に、驚いたように目をぱちくりとさせた。 「岩泉さん……っすよね?」 久しぶりに聞く京谷の声は、寝起きで気だるげな気配を漂わせてはいたが、岩泉の記憶の中の彼の声と何も変わっていなかった。男らしくて低い声だ。 「おう。久しぶりだな、京谷」 「なんで岩泉さんがここに? つーか、ここどこっすか?」 「ここは俺ん家だ。昨日近くのゴミ捨て場で倒れてたお前を拾って帰ったんだよ」 「全然覚えてねえ……」 「まあお前ずっと寝てたしな。つーか、かなり酒飲んでただろ? すげえ臭かったぞ」 「それは……すんません」 「気分悪いとかねえか?」 「ちょっと……いや、かなり頭痛いっす……」 「じゃあ適当に座ってろよ。水持ってくっから」 「自分でやるっすよ」 「いいって。一応客なんだから大人しくしてろよ」 何か迷うように視線を逡巡させたあと、はい、と頷いて京谷はソファーに腰を下ろした。 岩泉は彼の水を用意してやる前に、洗面室で顔を洗った。ついでに濡れタオルを準備して、水と一緒にソファーの彼に差し出す。 「ほら、水。あとこれで顔拭けよ」 「あざっす」 喉が渇いていたのか、京谷は受け取ったコップ一杯の水を一瞬で飲み干した。それから濡れタオルで眠そうな顔を拭く。 「あと一時間くらいしたら俺仕事に行くけど、お前はまだ間に合うのか?」 時計を見ながら岩泉は訊ねる。今日はまだ平日の真っただ中だ。 「オレ、この間仕事クビになったんで……」 「マジか。そんでヤケ酒?」 「そういうわけじゃないっすけど……」 「ちなみになんの仕事してたんだ?」 「土方っすよ。つってもずっと一緒のとこにいたわけじゃなくて、何度か場所変わったっすけど」 「へえ。まさか職場の人間とトラブって場所点々としてたとか?」 そんなとこっす、と京谷は気まずそうに視線を逸らした。京谷らしい理由に岩泉は思わず苦笑を零した。 「今日なんも予定ないんなら、ここにいてもいいぜ? 合鍵渡しとくから出るときポストにでも入れといてくれよ」 「いや、オレも岩泉さんが出るときに一緒に出るっすよ。家主いねえのに人んちにいるのは落ち着かねえし」 「そっか、わかった。今から朝飯作るけど、お前もいるか?」 「オレは腹減ってねえから大丈夫っす」 岩泉が朝食を作っている間、京谷はリビングのソファーに横になっていた。二日酔いで頭痛がすると言っていたし、岩泉もあえて話しかけたりはせずに淡々と仕事に出る準備を進めていく。 朝食を済ませ、歯を磨き終えたところでいつも出勤する時間の十五分前になっていた。京谷はいつの間にか寝息を立てている。そのそばに岩泉は腰を下ろして、なんとはなしに彼の寝顔を眺めた。 短い髪の毛に手を伸ばす。優しく撫でると、短髪特有のチクチクとした感触がした。それが妙に気持ちよくて、何度も何度も手を動かす。 無性にキスをしたい衝動に駆られた。一瞬でもいいからその唇に自分の唇を重ねたい。身体の奥底からアドレナリンが湧き出すのを感じながら、岩泉はそっと京谷の顔に自分の顔を寄せる。 その瞬間に京谷の目が薄っすらと開いた。岩泉は慌てて彼から距離を取り、何事もなかったように声をかける。 「そろそろ出るぞ」 「……うっす。あ、オレの服どこっすか? これって岩泉さんのっすよね?」 「ああ、そういや洗濯したんだった。まだ乾いてねえだろうな……。そうだ、お前今日の夜またここに来いよ。服取りに来るついでに晩飯食ってけ」 「いや、でも……」 「生乾きの服着て帰んのは嫌だろ? 飯だって一人で食うの寂しいんだよ。だから来い」 このまま京谷と別れるのは名残惜しかった。結局ろくに話もしていないし、たぶん今日別れるともう二度と会えない気がする。そう思っての提言でもあった。 「じゃあ、また夜に来ます」 「おう。今度は酔ってへろへろになったりしてんなよ」 「さすがに今日は飲まないっすよ!」 |