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 公園で岩泉と別れてから家に帰るまでの間、京谷はずっと岩泉のことを考えていた。家に帰って風呂に入っているときも、夕食を食べているときも、テスト勉強を投げ出して漫画を読んでいるときも、今日岩泉と話した会話の内容やそのときの彼の表情なんかが、ドラマを再生するように頭の中を通り過ぎる。
 日付が塗り替わりそうになったところで、京谷はベッドに入って目を閉じた。するとすぐに岩泉の顔が浮かんでくる。岩泉は笑っていた。今日一瞬だけ見せてくれた、あの優しい笑顔だ。
 京谷の頭を撫でていた手が、今度は肩を引き寄せる。そのまま逞しい腕の中に閉じ込められ、京谷もおずおずと岩泉の背中に腕を回した。
 目と目が合った。まるで時間が止まったようにしばらく見つめ合ったあと、岩泉の男らしい顔がグッと近くなる。唇が重なる感触。きっと柔らかくて、しっとりしているのだろう。そのままベンチに押し倒され、岩泉の手が京谷の服の中に……

(……って何想像してんだオレは!?)

 いかがわしい妄想を振り払うように、京谷は慌てて起き上がる。
 こんなのおかしい。男相手にこんな妄想をするなんてどうかしている。そう思うのに、股間ははっきりと自分が興奮していたことを示している。
 京谷は布団を隅に追いやって、スエットと下着を脱ぎ捨てた。そして痛いくらいに硬く張り詰めたそれに手を伸ばす。
 おかしいという自覚はあっても、妄想の続きをすることは止められなかった。岩泉の手は京谷のありとあらゆる部位を触り、弄り回し、京谷に快感を与えてくれる。

「くっ……あっ、あっ」

 あの人の裸は、きっと鍛えられていて筋肉もすごいのだろう。厚い胸板に割れた腹筋、見ているだけで達してしまいそうな気さえする。下半身はどんなだろうか? 触って、口に咥えたら喜んでくれるだろうか?
「岩泉さんっ……」

 男同士でセックスをするとき、後ろの穴を使うのだとどこかで聞いた覚えがある。想像すると寒気がするほど恐かったが、岩泉が相手ならこの身体のすべてを明け渡してもいい気がした。京谷の身体の中を掻き乱し、激しく腰を振り、奥深くを貫く彼を見てみたい。

「イクっ、イクっ……あっ!」

 天井を向いた先端から、勢いよく精液が迸った。いつになく凄まじい快感に一瞬だけ意識が飛びかけた。その余韻に浸りながら呼吸が整うのを待って、京谷は手や身体を汚したものをティッシュで拭き取る。
 余韻が引いて落ち着いてくると、強烈な罪悪感に襲われた。岩泉をオカズにしてしまった。身近な人間をネタに使うのは、している間はよくても後味が悪いのだと初めて知った。
 後始末が終わると再び布団に入って、今度こそ寝ようと目を閉じる。
 いやらしい妄想はもうしなかった。けれど頭の中にはやはり岩泉の顔が浮かんできて、温かいような、それでいて切ないような感情が胸の奥底から湧き出てくる。昼間も岩泉と目が合った瞬間に、似たような感覚に陥った。その感情の正体がなんなのか、今頃になってようやく理解しつつあった。
 これはきっと恋愛感情とかいうやつだ。京谷がこの十六年間の人生の中で誰にも抱いたことのない、特別な想い。それをどうやら岩泉相手に抱いてしまったらしい。

(オレってホモだったのか……)

 女子を好きになる自分も想像できないが、まさか自分がそういう性的指向の持ち主だなんて思いもしなかった。いや、あるいは岩泉だけ特別なのかもしれない。現に他の男の裸を見たいとはこれっぽっちも思わない。
 はあ、と深く息をつく。男同士である以上、この恋が実ることはないのだろう。初恋を自覚すると同時に失恋するなんて、なんとも寂しい話だ。けれど実らない恋だとわかっていても、自分は簡単にあの人を諦めきれない。そんな気がした。



「――よう、京谷」

 下駄箱でスリッパに履き替えていると、聞き覚えのある声がした。ドキリとしながら振り返ると、岩泉が欠伸をしながら近づいて来ているところだった。

「……うっす」

 京谷は素直に挨拶を返す。今日からこの人には素直になろうと決めていた。

「ちゃんと挨拶返してくれるんだな。俺のことちょっとは認めてくれたってことか?」
「オレは別に、今までも岩泉さんのこと認めてなかったわけじゃないっすよ。いつもすげえ人だって思ってました」
「いきなりデレんなよ!」

 照れたように頭を掻く仕草も、今は好きだと思える。この人はもう、ムカつく人なんかじゃない。

「また今度、一緒に帰ろうな。そんときはまたハミチキ奢ってやるから。あと部活にもそのうち出て来いよ。せめて俺が引退するまでにな」
「うっす」

 岩泉と一緒にバレーをしたい。けれどそれは今の三年生が引退して、岩泉たちの時代になってからだ。
 復帰したときに岩泉の足を引っ張らないようにと、京谷は数日後にウエイトトレーニングと自主練を始めた。けれど自主練は一人でやるには限界があり、このままでは実力が落ちていく一方だと危惧した京谷は、近くの男女混合バレーサークルの練習に混ぜてもらうことにした。部活ほど厳しい練習ではなかったが、感覚を取り戻し、それを維持していくのにはちょうどいい場所だった。
 ウエイトトレーニングの成果は、徐々に表れ始めた。それがもろに出たのがやはりスパイクとサーブだ。ボールが手にしっかりとミートしたときの音が明らかに以前と違っている。わかりやすい変化に自分で嬉しくなった。

 そうこうしているうちに春高予選が終わり、嫌いだった三年連中は引退していたが、京谷は部活に参加することを見送った。岩泉と同じコートに立つには、まだ実力が足りないと思ったからだ。
 あの人はきっと自分の何倍も練習を重ね、実力も遥か上を行っているはずだ。今の未完成な自分では、きっと足を引っ張ってしまう。そんな予感に駆られて、自分を磨くことにとにかく懸命になった。

 結局京谷が部活に復帰したのは、岩泉にとっての最後の春高予選が間近に迫ってきた頃のことだった。
 最大限の努力はした。まだ完成しきっていない部分も残っているけれど、岩泉と同じコートに立てるチャンスはもうこれが最後だ。やるしかない。
 京谷が体育館に入ると、部員たちの視線が集中する。知らない顔もあったがそんなことはどうでもいい。まず一番に岩泉の姿を探す。

「待ってたよ、狂犬ちゃん」

 だが、岩泉を見つけるより先に現キャプテンの及川に絡まれた。今の部員の中では一番苦手なやつだ。

「……なんだよ、まだ三年いんのかよ。インターハイ予選終わって、もう引退したかと思ってた」

 ぎりぎり周りに聞こえるような声で、そんな皮肉を呟いてやる。もちろん京谷の言う“三年”の中に岩泉は含まれていない。けれど少し離れたところに立っていた岩泉は自分もその中に含まれていると思ったらしく、怒ったような顔で腕を振り回していた。……あとで誤解を解いておかなければならない。
 バレーサークルに混ぜてもらっていたのもあって、部活の練習についていくのに特に苦労はなかった。むしろ以前よりもスパイクを決められるようになったし、レシーブだって前よりできるようになった。
 けれどやはりチームのエースでもある岩泉には敵わない。サーブもスパイクも、それにレシーブだって自分より上手い。前はそれが悔しかったが、今は素直に尊敬できるし、彼には常に自分の前を歩いていてほしかった。

 そして迎えた春高予選。京谷は準決勝になってようやくスターティングメンバーに名を連ねることを許された。
 公式の試合で岩泉と同じコートに立つのは初めてだ。嬉しくて浮足立っていたせいか、一本目のスパイクはミスしてしまった。
 試合は接戦となり、フルセットまで縺れ込んだ上に最後はデュースとなった。ここで岩泉の春高予選を終わらせたくない。そんな思いが京谷の集中力を高めたが、最後は相手の攻撃を止めることができずに終わってしまった。
 監督の激励があったあとに、自校の応援団に挨拶に行く。そのとき、岩泉が泣いているのがちらっと目に入った。京谷はそちらを見ないようにした。見てしまうと、自分も泣いてしまう気がしたからだ。岩泉とバレーをするのはこれが最後。人生の中でもう一度同じチームになることなど、きっとない。それを思うとひどく寂しい気持ちになった。



 スポーツ推薦での大学進学が早々と決まっていたおかげで、岩泉は引退してからもほぼ毎回部活に顔を出してくれた。及川のおまけは余計だったが、それを差し引いても部活に彼がいてくれるのは嬉しかったし、やる気も出た。
 けれど岩泉と部活にのめり込んでいるうちに、いつの間にか卒業式を迎えてしまっていた。引っ越しの準備だったり、大学の練習に合流する関係だったりで、部活にはもう来られないと岩泉が昨日言っていた。だから彼に会うのは今日が本当に最後だ。
 昨年もそうだったが、式が終わるといつも卒業生と在校生がロータリーにたむろする。だいたいが同じ部活で固まって、最後の挨拶や会話なんかを交わしたりするのだ。
 もちろんバレー部も例外ではなく、毎日見る顔が集まっている。群れるのは嫌いだが、今日ばかりは京谷もその輪に加わることにした。最後に岩泉と何か話せたらと思ったからだ。
 けれどそれがなかなか難しい。岩泉に憧れを抱く男は多く、さっきから常に誰かがまとわりついている。それに話したいといっても何を話すかは決めていなくて、少し離れたところから彼を見つめることしかできなかった。
 するとふいに岩泉が顔を上げて、目が合った。周りにいた後輩に何か告げると、こちらに近づいてくる。

「京谷、ちょっといいか? 二人だけで話してえんだけど」
「……うっす」

 来いよ、と言って歩き出す背中を京谷は追う。自分だけ岩泉に呼ばれた。特別に想われているんだろうかと嬉しくなるのを抑えきれない。
 岩泉に連れられて来たのは体育館裏だった。人気はなく、ロータリーの喧騒も聞こえない。

「わりいな、こんなとこに連れて来て」
「別に構わないっすよ」

 むしろ連れて来られて嬉しいです、という言葉は心の中で呟くに留める。

「お前とはいろいろあったからな。なんか最後に話しておきたかったんだよ」

 最後、という言葉が京谷の耳に寂しく響く。

「いろいろ勝負したよな〜。腕相撲とか野球とか、あとフリースローなんかもしたっけか?」
「結局、オレは一回も岩泉さんに勝てなかった」
「でも全部いい勝負だったよな? 今度こそ負けちまうんじゃねえかって、毎回ハラハラしてたんだぜ?」
「そんなふうには見えなかったっすよ。いつも余裕っぽい顔してたし」
「そう見えるように装ってたんだよ。やっぱ後輩にはカッコつけてえだろ」
「実際、岩泉さんはすげえカッコよかったっすよ」
「お前のデレはいつも突然だな……。まあでも、ありがとよ。実のところお前がそういうふうに認めてくれたのは結構嬉しかったんだ。俺もお前に対してすげえなって思ってた部分あったしな」
「そうだったんすか?」
「そうだよ。お前の運動神経は素直にすげえと思う。俺にできねえこと、普通にやってたからな。あと最後にお前が部活に来てくれたのも嬉しかったな」
「でも、試合じゃ結局足引っ張っちまいました。すんません」
「俺は別にお前が足引っ張ったなんて欠片も思ってないぜ? むしろお前がいねえと烏野といい勝負になったかも怪しいからな。それにあの負けは俺にも責任があると思う。大事なところで決めきれない場面、結構あったからな。まあ終わっちまったもんはもうしょうがねえ。大学に行ったらせいぜい頑張るとするさ。だからお前も頑張れよ。次のエースはお前なんだから」

 岩泉の腕が伸びてきて、京谷の頭を優しく撫でる。こんなの、初めて一緒に帰ったあの日以来のことだ。嬉しさと同時に切ない気持ちが込み上げてきて、鼻の奥が痺れるような感覚に襲われる。

「元気でいてください」

 京谷の願いは、ただそれだけだ。彼が元気でいてくれるのならそれでいい。この世界のどこかで生きてくれているのかと思うと、自分はきっと頑張れる。

「お前もな。他のやつらに抜かれねえよう、しっかり励めよ」
「うっす」
「じゃ、そろそろみんなのところに戻るか」
「オレちょっと用事思い出したんで、先行っててください」
「おう、わかった。じゃああとでな」

 岩泉は軽く手を振ったあと、身を翻して歩き去っていく。広くて逞しい背中。頼れるエースの背中。京谷が大好きな背中。遠くなっていくそれを見えなくなるまで見届けてから、京谷は校舎の中に入った。
 三年五組の教室。岩泉がいた教室だ。誰もいないそこにこっそりと入り、教卓の上の座席表を確認する。岩泉一……一番廊下寄りの列の、前から四番目だ。京谷はその席に遠慮なく座った。
 冷たい机に頬を押し当てる。岩泉もこんなふうに寝たりしていたのだろうか?
 目を閉じると、岩泉と過ごした日々が頭の中に蘇る。初めて出会った日、あのときは彼に対してあまりいい印象を持っていなかった。それからいろいろ勝負を仕掛けて、けれど全部負けて……悔しい思いをしたけれど、それも楽しかったんだと今は思える。長距離走に腕相撲、野球にバスケ、部活のバレーでも張り合った。そんな大事な思い出を残して、今日あの人は京谷の前からいなくなる。

「岩泉さんっ……」

 名前を呼んだ瞬間に、再び鼻の奥が痺れるような感覚に襲われた。目頭がじんと熱くなる。泣きたくなるのをなんとか堪えようと何度も瞬きした。
 あの人はもうこの教室には戻って来ない。それどころか、この学校に戻ってくることもないのだろう。体育館には来てくれるだろうか? 時々後輩たちの様子を――自分の様子を見に来てくれるだろうか? ……なんとなく、来てくれないような気がした。
 行き場をなくした恋慕の想いが、京谷の心に孤独感と寂しさを植え付ける。結局気持ちを伝えることはできなかった。それだけは恐くてできなかった。初めての恋で、初めての失恋。それは想像していたよりも苦しくて、切なくて――もっと一緒にいればよかったと、今更遅い後悔が京谷の中に募る。
 次に瞬きをした瞬間に、目尻から涙が零れた。慌てて目を押さえたが、その指の隙間から涙が止めどなく溢れ、手首を伝って机に落ちていく。
 止める方法がわからなかった。けれどこのまま涙と一緒にあの人への気持ちが溶け出ていくなら、それでいいと思った。この寂しさから早く解放されたい。早くあの人を好きだった自分を忘れてしまいたい。
 窓の外が夕日に染まるまで、京谷はずっと泣き続けていた。



 七年後に岩泉と突然の再会を果たすことになるなど、このときの京谷には想像もつかなかった。











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