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 毎日が平和そのものだった。平和すぎて退屈だと感じる瞬間がないわけではないけれど、そう感じられることが幸せの一つなんだと、岩泉は最近になって理解しつつあった。
 京谷が岩泉のアパートで暮らすようになってから、そろそろ一カ月が経とうとしている。恋人として付き合い始めてからは間もなく一週間だ。大事な人が毎日そばにいる。それはとても幸せなことで、一人でいるときよりもずっと自分の心が安定しているのを自覚していた。もちろん、毎日顔を合わせていれば喧嘩をすることもあったが、いつもすぐに仲直りできたし、それすらも幸せの一部なんだと実感している。

 仕事を終えて、アパートに着いた。このアパートもそろそろ移る頃合いかもしれない。一人で住むには余裕があるが、二人で住むには少し狭い。それに京谷も自分の部屋が欲しいだろうし、次の休みにでも新しい部屋を探してみようかと思いつく。
 玄関のドアを開錠し、中に入ってすぐに岩泉は京谷の靴がないことに気がついた。今日はまだハローワークに行っているか、あるいはどこかで面接でも受けているのかもしれない。
 腹を空かせて帰って来るだろうと思って、岩泉は夕食の支度をすることにした。今日は京谷が好きな焼きそばだ。豚肉と野菜をたっぷり入れ、お好みソースを絡めて出来上がりだ。適当な皿に盛りつけ、ソファーで寛ぎながら彼の帰りを待つ。
 しかし、一時間、二時間と経っても京谷は帰って来なかった。ハローワークはもうとっくに閉まっているだろうし、面接を受けているにしても遅すぎる。京谷は携帯電話を持っていないから、こちらから連絡する手段がない。痺れを切らした岩泉は、仕方なく自らの足で彼を捜しに出ることにした。

 ハローワークの近くやいつも通っているスーパー、この間連れて行ってやった病院の辺りも捜してみたが、京谷の姿を見つけることはできなかった。案外入れ違いでアパートに帰っているかもしれないと思って帰宅してみたが、そこには出る前と変わらない、彼のいない静かな部屋が待っていた。
 捜すことを諦め、岩泉は一人で焼きそばを食べた。家で一人で食事をするなんていつ以来だろう。少なくとも京谷がここで暮らし始めてからは、一度もなかった気がする。空虚で、寂しくて、焼きそばもなんだか味気なく感じる。

(何があったっつーんだよ……)

 心配になりながらも、連絡をとる手段がない以上じっと待っていてもどうしようもないと思って、就寝の準備を始めた。風呂に入って、歯を磨いて、ベッドを整える。――それに気づいたのはそのときだ。

(あいつのリュックがねえ……)

 京谷がここに住むことになった日、彼は大きなリュックを持って来ていた。ずっと寝室に置いてあったはずなのに、それが今はなくなっている。出かけるときにあれを持って行くことなんてなかった。財布をジーンズのポケットに入れるだけ。それが京谷の出かけるときのスタイルだ。

(まさか出て行ったのか?)

 そんな不安に駆られたが、彼が出ていく理由に心当たりがない。喧嘩をしたわけでもないし、何か不満があるような様子でもなかった。ではなぜ? 考えても、考えても、答えは出てこない。だから考えることはやめにして、その日は大人しくベッドに入ることにした。
 だがもちろん、不安を残したままの状態で眠りに就けるわけがなかった。目を瞑ると京谷のことを考えてしまう。自分が何か彼の気に障るようなことをしてしまったのではないかと、今日の朝までの行動や会話を振り返る。でもやっぱり、わからなかった。
 結局ほとんど眠れないまま朝を迎え、いつものように仕事に出る準備をする。京谷のいない、寂しい朝だった。



 翌日も、そのまた翌日も、京谷がアパートに帰って来ることはなかった。前触れのない唐突な別れを、岩泉は受け入れざるを得なかった。こんな別れは初めてじゃない。前にもあったはずだ。そう自分に言い聞かせても、ショックで落ち込んでしまうのを隠し切れなくて、職場では同僚の澤村にひどく心配された。

 一本の電話がかかってきたのは、京谷がいなくなって四日目の朝のことだった。

 知らない番号だ。もしかしたら京谷がどこからかかけてきたのかもしれない。そんな期待を胸に受話器ボタンをプッシュしたが、すぐに岩泉の希望は打ち砕かれる。

「もしもし」
『もしもし』

 聞こえてきたのは、知らない男の声だった。京谷と違って高くて柔らかい声だ。

『私、西之森警察署の伊藤と申します。こちら、岩泉さんのお電話で間違いなかったでしょうか?』
「はい、そうですが……」

 悪寒が背筋を這うような感覚がした。警察から電話なんてただ事ではない。ひょっとして京谷が何か事件に巻き込まれたのだろうかと、不安な気持ちが一気に胸に広がった。

『朝早くにおかけして申し訳ありません。京谷賢太郎さんをご存じですか?』
「はい、知ってますが……。賢太郎が何か事件に巻き込まれたんっすか?」
『あ、いえ、そういうわけではなくてですね……。その、今朝西之森駅近くの公園で若い男性の遺体が発見されまして』

 遺体という言葉に、岩泉は心臓が止まるかと思った。衝撃で喘ぐような呼吸になりながら、否定の言葉を頭の中で繰り返した。そんなはずがない、と。それが京谷であるはずがない。だって彼は、つい四日前まで元気にしていたのだから。でも――

『まだ京谷さんと決まったわけではありません。ただ、持ち物からするとそうではないかと思っている段階でして……。そこで非常に申し訳ないのですが、岩泉さんに確認をお願いしたいのです。今から病院のほうに来ていただくことはできませんか?』
「……わかりました。あの、この番号はどこで知ったんですか? それと俺の名前も」
『ご遺体が手に紙切れを持っていまして、そこにあなたのお名前と番号が書かれていたようです』
「そうなんですか……」

 警察が病院の名前を教えてくれる。皮肉にも、それは数週間前に京谷を連れて行ったあの病院の名前だった。車で七、八分。震える足で病院の玄関をくぐると、警察官の制服をすぐに見つけた。

「あの、岩泉ですけど」

 声をかけると、警官は生真面目な顔で一礼した。

「わざわざ来ていただいて申し訳ありません」

 そう言った声は、さっきの電話の声と同じだった。こいつが伊藤なのだろう。想像していたよりもずいぶんと若い。

「ではさっそくですが、ご確認をお願いします」

 スタスタと歩いていく警官に岩泉は黙ってついていく。
 見つかった遺体はきっと別の誰かのものだ。たまたま京谷が落とした番号のメモを持っていただけで、本人ではない。そう信じたいのに、この先に冷たい現実が待ち受けている気がして動悸が治まらない。
 京谷に愛想を尽かされた。それはそれで寂しい恋の結末だが、彼が死んでしまうよりも百倍ましだ。だからそうであってほしい。彼に生きていてほしい。何度も何度も心の中でそう願う。

 だが――

 霊安室の寝台に横たわった青年の顔は、岩泉のよく知るそれだった。つい四日前まで岩泉の前で笑い、時には怒り、他にもいろんな表情を見せてくれた、彼だった。

「賢太郎……」

 名前を呼んでも、返事はない。

「賢太郎……いつまで寝てんだよ。いい加減起きろって。人がどんだけ心配したと思ってんだよっ」

 頬を抓ろうと思って手を伸ばす。だが、触れた肌は氷のように冷たかった。岩泉の知っている温もりは微塵も残っていない。死んだ人間の感触だ。
 胸が潰れるような感覚がした。足に力が入らなくなり、リノリウムの床に崩れるようにして座り込む。悲しいはずなのに不思議と涙は出なかった。ただ目の前の京谷の身体のように、絶望で自分の身体が冷たくなっていくのをひしひしと感じていた。



 医師から京谷の死因について説明があった。どうも京谷は心臓に持病を抱えていたらしく、手術かあるいは薬による治療が必要だったらしい。実際に京谷は投薬治療を続けていたらしいが、二ヶ月ほど前から急に病院に来なくなったという。
 そういえば数週間前に、胸が痛いと言って倒れていた彼をこの病院に連れて来た。確か何かの薬ももらったはずだ。それを医師に訊くと、やはり件の病気治療の薬を処方したと言う。しかし処方したはずの薬があのリュックの中に丸々残っていたらしい。つまり、京谷が意図してその薬を飲まなかったということだ。
 京谷は岩泉に病気のことを一言も話さなかった。それがどうしてなのか、なぜ薬を飲まなかったのか、今となってはもう本人に訊くこともできない。京谷の口が言葉を紡ぐことは、もう二度とないのだから。








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