Z.


「一さん、旅行にでも行くんすか?」

 そう言って京谷が指差したのは、こたつの上に無造作に置かれた旅行のパンフレットだった。

「いや、ちげえよ。旅行会社から届いただけで別に行く気はねえ」
「なんだ。ちょっとこれ見てもいいっすか?」
「ああ、いいぜ。それヨーロッパ特集だけど、興味あんのか?」
「この建物が気になって」

 表紙を飾るのはサグラダ・ファミリアだ。ヨーロッパにはあまり詳しくない岩泉でも名前を知っている。

「でけえ建物っすね。形もすげえ複雑だし、造るの大変そうだな」

 目を惹くのは外壁に彫られた彫刻の数々だ。建物と言うより、最早巨大な美術作品と言っても過言ではないだろう。

「そういえば、それまだ建設中らしいぞ。ほら、後ろのほうにクレーンが写ってる」
「マジだ。これ以上どうなるってんだ……」
「中は入れるらしいけどな。外見に負けず劣らずにのすげえ内装らしいぞ」
「これってどこにあるんすか? インド?」
「ちげえよ。確かスペインだったと思うぞ。つーかここにスペイン旅行って書いてあるじゃねえか」
「スペインってここからどれくらいかかるんすかね? 飛行機で三時間くらい?」
「そんなに近くねえよ。十五時間くらいはかかるんじゃねえの? ちなみにこれによると旅費は三十二万円だとよ」
「儚い夢っすね……」
「お前行きてえのか?」
「このなんとかファミリアってやつ、実際に見てみたいっす」
「じゃあ今度一緒に行くか。つっても、いつになるかわかんねえけどな。まとまった休み取れるの九月くらいだし、旅費も貯めねえと」
「マジで一緒に行ってくれるんすか?」

 京谷が神妙な顔つきで訊いてくる。

「俺とじゃ嫌か?」
「んなわけないでしょ。一さんとだったら深海でも宇宙でも行きたいっすよ」
「大袈裟だな〜」
「ホントのことっすから」

 京谷はお世辞を言わない。だからその言葉もきっと本心からのものだったのだろう。岩泉は嬉しいのと照れるのとでそわそわと落ち着かない気持ちになりながら、それを誤魔化すように京谷を抱きしめた。勢い余ってソファーに押し倒す形になってしまう。

「スペインに行く前にさ、国内のどっかに旅行に行こうぜ。温泉でもいいし、テーマパークでもいいし。部屋にいるばっかじゃ退屈だろ?」
「オレはここで一さんとまぐわってるのも好きっすよ?」
「まぐわうとか言うなよ! 間違ってねえけどさ……」

 京谷の腕が岩泉の背中に回ってくる。見つめ合って、言葉が消えた。どちらともなく唇を寄せ合って、啄むようなキスを繰り返す。まるで恋人同士のようだ。心の中でそう呟きながら、いつかは本当にそうなりたいと強く思う。

「お前って誰かと付き合ったことあるんだっけ?」
「ないっすよ。そういうのはめんどくせえってずっと思ってたから」
「今でもそう思うか?」
「今は……それも悪くねえかなって思うっす。なんだかんだ言って、一人でいるのって退屈っすから」
「はは、確かにな。賢太郎がここに来てから暇になった覚えって全然ねえわ」
「ひょっとして邪魔っすか?」
「ちげえよ。お前がいると楽しいつったんだよ。だから旅行に行くのだって、お前とならたぶんどこでも楽しいんだろうな。スペインだろうが宇宙だろうが、疲れ感じないくらい楽しめる気がするよ」
「オレもそんな気がするな……」

 会話が途切れると、さっきのキスの続きをした。それは徐々に深く濃厚なそれに変わっていって、無意識の内に互いの下半身を押し付け合っていた。

「勃ったな」
「一さんだって」

 自己主張の激しい互いのモノに苦笑が零れる。

「まあ、あれだな。ここでまぐわうか?」
「まぐわうって一さんも使ってるじゃないっすか」
「お前がさっき言ったからだろ」

 笑い合いながら、強く抱き合う。苦しいくらいの拘束感だったけれど、その中に岩泉は幸せの欠片を見つけたような気がした。


◆◆◆

 車のドアを開けた瞬間に、潮の香りが岩泉の鼻孔をくすぐった。遠くに見える水平線には大きな夕日が沈みかけており、この日最後の輝きを放っている。波に揺れる海面もそれを映し出してきらきらと輝き、まるで写真集で見るような幻想的な景色がそこにはあった。

「綺麗だな」

 そっすね、と京谷が伸びをしながら返事する。
 この景色を見られたのは本当に偶然のことだった。二人で少し遠くの温泉まで行った帰りに、海岸沿いの道で偶然日没を迎えたのだ。せっかくの美しい景色を写真に収めたくて、目についた小さなパーキングに車を停めた。
 ジーンズのポケットから携帯電話を取り出し、夕日の染まった海を写真に撮る。三枚ほど撮ってから、岩泉はじっと海を眺めている京谷を呼んだ。

「一緒に撮ろうぜ。お前と写真撮ったことってまだなかっただろ?」
「言われてみれば……。でも恥ずいっすよ」
「誰も見てねえから大丈夫だよ」

 ほら、と言って肩を引き寄せる。すぐそばの道路を時々車が行き交っているが、どうせ知らない他人だろうと気にしないことにした。

「ちゃんと笑えよ」
「そう言われても、作り笑いなんてオレできないっすよ」
「じゃあこうしてやる」

 無防備な脇腹をくすぐれば、京谷の口から「うひゃあ」と変な声が零れた。その隙にシャッターボタンを押した。

「卑怯っすよ!」
「なにが卑怯なもんかよ。作り笑いができねえお前のためにやってやったんだろうが」
「やるならやるって言ってからやってください!」
「言ったらお前ガードするだろうが。ほら、見てみろ。いい感じに笑ってるだろ?」

 ディスプレイの中の京谷は、子どものような無邪気な笑顔を見せている。力技で引き出した笑顔とは言え、滅多に見せてくれないそんな表情に岩泉も少し見惚れた。これは永久保存だ。

「すげえ情けねえ顔してる……」
「情けなくなんかねえよ。俺は可愛いと思うぜ?」
「可愛くなんかねえっすよ。でも、一さんも楽しそうに笑ってるな。一さんは笑うと優しそうに見える」
「その言い方だと、普段が優しくなさそうに見えるってことか?」
「そんなこと言ってないでしょ! 普段は……普通に、カッコイイと思います」
「いきなりデレんなよ!」

 顔を赤くする京谷に岩泉も釣られて恥ずかしくなりながら、微妙に気まずい空気を流すために目を海のほうに向ける。京谷も同じように眼下の景色に視線を移していた。

「この海泳いで行ったら、いつかはスペインに着くっすかね?」

 京谷が前触れもなくそう訊ねてくる。スペイン……そういえばこの間、サグラダ・ファミリアの話をしたのだった。

「着く前に疲れて溺れるか、流されるか、サメに食われるだろうな」
「筏でも駄目っすか?」
「途中で絶対沈むだろ。あと食料が尽きて餓死するな」
「でも何年か前に観た映画……トラと海を漂流する話なんすけど、筏で何百日も生き抜いてたっすよ?」
「それはフィクションだろうが! つーか、俺らは普通に飛行機で行けるだろ。なんでそんな無謀な手段でスペインに行こうとしてんだよ」
「……なんか、長い旅してみたくて」
「まあ、気持ちはわからねえでもねえけどな。筏は無理でも、船でゆっくり旅するってのもおもしろいかもな」

 連絡船に乗ったことはあるが、客船で旅をしたことは一度もない。どんな感じなのだろうかと、体験してみたい気持ちに駆られる。もし船旅の機会が訪れたとしたら、そのときは京谷と一緒に楽しみたい。

「マジでスペイン行きてえな……」

 そう呟いた京谷は、ひどく感傷的で泣き出しそうな顔をしていた。

「なんでそんな寂しそうな顔するんだ?」
「……今すぐ行きてえと思って。でも行けねえし……」
「少し我慢しろよ。今度俺が絶対連れてってやるから、そんな顔すんな」
「ホントに行けるんっすかね?」
「行けるに決まってんだろ。二人で行って、サグラダ・ファミリア観て、写真も滅茶苦茶撮って、アルバムとか作っちゃおうぜ」

 心に描く、幸せな未来。いつかきっと実現できると信じている。そしていつまでも自分のそばに京谷がいてくれると信じたい。それを実現するためには、胸の奥にしまっておいた強い想いを、言葉にして伝えなければならないだろう。

「一さん」

 だが、岩泉が口を開くより先に京谷が名前を呼んだ。海を眺めていたはずの瞳が、いつの間にかこちらに向いている。睨んでいるような、おそろしく真剣な目がそこにはあった。

「一さんが好きです」

 下から聞こえる波の音とともに、その言葉が岩泉の鼓膜を震わせた。

「男らしくて、でも優しくて、料理が上手くて……一さんの全部が好きです」
「……俺も賢太郎が好きだよ。でもまさか、先に言われちまうとは思わなかったな」

 京谷にも同じ気持ちがあるというのは、なんとなく察していた。と言うか鈍感な岩泉でさえもわかってしまうほどに、京谷の態度はあからさまだったと思う。前触れもなく告げられて驚きはしたが、それよりも先に言われて少し悔しかった。だがそれ以上に今この胸に満ち溢れているのは、どうしようもないくらいの嬉しさだ。

「付き合うか?」

 はい、と頷きながら京谷は嬉しそうに破顔する。さっき写真を撮ったときとはまた違う、照れたような笑顔だった。








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