Y.


 京谷の就職活動は困難を極めているようだった。ハローワークに登録して条件に合った職を紹介してもらい、実際に面接も受けに行っているが、残念ながら全戦全敗で負け越しているという。
 岩泉としては、別に京谷に生活費を収めてもらわなくても特に困らないというのが本音だ。金のかかる趣味は持っていないし、ギャンブルも一切しないから、一人養うくらいはどうということもない。むしろ彼がずっとここにいてくれたほうが、自分にとっては幸せなことのように思える。

(俺、京谷に惚れてんのか……)

 始まりは身体の関係からだったかもしれない。けれど今は彼を自分のそばに置いておきたい、彼を守りたいという献身的な気持ちが岩泉の中にはあった。一緒にいれば楽しいし、寄り添えば心が満たされる。それはもう、恋愛感情に他ならないだろう。
 車を降りて、玄関の鍵を開ける。今日は何も用事がないと言っていたから、彼は部屋にいるはずだ。一緒に暮らし始めてもう半月経つはずなのに、この瞬間に胸が弾んでしまうのを未だに抑えられない。

「ただいま」

 声をかける。しかし、いつものように出迎える声は返ってこなかった。

「賢太郎?」

 もう一度呼びかけるが、やはり応答はない。靴は玄関にあるから中にいるはずだ。ひょっとしてトイレにでも入っているのだろうかと思いながら、岩泉は自分の靴をそろえて部屋に上がる。
 リビングのドアを開けると、そのドアが何かにぶつかった。人が入れる程度の隙間はできたから、そこから入って障害物の正体を確かめる。

「賢太郎!?」

 ドアの内側を見て、岩泉はギョッとした。障害物の正体が京谷の身体だったからだ。自分と同じ背丈の身体が、背中を丸めてそこに倒れていた。

「おい、どうしたんだよ!?」

 慌ててしゃがみ込むと、京谷の鋭い目が岩泉を見上げる。痛みに堪えているような、辛そうな目だった。

「胸が……痛くて」

 苦しそうな声がそう答えた。

「待ってろ、今救急車呼んでやるからな!」

 倒れて動けなくなるほど胸が痛いなんて、ただ事ではない。岩泉はジーンズのポケットから携帯電話を引っ張り出し、急いで119番をダイヤルしようとする。

「ま、待ってください。救急車はいらないっす」

 京谷が岩泉の手首を掴んで制止した。

「死ぬようなもんじゃないんで、車で連れて行ってもらえれば大丈夫っす」
「何言ってんだよ! 急がねえとどうなるかわかんねえだろ!」
「マジで大丈夫っすから。意識はっきりしてるし、動けないこともないっす」

 そう言って京谷は身体を起こした。立ち上がろうとする身体を、岩泉は慌てて支える。

「マジで救急車呼ばなくてもいいんだな? 無理すんじゃねえぞ」
「無理はしてないっすよ。それにオレの行ってる病院すぐそこなんで、一さんの車に乗せて行ってもらったほうが早いっすよ。あ、でも金ねえから、診察代は立て替えといてください」
「……わかったよ。保険証は持ってんのか?」
「リュックのちっせえポケットん中に入ってます」

 寝室の置物と化していた大きなリュックの中から、岩泉は京谷の保険証を取り出し、ソファーに座らせた彼の元に戻る。

「ほら、背中乗れよ。歩くのきついだろ?」
「でも……」
「そっちんが早いだろうが。病人が遠慮なんかすんじゃねえ」
「……わかったっす」

 背負った身体は思ったほど重くなかった。段差を降りるときは少しだけバランスを崩しそうになったが、車まで無事に運び込むことができた。
 京谷が指定した病院は、岩泉のアパートから七、八分の場所にあった。動けない京谷の代わりに診察の手続きをして、待合室で名前が呼ばれるのを待つ。人があまりいないせいか、京谷の番が来たのはすぐだった。
 もう一人で大丈夫だと言って、診察室には京谷一人で入っていく。
待っている間岩泉は一人不安に駆られていた。京谷が何か重い病を患っていたらどうしよう、と。もちろんそうであれば全力で支えていくつもりではいるが、好きな人にはやはり元気であってほしい。苦しい思いなんかしてほしくない。
 もしも死に繋がるような病気だったら……いや、京谷に限ってそんなことはないはずだ。きっとすぐに治せるもので、今日のことは笑い話で済むに違いない。そう信じたいのに、さっきリビングで倒れていた京谷の姿が脳裏に浮かんで、不安がじわじわとせり上がってくる。
 京谷が診察室から出てきたのは、それから十五分くらいしてからのことだった。

「どうだった?」

 焦るような気持ちを隠せず、開口一番に診察の結果を訊ねる。

「あ……なんか、すげえ言いにくいんすけど……」
「やばい病気だったのか!?」
「いや、そうじゃなくて……なんか、筋肉痛みたいなやつらしいです」
「筋肉痛……?」

 馴染みのある単語に、岩泉は一瞬ポカンとなった。

「運動不足だとたまになるらしいっすよ」
「……つまり、全然大したことねえってことか?」
「まあ、そういうことっすね……」

 全身の力が一気に抜けるような感覚がした。思わず長椅子に倒れるようにして座ってから、岩泉は大仰に息をついた。

「あんだけ騒がしといて筋肉痛って……人がどんだけ心配したと思ってんだよ」
「すんません……」
「まあ、いいけどよ。不治の病とか言われるよりよっぽどマシだ」

 深刻になったり、焦ったりした自分が馬鹿みたいだ。けれど最悪のケースを想像していただけに、安堵感はかなり大きかった。

「心配してくれたんっすか?」
「当たり前だろ。俺はお前が思ってる以上に、お前のこと大事に想ってんだ。何かあったら心配するし、どうにかしてやりたいって思う」
「大事……なんすか?」
「今更何訊いてんだよ。半月一緒に暮らしてりゃ情が湧くのが普通だろ。それ以前にお前は俺を慕ってくれる可愛い後輩の一人なんだ。大事に想わないわけがねえだろ」

 好きだと、その一言を本当は言ってしまいたかった。好きだから大事なんだと吐露してやりたかった。だけどきっとそれは、今告白するべき言葉ではない。京谷の中にも同じ気持ちがある気がしたが、それを伝え合うのはもっと二人の時間を重ねてからのほうがいいと思った。

「待合に行くか」
「うっす」

 岩泉は立ち上がってから、京谷の頭を優しく撫でた。くすぐったそうに肩を竦めたが、嫌がるそぶりは一切見せない。このまま抱きしめてしまいたいと思いながら、さすがに人目が気になった。それは家に着くまで互いにお預けだ。








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