V.

 仕事をクビになり、アパートも追い出された京谷は、己の人生を投げ捨てることにした。目の前には酒、酒、酒……今まで飲んだことのない量の酒が並んでいる。それを好きな順番に飲んでいって――知らぬ間に意識を失っていた。

 誰かに背負われている。おぼろげな意識の中で、京谷にもそれはなんとなくわかった。けれどそれが誰なのかわからないし、どうして自分が背負われているのかもわからない。ただこの背中には見覚えがある気がする。逞しくて、頼りになる背中。どこか懐かしい気持ちになるのはなぜだろうか?


 目を覚ました途端に、京谷はひどい頭痛に苦しめられた。二日酔いだ。昨日は浴びるほど酒を飲んで、途中からの記憶が曖昧になっている。
 いつもは起きた途端に寒さに苦しめられるのに、今日はそれがない。布団の中はポカポカしているし、布団から露出した顔に触れる空気もそこまで冷たく感じない。なぜだろうかと辺りを見回して、そこが室内であることに気がついた。けれど自分の部屋ではない。そもそも今の京谷の住処は、公園の隅に作った段ボールの家だ。こんな広いベッドどころか、壁も屋根もない。
 記憶を辿っていくと、自分が誰かに背負われている光景が思い出される。親切な誰かが、酒に酔って路地に倒れていた京谷を拾ってくれたようだ。だが、京谷にとってはそんなの余計なお世話だった。あのまま放っておいてくれれば凍死できたかもしれないのに……。
 けれど拾って介抱してくれたことには一応礼を言っておかなければならないだろう。相手は京谷が死にたがっていたことなんて知らないだろうし、今時こんな親切な人間はいない。そこの引違ドアの向こうにいるのだろうか?
 頭痛を堪えながらなんとか起き上がって、ベッドを下りる。引違ドアを開けるとカーテン越しの陽射しが眩しくて目が眩んだ。それが徐々に落ち着いてくると、部屋の真ん中のこたつに横になっている男を見つける。
 男は音に気づいたのか、ムクっと上体を起こした。京谷とは反対のほうを向いていた顔が、こちらを振り返る。

 その瞬間に、京谷は高校生の頃の自分に一気に戻ったような気がした。

 ツンツンした短い髪に、中性的な要素のない、男らしい顔立ち。少し眠そうだが、それでも勝ち気な色を灯した瞳は、京谷の記憶の中の“あの人”と一致する。

「岩泉さん……っすよね?」

 久しぶりにその名前を声に出して呼んだ気がする。心の中では何度も呼んだ、恋い焦がれた人の名前。自分の中から消すことのできなかった熱い感情が、胸の奥底で騒ぎ出すような感覚がした。

「おう。久しぶりだな、京谷」

 そして彼の声を聞くのも久しぶりだった。もう聞くことはできないと思っていたのに、今確かにそれは京谷の耳に届いた。

「なんで岩泉さんがここに? つーか、ここどこっすか?」
「ここは俺ん家だ。昨日近くのゴミ捨て場で倒れてたお前を拾って帰ったんだよ」
「全然覚えてねえ……」

 背中に背負われていたのはなんとなく覚えている。あのとき懐かしさを感じたのは、背負ってくれていたのが岩泉だったからだ。と言っても岩泉に背負われたことなんてなかったが、何度か見た彼の広い背中は、ずっと目に焼き付いたまま忘れられなかった。

「まあお前ずっと寝てたしな。つーか、かなり酒飲んでただろ? すげえ臭かったぞ」
「それは……すんません」

 飲んだ量は、アルコール中毒で死んでもおかしくないようなレベルだった。むしろそれを狙っていたのだが、どうも思っていたより自分は酒に強かったらしい。

「気分悪いとかねえか?」
「ちょっと……いや、かなり頭痛いっす……」
「じゃあ適当に座ってろよ。水持ってくっから」
「自分でやるっすよ」

 想い人であり、尊敬する先輩の一人でもある岩泉に自分の世話をさせるわけにはいかないと思い、京谷は慌てて彼を止めた。

「いいって。一応客なんだから大人しくしてろよ」

 けれど岩泉はそんな京谷を制してリビングを出ていく。頭痛を堪えるのがきつくなってきた京谷は、お言葉に甘えてソファーに座らせてもらった。スプリングが柔らかく沈む。
 なんて偶然だろうか。まさか七年もの時を経て岩泉に再会することになるなんて、思いもしなかった。心臓がまだバクバクしている。そもそも自分の生活圏内に彼がいるなんて思わなかった。もしかしたら今までもどこかですれ違ったことがあったりするのかもしれない。
 驚いたけど、それ以上に嬉しい。未だに京谷の心を掴んで離さない彼。逢えなかったこの七年間も、他の誰かに同じような気持ちを抱くことはなく、いつも岩泉のことを思い出していた。
 どこか空虚で寂しさに覆われていた心が、パーッと温かくなっていくのを感じる。これが、京谷にとっての岩泉という存在だ。強くて、温かくて、自分を照らしてくれる人。

「ほら、水。あとこれで顔拭けよ」
「あざっす」

 岩泉が差し出してくれたコップと濡れタオルを受け取り、喉が渇いていた京谷は水を一気に飲み干した。それから顔を拭く。
 それから岩泉にこちらの近況についていくつか質問され、答えているうちにいつの間にか眠りに落ちていた。目を覚ますと岩泉に顔を覗き込まれていたから驚いた。

「そろそろ出るぞ」

 岩泉はこれから仕事だと言っていた。彼が遅れてしまわないように、京谷は頭痛を堪えながらソファーから起き上がる。

「……うっす。あ、オレの服どこっすか? これって岩泉さんのっすよね?」

 妙に肌触りがいいなと思っていたら、着ていたのは自分の服ではなかった。岩泉の服……地味だけど、安いものではないと感触でなんとなくわかる。

「ああ、そういや洗濯したんだった。まだ乾いてねえだろうな……。そうだ、お前今日の夜またここに来いよ。服取りに来るついでに晩飯食ってけ」
「いや、でも……」
「生乾きの服着て帰んのは嫌だろ? 飯だって一人で食うの寂しいんだよ。だから来い」

 岩泉に迷惑をかけたくない。その半面で、もう一度ここに来たいと思っている自分がいる。だってせっかく再会できたのだ。さっきは少ししか話をできなかったし、この機会を無駄にしたくなかった。

「じゃあ、また夜に来ます」

 悩んだのは一瞬だ。岩泉も京谷に来てほしいようだったし、それなら甘えるべきだろうとそう返事する。
 岩泉が仕事に出かけるのと一緒に京谷も彼の部屋を出て、そのまま自分の住処に戻った。段ボールを地面に敷き、その周囲を同じく段ボールで簡単に囲った、貧乏極まりない家。こうして他人の家に上がらせてもらったあとだと、余計に惨めに見えた。
一晩空けていたにも拘らず、置きっ放しにしていたリュックは無事だった。財布やその他の貴重品は身に着けていたし、盗まれたところでそれほど困りはしないが、なくなっていたらいたでやはり腹が立っただろう。
京谷はリュックの中から寝袋と毛布を取り出して、段ボールの床に敷く。とりあえず今は寝ていたかった。とにかく頭痛が厄介だ。これが治まらなければ、他に何もする気が起きない。
 横になるとすぐに眠気が下りてきて、次に目を覚ますと太陽がちょうど真上にのぼってきていた。身体を起こすと、少しだけ頭痛が和らいでいる。動くのには問題なさそうだ。
 京谷はリュックを持って、とりあえず近くの銭湯に向かった。もう一度岩泉に会う前に身体を清めておきたかったからだ。安い銭湯だから広さもそれ相応だが、平日の昼間とあって人気はほとんどなく、ゆっくりできた。
湯船に浸かりながら、再会を果たした岩泉のことを考える。あの人は相変わらずカッコよかった。それに優しい。部活の後輩とは言え、何年も会ってない京谷を介抱してくれたのだ。惚れ直さずにはいられなかった。
結婚はしていないようだった。けれどもしかしたら彼女なんかがいるのかもしれない。そうだったら嫌だな……でももしいないなら、自分はもっと積極的になってもいいような気がする。
 高校時代、京谷は岩泉のことが本気で好きだった。しかし、その想いは告げられないまま彼は卒業してしまい、それから逢うことは叶わなかった。告白できなかったことで、行き場をなくした恋心は大きなしこりとなってずっと京谷の胸に居座った。それから誰かと身体を重ねることはあっても、気持ちが動くことはなく、なんとなく苦しいような感覚が長く続いている。
 この再会は一つのチャンスだ。もちろん彼と恋人として結ばれるなんて思っていないが、それでも今度は後悔しないように積極的になろうと心に決める。気持ちもちゃんと伝えて、それでこの長い片想いを完結させたい。
あの部屋に、住む場所をなくした自分を一緒に住まわせてもらえないだろうか? 岩泉は優しいが、そこまで許してくれるかどうかは怪しい。けれど頼んでみる価値はあるだろう。駄目なら駄目で今のホームレス生活を続ければいいだけだ。
 銭湯から出ると、借りていた岩泉の服をコインランドリーで洗濯する。本当はもっと着ていたかったが、あんないいものを自分なんかがいつまでも着ているわけにはいかないだろう。
 することも特になかったから、洗濯が終わると京谷は岩泉のアパートに向かった。岩泉が予告していた帰宅時間よりもまだ一時間早いが、一時間くらいならぼうっとしていればすぐ過ぎる。
 駐車場に今朝見た岩泉の車が帰って来た。彼に似合う、カッコいいSUV。この人はセダンも似合う気がする。

「よう。来るの早いな」

 車から降りてきた岩泉の顔を見ると、胸が弾む。早く逢いたかったという気持ちが嬉しさに変わって、京谷の胸が温かくなる。

「やることなかったんで。もしかして迷惑だったっすか?」
「いや、んなことねえよ。ゆっくりしてりゃいい」

 鍵を開錠し、中に入っていく岩泉について京谷も部屋に上がらせてもらう。改めて見ると一人暮らしにしては少し広い間取りで、掃除や整理整頓が行き届いている。さすがは岩泉さんだなと思いながら、手に提げた紙袋の存在をふと思い出す。

「服、あざっした。ランドリーで洗って来たっす。乾燥もかけてます」
「そんな急がなくてもよかったんだぜ?」
「いつまでもオレが持ってるのも悪いっすよ」

 ……本当はいつまでも持っておきたかった。

「つーか、そのリュックなんだよ? 何がそんなに詰まってんだ?」

 今日からここに住まわせてもらえるかもしれないという可能性も一応考慮して、京谷は生活用品の入ったリュックを持って来ていた。それに気づいた岩泉が訊ねてくる。

「……色々っすよ」
「その色々を訊いてんだろうが」
「色々は色々っす」

 なんとなく言わないほうがいい気がして適当に流すと、岩泉はそれ以上追及してこなかった。
 それから岩泉はキッチンに入る。料理を作りながら、リビングのソファーに座った京谷の相手もしてくれた。互いに近況を報告し合う中で、バレーの話も出た。京谷は高校でやめてしまったが、岩泉は今でも会社のクラブで続けているという。彼のバレーをしている姿が好きだった京谷は、そのことに少し安堵した。
 恋人の有無も京谷から訊いた。今付き合っている人はいないという。引く手数多だと思っていたから意外だったが、いないならいないで結果オーライだ。
 一時間と少しして、岩泉の料理が完成する。チャーハンと麻坊豆腐、それに餃子とサラダだ。朝から何も食べていなかった京谷は、その匂いを嗅ぐだけで涎が出そうだった。
 岩泉の手料理はどれも美味かった。最近ろくなものを食べてなかったのもあって、箸がどんどん進む。チャーハンのおかわりももらって、すっからかんだった腹が一気に膨れた。

「そういえば昔、お前と一緒に公園の東屋でハミチキ食ってたよな」

 それは京谷も覚えている。テスト週間になると、岩泉はいつも京谷を帰りに誘ってくれた。そしてコンビニでチキンを買ったあと、その近くの公園で一緒に食べた。懐かしい思い出だ。それを岩泉も覚えていてくれたことが無性に嬉しかった。
 夕食を食べ終わると岩泉は風呂に入りに行った。背中を流すと言ってバスルームに突撃することも考えたが、いろいろ手順をすっ飛ばしすぎている気がして我慢した。
 それよりもまだ一番の目標を達成していない。ここに一緒に住むことを許してもらう。岩泉が風呂から上がったら、すぐにお願いしよう。こういうのは後回しにすると余計に言いにくくなる。

「岩泉さん」

 始めの一声を出すのに、少しだけ緊張した。だから声が少し硬くなる。
 風呂上がりの岩泉は茶を飲んだあとに、「どうした?」と訊いてくる。

「頼みがあるんっすけど」
「なんだよ? あ、金なら貸せねえからな。人に貸すほどの余裕なんてねえよ」
「そうじゃないっすよ! あ、でもちょっと近いかもしれねえけど……。その……一カ月くらいでいいんで、オレをここに置いてくれないっすか?」
「なんだ、そんなことかよ……。何言い出すつもりなんだろって緊張しただろうが。とりあえず訳を聞かせろよ。あ、やっぱ金がねえのか?」
「それもあるっすけど……。この間隣人とすげえ揉めて、住んでたアパート追い出されたんっす。仕事もクビになってたから、新しいとこ契約できなくて……」
「じゃあお前今どこで生活してんだよ?」
「最初は満喫とかで凌いでたんっすけど、それも最近厳しくなって、ここ一週間は野宿してました」
「野宿!? この真冬にか!?」

 岩泉が驚いたように目を瞠った。

「毛布とか布団はあったから、寒さはどうにかなったっすよ。ただ食うもんに使う金がそろそろなくなってきて……」
「いや、待てよ。お前昨日滅茶苦茶酒飲んでたじゃねえか。金のねえやつがすることじゃねえだろ」
「……ヤケになって、そのままアルコール中毒で死ぬか、凍死しねえかなって人生諦めてたっす」
「お前な〜……」

 岩泉は呆れたように吐息する。けれど京谷の頼みを無下にするような気配はなかった。

「一カ月くらいだったら、ここに住むのも別に構わねえよ。とりあえずその間にバイトでもいいから働き口見つけろよ」

 あまり悩むような様子もなく、岩泉はそう言った。こんなにあっさり了承してくれるなんて思わなかったから、京谷のほうが内心で面食らってしまう。

「見つかればいいんっすけど、この顔だからなかなか採ってくれるとこねえし、接客はとりあえずオレ的に絶対無理なんで、見つかるかどうか……」
「贅沢言ってんじゃねえよ。そんなんじゃまたホームレスに逆戻りだぞ」
「そうなったらそうなったで仕方ねえっすよ」
「適当だな……」
「でもマジでここに住んでもいいんすか? 今金ねえから、生活費とか入れられないっすよ」

 京谷がここに居候することで岩泉の生活が苦しくなるというなら、そこは京谷が引かなければならないだろう。心配して訊ねたが、岩泉は大丈夫だと言った。

「一カ月くらいならどうとでもなる。まあお前がいつか働き出して、給料が入ったらなんか奢ってくれよ。それでチャラだ」
「……なんだったら身体で払うっすよ」

 その台詞は、ほんの冗談のつもりで言ったものだ。岩泉がどんな反応をするのか確かめてみたかった。

「今なんかとんでもねえ台詞が聞こえたぞ」
「身体で払うって言ったんすよ。なんか見返りねえと、やっぱ申し訳ねえし。まあ岩泉さんが男の身体なんかいらねえってんなら、どうしようもねえけど」
「身体で払うってのがどういうことかわかってんのか?」
「抱かれるってことでしょ? ガキじゃないんで、そんくらいわかります」
「じゃあ男に抱かれるってのがどういうことかは?」
「それもわかってます。ケツにチンコぶち込まれるってことでしょ? 男に抱かれた経験はねえけど、抱いた経験はそれなりにあるんで」

 自分の性的指向をあっさりとカミングアウトする。勇気が要らなかったわけではない。でもこの人はなんとなく京谷がゲイだと知っても態度を変えない気がした。
 岩泉は真剣な顔で何か考えていた。てっきり馬鹿なこと言ってんじゃねえと叩かれるかと思ったのに、想像していたのと違う反応をする。ひょっとして本当に自分を抱いてくれるのではないかと、淡い期待が胸の中で膨らんでいく。

「けど抱かれたことはねえんだろ? 俺が突っ込む側でいいのか?」
「岩泉さんは、オレの知ってるやつの中で唯一尊敬できる人っす。だから抱かれるのも構いません」

 ケツに性器を突っ込まれるなんて、想像しただけでも痛い気がしてくる。今まで抱いてきた男たちは皆気持ちよさそうに京谷を咥え込んでいたが、とても快感を伴うようには思えない。
 それでも京谷は、岩泉になら抱かれてもいいと思った。己のすべてを曝け出し、彼のすべてを受け入れてもいいと本気で思えた。

「わかった。その話、乗るぜ。途中でやっぱ駄目だっつっても聞いてやらねえからな」

 そう言われて初めて、京谷は岩泉が“こっち側”なんだと気がついた。再会を果たしながらも諦めかけていた恋心を、手放さなくてもいいのかもしれないと悟った。
 この人に抱かれる。妄想じゃなくて、本当にそうなるんだ。嬉しさと興奮で身体が震えた。

「駄目なんて言わないっすよ。男に二言はねえ。だから、岩泉さんの好きにオレを抱いてください」

 臭い台詞に自分で恥ずかしくなる。顔が赤くなるのを抑えられなかった。
 岩泉が笑いながら京谷の頭を撫でてくる。優しい手のひらは、昔と変わってない。

「じゃあさっそくベッドに行くとすっか」











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