Ending.


 京谷の遺体は、様々な手続きを経て岩泉が引き取った後、細やかながら葬儀を上げてやった。声をかけたのは会社のバレークラブのメンバーと、高校時代のバレー部のチームメイト数人だけだ。京谷の交友関係はまったくの不明だったし、家族の連絡先も誰も知らなかった。
 葬儀が終わり、京谷の御骨をアパートに持ち帰ったあと、岩泉はいろいろと手を貸してくれた澤村に茶を出してやった。

「いろいろ助かった。俺だけじゃ何をどうすりゃいいのかわからなかったからさ」
「そんなのいいよ。手伝うなんて、当然のことだろ」

 澤村は寂しそうな顔で、部屋の隅に置かれた骨壺に目を向けた。

「でも本当に、死んじゃったんだな。今頃になって実感が湧いてきたよ。この間まで一緒にバレーしてたのに、なんでっ……」

 澤村の顔が苦しそうに歪んだと思ったら、特徴的なクリッとした瞳から大粒の涙がポロポロと零れ始めた。泣き顔を隠すように両手で覆い、肩を細かく震わせる。やがて静かな涙は嗚咽に変わり、部屋の中に寂しく響き渡った。

「なんで大地が泣くんだよ……」
「だって、こんなの普通に悲しいだろっ。京谷くん、最近になって普通に話してくれるようになったんだ。俺からじゃなくて、あっちから話しかけてくれることもあった。仲良くなれたと思って、すごく嬉しかったのにっ」

 澤村はしばらくの間泣いていた。いつもは頼れる友人の澤村が、今日は小さくなってしまったように見える。丸くなった彼の背中を優しく擦ってやりながら、素直に泣ける彼を少し羨ましいと思った。

「一は、悲しくないのか? 泣きたくならないのか?」

 嗚咽が少し落ち着いてきた頃に、澤村がそう投げかけてくる。

「悲しいに決まってんだろ。でも泣きたいはずなのに、なぜか涙が出てこねえんだよ。一昨日からずっとそうだ。でもすげえ苦しい。自分の胸に穴でも開いたんじゃねえかってくらい、苦しいんだ」

 悲しくないわけがなかった。だって京谷は、岩泉が誰よりも愛していた相手だ。自分の命に代えても守りたいと思うほど、大事な存在だった。

「実はさ、俺賢太郎と付き合ってたんだよ」

 京谷と一緒に住んでいることは、澤村にも話していた。けれど恋人関係にあったということはあえて言う必要もないかと、ずっと黙ったままだった。

「そうだったのか?」
「ああ。つっても結局、付き合い始めてからは一週間も経たずに終わっちまったけどな。これからってときに、こんなことになっちまった」

 楽しいことも、嬉しいことも、これからたくさん二人で共有していくはずだった。もちろん時には辛いことや衝突することもあったかもしれないが、京谷がそばにいてくれさえすれば、それだけでいい気がしていた。

「恋人としての思い出、何一つつくれなかったな。いろんなとこ行って、いろんなもの一緒に見て、そういう楽しいことがたくさん待ってるはずだったのに……。あいつ、病気のこと俺になんも話してくれなかった。俺ってそんな頼りなかったんだろうか?」
「そうじゃないよ。きっと一に心配かけたくなかったんだ」
「そうだとしても、なんでちゃんと治療続けてくれなかったんだ。死ぬかもしれないってのに、どうして薬ちゃんと飲まねえんだよ。どうして……」

 悲しい気持ちに混じって、悔しさが身体の奥底から溢れ出す。何もできなかった悔しさ。何も知らないでいた悔しさ。胸が痛いと言った彼を病院に連れて行ったあの日、どうして自分も診察室に一緒に入らなかったのだろう。今更遅い後悔が、岩泉の胸を強く締め付けた。



 澤村が帰り、一人になると、急に寂しさが押し寄せてきた。京谷はもう、ここにはいない。彼と再会したゴミ捨て場にも、一緒にバレーをした体育館にも、車の助手席にも、あの日沈みゆく夕日を眺めた海岸沿いの駐車場にも――この世界のどこにも、彼はいないんだ。
 岩泉はテーブルに置かれた自分の携帯を手に取り、メディアフォルダの中から一枚の写真を呼び出した。夕日に染まった海をバックに撮った、京谷との最初で最後のツーショット写真。京谷は岩泉にくすぐられて笑い、岩泉も少し意地悪げだが、ちゃんと笑っていた。ディスプレイの中の、幸せな瞬間。今はもう凍ったまま動かない。
 携帯を放り出したとき、ふと部屋の隅の棚に置かれた冊子が目に入った。旅行のパンフレットだ。表紙を飾るのは、サグラダ・ファミリアの堂々とした姿だ。京谷が生で見てみたいと言った、スペインの歴史的建造物。岩泉はなんとはなしにそれを手に取る。

『一さんとだったら深海でも宇宙でも行きたいっすよ』

 そう言ってくれた彼を思い出し、余計に寂しい気持ちになった。岩泉は本気で京谷をスペインに連れて行くつもりだった。その計画もこっそりと立てていたし、旅費もなんとか確保している。あとは夏にまとまった休みが取れさえすれば本当に二人で旅行できたのに、それは叶わないまま終わってしまった。
 何度も読んだそのパンフレットのページを適当に捲っていると、小さな紙切れがはらりと床に舞い落ちた。なんだろうかとそれを拾い上げて、目にした瞬間に冷や水でも浴びせられたようにぎょっとした。

“一さんへ”

 お世辞にも綺麗とは言えない字で、岩泉の名前が記されていた。見覚えのある文字。京谷の遺体が手に握っていたという、岩泉の名前と番号が書かれたあの紙切れの文字と同じだ。京谷が書いたメッセージ。そうに違いない。

“一さんへ
 いろいろ世話になりました
 一さんが作る飯すげえうまかったです
 一さんといっしょにいたことは死んでも忘れません
 幸せになってください”

 身体の中に、石のように沈んでいた悲しみが一気に押し上がってくる。それは岩泉の目頭をじんと熱くさせたあと、涙となって身体の外に溢れ出した。温かい雫は次々と頬を滑り落ち、床にぶつかって弾ける。

「馬鹿野郎っ……」

 くぐもった声が岩泉の喉から零れた。

「お前がいねえのに、何が幸せになれだよっ……どうやって、幸せになれってんだよっ」

 泣いたって死んだ人は返って来ない。そんなことはわかっている。わかっているけれど、願わずにはいられなかった。京谷を返してほしい。もう一度京谷に逢わせてほしい、と。

「どうして病気のこと、言ってくれなかったんだよっ……どうしてっ」

 スペインに連れて行ってやりたかった。サグラダ・ファミリアを見せてやりたかった。他にもいろんなところに連れて行って……彼を幸せにしてやりたかった。そしてそれこそが自分にとっての幸せだと、彼のそばにいながらそう予感していた。けれどその相手はもう、どこにもいない。

「賢太郎っ、賢太郎っ……」

 名前を呼んでも、それに答えてくれる声はない。あの低くて男らしい声を聞くことも、細い身体を抱きしめることも、短い髪の毛を撫でることも、もう二度とできないんだ。
 自分の中から失われた、幸せの欠片。永遠に取り戻すことのできないそれを求めて、窓の外の夜空に手を伸ばす。だけどその手に触れることができたのは、まるで嘘のような冷たい現実だけだった。



 幸せの欠片 終






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 壊れた時計が、ゆっくりと動き出した。








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