X.


 体育館の玄関を出たところの階段の真ん中に、京谷はぽつんと座っていた。岩泉の足音に気がついて、厳つい顔がこちらを振り返る。

「さっきの大地に対する態度はなんだよ」

 機嫌の悪いオーラはいまなお京谷から放たれている。けれど岩泉はそんなものにいちいち怯んだりしないし、遠慮する気もない。

「何か気に障ったんじゃねえかって心配してたぞ」
「別に、なんもねえっすよ」
「なんもねえって顔じゃねえだろ」

 京谷の隣に腰を下ろし、明らかにぶすくれているその横顔をじっと見つめる。

「大地の何が気に入らなかったんだよ? お前のことすげえ褒めてたじゃねえか。それともなんか他に原因があるのか?」
「だから、なんもねえって言ってんでしょ。ちょっと外の風に当たりたくなっただけっすよ」
「嘘つけ。その顔で何言ったって説得力ねえんだよ」

 肩を小突くと、身構えていなかった京谷の身体がよろめいた。

「あのなあ京谷。お前がこういう説教されんの嫌いだってのはわかってるけど、あえて言わせてもらうぜ。素直なのはお前のいいとこだよ。でも自分の感情全部を態度に出すのはどうかと思うぞ。高校生ならそれでいいかもしれねえけど、もう社会人なんだ。少しは我慢を覚えろよ」

 京谷は何も言わない。ただ岩泉の言葉はちゃんと聞いているような様子だった。

「みんな楽しくバレーしてえと思ってるし、お前だってそうだろ? もちろん他のやつらに無理に合わせる必要なんかねえけど、自分中心になるのはよくねえ。大地みたいに、お前の態度に心配になるやつだっている。ま、感情を出すのもほどほどにしろってことだ。愚痴ならあとで俺がいくらでも聞いてやるよ。だから我慢すべきとこはちゃんと我慢しろ。わかったか?」

 少しの間があったあとに、京谷は「はい……」と少し不本意そうな声で返事をする。

「で、さっきの大地への態度はなんだったんだ? なんかあったんならさっそくここで愚痴れよ」
「いや……それはちょっと、言いたくないっす」
「なんでだよ! お前がそれ言わねえとなんも解決しねえだろうが!」
「ぎにゃあああああああ!! こみかみいいいいいいいいい!!」

 こめかみは京谷の弱点の一つだ。京谷に限らず人間誰しもこめかみは攻撃されたくない部位の一つだろうが、彼の場合は人一倍痛みを感じるようだった。

「どうだ、言う気になったか?」
「い、言います……」

 彼の目に涙が滲み始めたところで、岩泉はこめかみへの攻撃をやめてやった。紡がれる言葉を静かに待つ。

「……名前」

 言いにくそうな声と表情で、京谷は事の原因を語り始めた。

「岩泉さんとあの澤村って人が下の名前で呼び合ってるの聞いて、なんかムカついただけっす」
「はあ? なんだよそれ?」

 下の名前で呼び合うことの何がいけないのかわからなくて、岩泉はその意味を訊ねた。

「それだけじゃなくて、なんか二人すげえ仲よくて、オレが入る余地が全然ないっつーか……オレだって岩泉さんとは高校同じで、そんときから尊敬してるし、いまは一緒に住んでて結構親しくなったつもりなのに、あの人に負けてる」
「……お前ひょっとして大地に妬いてんのか?」

 京谷の言っていることを要約するなら、そういうことではないだろうか? しかし彼は首を横に振った。

「や、妬いてるとかじゃねえしっ」
「じゃあなんだってんだよ! 俺と大地が、俺とお前よりも親しくしてんのがムカつくってことだろ?」
「そういうことっすけど……」
「やっぱり嫉妬じゃねえか!」

 京谷の岩泉フリークが今もなお根強いことは、再会してからすぐにわかった。岩泉を特別だと言っていたし、ただ先輩として慕う以上の何かをいつも感じている。でもまさかそれが、他の人間に嫉妬を覚えるほどのものだとは思わなかった。

「あのなあ、京谷。俺らは再会してまだ一週間も経ってないんだぜ? しかもそれまでは七年くらい顔合わせなかったんだ。そんなお前より、ここ三年ずっとつるんでた大地のほうが親しいってのは普通のことだろ?」
「じゃあオレ、岩泉さんに下の名前で呼んでもらえるまであと三年もかかるんっすか?」
「お前俺に下の名前で呼んでほしいのか?」

 京谷は静かに頷いた。

「なら最初からそう言えよ。下の名前で呼ぶのも呼ばれるのも全然構わねえのに」

 呼称を気にするなんて最早小学生のようだが、そんな些細なことに嫉妬する京谷を岩泉は可愛いと思ってしまう。だから彼のささやかな願いを聞き入れてやることにした。

「賢太郎」

 そして初めて、彼の下の名前を呼んだ。口に馴染みのない感覚に思わず苦笑が零れる。呼ばれたほうの京谷は、肩をびくりと震わせた。

「オレの名前、憶えててくれたんっすね」
「お前のはなんとなく覚えてたよ。かっけー名前だからな。ほら、お前も俺を下の名前で呼んでくれるんだろ? 試しに今呼んでみろよ」

 京谷が顔を上げる。今日久しぶりに目が合った。何か戸惑うように視線を逡巡させたあと、再びまっすぐに岩泉を見てくる。

「は、一さん」
「なんだよ賢太郎?」

 もう一度呼びかけると、京谷の顔が一瞬のうちに赤く染まった。

「何照れてんだよ?」
「べ、別に照れてねえし」
「あー、はいはい。もうなんでもいいから機嫌直せよ。そんで一応大地に謝っとけ。心配かけたんだからな」
「わかってるっすよ。――岩泉さんとあの人って、ただのダチなんすか?」
「なんだよ、ただのダチって?」
「その……付き合ってるとか、ヤったことがあるとかじゃないっすよね?」
「んなのねえよ。あいつノンケだしな。俺と大地ってそんなに怪しく見えるか」
「あの人ホモつっても違和感ないから」

 確かに、と岩泉は思わず即答してしまう。澤村のような短髪で男らしい顔立ちは、ゲイに多い。元々女っ気のないやつだったし、一緒に働き始めた頃はひょっとしてお仲間かもしれないと疑った。と言うよりむしろ、岩泉が社会人になってから初めて恋に落ちた相手が彼だった。
 容姿はもちろんのこと、真面目で優しい彼の性格に岩泉は強く魅かれた。お仲間かもしれないと疑っていたのもあって告白に踏み切ったのだが、男は恋愛対象ではないとあっさり断られた。二人の間には、そんな過去がある。
 告白したことで岩泉の中でその恋は完結し、告白された澤村も普通の友人として今まで付き合ってくれている。失恋は辛かったが、それでも理解のある友人を得られたから、あのときの告白は間違いではなかったのだと今は思える。

「まあ、心配しなくてもあいつはどノンケだよ。彼女がいたこともあったしな」
「ならいいんすけど……」

 澤村に恋をした過去は、京谷には話さないことにした。今話すとせっかく直りかけた彼の機嫌がまた悪くなる気がしたからだ。直情的で面倒なやつ。そう感じながらも、彼を可愛いと思ってしまう自分はもう駄目かもしれない。








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