U.


 仕事を定時に終え、車で二十分ほどでアパートの最寄りのスーパーに着いた。そこで必要な食材などを買ってから再び帰路に着く。
 アパートの駐車場に入ったところで、岩泉は自分の部屋の玄関の前に人影があることに気がついた。特徴的な短髪と強面は京谷のものだ。何が入っているのか知らないが、やたら大きなリュックとA3サイズの紙袋が足元に置かれている。

「よう。来るの早いな」

 仕事が終わる時間は確かに教えていたが、彼が来るのは夜になるとばかり思っていたから少し驚いた。

「やることなかったんで。もしかして迷惑だったっすか?」
「いや、んなことねえよ。ゆっくりしてりゃいい」

 内心ちょっと嬉しかったが、それが顔に出ないよう気をつけながら、岩泉は玄関の鍵を開けた。
 風呂にでも入って来たのか、京谷からは仄かにせっけんの香りがした。服も今朝まで着ていた岩泉のものから、別のものに変わっている。

「服、あざっした」

 そう言って京谷が手に提げていた紙袋を差し出した。中身は昨日彼に着せた岩泉の服だった。

「ランドリーで洗って来たっす。乾燥もかけてます」
「そんな急がなくてもよかったんだぜ?」
「いつまでもオレが持ってるのも悪いっすよ」

 意外と律儀というか、少し常識的になったなと、彼の中身の変化を岩泉は初めて感じ取った。もちろん社会人としてはそれくらいの常識など持ち合わせていて当然なのだが、京谷がそれに当てはまるイメージが岩泉の中に微塵もなかっただけに、不思議な感覚がしてしまう。

「つーか、そのリュックなんだよ? 何がそんなに詰まってんだ?」
「……色々っすよ」
「その色々を訊いてんだろうが」
「色々は色々っす」

 あまりそれに関して話したくないのか、京谷は不機嫌そうにそっぽを向いた。岩泉もそれ以上追及するような意地悪な真似はせず、彼をリビングのソファーに座らせて茶を振る舞ってやった。
 対面式のキッチンで夕食の準備をしながら、岩泉は京谷にいろんなことを訊いた。高校を卒業してから何をしていたのかとか、今どこに住んでいるのかとか。
 京谷は高校を卒業後、知り合いの伝手で宅配の仕事をしていたらしい。しかし愛想のなさや高圧的な態度が反感を買い、一年ほどでやめさせられたという。その後は土方を転々としたり、バイトをしていたこともあったらしいが、結局どれも長くは続かなかった。
 住んでいる場所に関してはなぜか曖昧に濁された。何か事情があるのだろうと察して岩泉もすぐに別の話題に切り替えたが、持って来た大きなリュックと同じで気になる部分は多い。

「岩泉さんは、今はもうバレーしてないんっすか?」

 一通りお互いの近況を教え合ったところで、京谷がそう訊いてくる。

「会社のクラブでやってるぞ。まあたまにだけどな。よくやって週二とか。大学時代はちゃんと部活に入ってやってたぞ」
「実業団とか入らなかったんっすか?」
「そりゃあ入れたら嬉しかったけどな〜。残念ながら俺ごときが易々と入れる世界じゃねえんだよ」

 岩泉は高校時代、チームのエースとして活躍していた。その実力を買われて大学には引っ張ってもらえたし、エースにはなれなかったが大学時代もそれなりにチームのために貢献できたと自負している。
 けれどそこまでだった。数ある実業団からのお呼びは一切なかった。悔しくなかったと言えば嘘になるが、半分はその現実にも納得だった。自分には圧倒的に高さが足りない。百八十センチにぎりぎり届かない身長は、バレー選手としての“いい素材”の条件を満たしていなかったのだ。高校時代はそれでもエースとして胸を張れたが、大学時代は思うようにいかない場面が多くなったし、実業団の世界では尚更通用しなかっただろう。
 結果として、岩泉はバレーの世界から身を引いた。会社のクラブはお遊びのようなものだ。きっともう、人生の中で本気でバレーに打ち込むことなどないのだろう。

「……なんかもったいないっすね。すげえ上手かったのに」
「まあそう思ってくれねえやつが多かったってことだな。それにこの身長で実業団はさすがに厳しいぜ」
「どうなるかなんてやってみねえとわかんねえでしょ」
「それがわかっちまったんだよ。大学時代結構きつかったしな。それでも必死に足掻いてレギュラー取って、自分より遥かにデカいやつらに挑んだ。結果は勝ったり負けたりだったけど、やりながら自分の限界が見えちまった。でもいつだって本気だったからもう満足なんだよ。ああでも、及川や牛若が活躍してんの見るとちょっと悔しい気がするぜ」

 京谷は何か言いたげにこちらを見たが、結局何も言わずにまた自分の手元に視線を戻した。岩泉も料理の続きに集中する。

「オレ、岩泉さんのバレーしてるとこ、結構好きだったっすよ」

 呟くように放たれた言葉に、岩泉はどう反応していいのかわからなかった。

「なんだよいきなり」
「バレーしてるときの岩泉さん、すげえカッコよかったっす。もちろんバレーしてるとき以外もカッコよかったけど、一番気合い入ってて、一番すげえなって思ったのはやっぱバレーしてるときだったっす」
「おい、いきなり褒めんのやめろよ! 恥ずいだろうが!」
「でもホントのことなんで。だからもったいねえって思ったっつーか、オレはもう一回岩泉さんがバレーしてるとこ観たかったっす」

 京谷が本気でそう言ってくれているのがわかるから、むず痒いような恥ずかしさに苛まれてしまう。自分はそんなに褒められるような実力の持ち主ではないのに……。そう思う半面で、やっぱり一人でも褒めてくれる人間がいるのは嬉しかった。

「そんなに観てえっつーなら、お前今度会社のクラブの練習に参加しねえか?」
「部外者が参加していいんすか?」
「いいって。人少ねえし、むしろ歓迎してくれると思うぜ」
「……オレの性格知ってるっすよね? 迷惑かけるんじゃないっすか?」
「俺がフォローするから大丈夫だよ。それに俺、久々にお前とバレーしてえ」

 京谷のプレイは言うならば野性的なものだった。本能のままにトスに飛び込み、そして本能のままにスパイクを打ち込む。それだけでは簡単にブロックされてしまうのが普通だが、京谷は技術を身体能力で完全にカバーしていた。岩泉でも打ち分けるのが難しいコースも、助走の入り方やフォームを工夫して決めていたし、何よりスピードが人一倍速く、助走にフェイクを入れるなどのプレイも可能にしていた。
 素行は悪いが実力はある。それは岩泉も認めていたし、自分の後釜をチーム内で選ぶなら、やはり京谷以外にありえないと思っていたほどだった。

「オレ絶対鈍ってると思うっすよ」
「そりゃ俺だって同じだよ。昔ほど思いどおりにはいかねえ。だからお互いちょうどいいんじゃねえの?」

 少しの間を置いて、京谷は「そっすね」と少しだけ笑った。



 その日の夕食はチャーハンと麻坊豆腐、それに惣菜の餃子とサラダにした。京谷はさも美味そうにそれらを平らげ、大目に作っておいたチャーハンをおかわりした。遠慮がないなと呆れるながらも、自分の料理を美味しそうに食べてもらえるのはやはり嬉しかった。

「岩泉さん」

 京谷が硬い声で呼んだのは、岩泉が風呂から上がったときのことだった。

「どうした?」

 訊ねると、京谷はこちらに向けていたはずの視線を逸らした。何かを言おうか言わまいか迷うように難しい顔をしたあと、その視線が再びこちらに返ってくる。

「頼みがあるんっすけど」
「なんだよ? あ、金なら貸せねえからな。人に貸すほどの余裕なんてねえよ」
「そうじゃないっすよ! あ、でもちょっと近いかもしれねえけど……」

 京谷はなぜか緊張しているようだった。そんなに大そうな頼みごとなのだろうかと、岩泉もなんとなく身構えてしまう。

「その……一カ月くらいでいいんで、オレをここに置いてくれないっすか?」
「なんだ、そんなことかよ……。何言い出すつもりなんだろって緊張しただろうが。とりあえず訳を聞かせろよ。あ、やっぱ金がねえのか?」
「それもあるっすけど……。この間隣人とすげえ揉めて、住んでたアパート追い出されたんっす。仕事もクビになってたから、新しいとこ契約できなくて……」
「じゃあお前今どこで生活してんだよ?」
「最初は満喫とかで凌いでたんっすけど、それも最近厳しくなって、ここ一週間は野宿してました」
「野宿!? この真冬にか!?」
「毛布とか布団はあったから、寒さはどうにかなったっすよ。ただ食うもんに使う金がそろそろなくなってきて……」
「いや、待てよ。お前昨日滅茶苦茶酒飲んでたじゃねえか。金のねえやつがすることじゃねえだろ」
「……ヤケになって、そのままアルコール中毒で死ぬか、凍死しねえかなって人生諦めてたっす」
「お前な〜……」

 こんなに追い詰められた人間を、岩泉は二十五年の人生の中で初めて見たかもしれない。昨日岩泉が拾わなければ、本当に京谷は凍死していた可能性もある。約七年間顔を合せなかった相手とは言え、やはり死なれたら結構ショックを受けていただろう。昨日あの時間にコンビニに出てよかったと、自分の思いつきの行動に感謝せずにはいられなかった。

「一カ月くらいだったら、ここに住むのも別に構わねえよ。とりあえずその間にバイトでもいいから働き口見つけろよ」
「見つかればいいんっすけど、この顔だからなかなか採ってくれるとこねえし、接客はとりあえずオレ的に絶対無理なんで、見つかるかどうか……」
「贅沢言ってんじゃねえよ。そんなんじゃまたホームレスに逆戻りだぞ」
「そうなったらそうなったで仕方ねえっすよ」
「適当だな……」

 京谷らしいといえばらしい生き方だが、生きるか死ぬかの場面でも適当になっているのはどうかと思った。

「でもマジでここに住んでもいいんすか? 今金ねえから、生活費とか入れられないっすよ」
「一カ月くらいならどうとでもなる。まあお前がいつか働き出して、給料が入ったらなんか奢ってくれよ。それでチャラだ」
「……なんだったら身体で払うっすよ」

 独り言のような声で呟やかれた台詞を、岩泉は聞き逃さなかった。

「今なんかとんでもねえ台詞が聞こえたぞ」
「身体で払うって言ったんすよ。なんか見返りねえと、やっぱ申し訳ねえし。まあ岩泉さんが男の身体なんかいらねえってんなら、どうしようもねえけど」
「身体で払うってのがどういうことかわかってんのか?」
「抱かれるってことでしょ? ガキじゃないんで、そんくらいわかります」
「じゃあ男に抱かれるってのがどういうことかは?」
「それもわかってます。ケツにチンコぶち込まれるってことでしょ? 男に抱かれた経験はねえけど、抱いた経験はそれなりにあるんで」

 とても重大なことをカミングアウトしているにも拘らず、京谷はあっけらかんとしていた。

(つーか京谷ってこっちだったのか……)

 男を抱けるということは、いわゆる“お仲間”で間違いないのだろう。そのことに驚きながらも、違和感はあまりない。むしろ女と乳繰り合っている京谷のほうが岩泉の中では想像できなかった。
 けれどこれは岩泉にとっては嬉しい誤算だ。京谷は正直好みのタイプだし、彼と身体を重ねてみたいとも思う。ベッドの上でどんなふうに乱れるのか確かめてみたかった。

「けど抱かれたことはねえんだろ? 俺が突っ込む側でいいのか?」
「岩泉さんは、オレの知ってるやつの中で唯一尊敬できる人っす。だから抱かれるのも構いません」

 高校時代に彼が自分を慕ってくれているのはなんとなくわかっていたが、まさか尊敬されているなんて思いもしなかった。しかも身体を簡単に明け渡してしまうほどに、岩泉に気を赦している。いっそ好きだからと言われたほうが嬉しかったが、今はそれで十分だった。

「わかった。その話、乗るぜ。途中でやっぱ駄目だっつっても聞いてやらねえからな」
「駄目なんて言わないっすよ。男に二言はねえ。だから、岩泉さんの好きにオレを抱いてください」

 言いながら京谷は顔を赤くする。何の躊躇いもなさそうに誘いの台詞を口にはしたが、内心は結構照れくさかったのだろう。その仕草を可愛いなと思いながら、岩泉は彼の頭に手を触れた。

「じゃあさっそくベッドに行くとすっか」








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