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 岩泉のセックスはどこまでも優しくて、どこまでも気持ちよかった。後ろに受け入れるのは最初不安で仕方なかったが、実際入れられてみると案外上手く噛み合って、意識が飛びかけてしまうくらいの快感を与えられた。
 ほぼ同時に達したあと、隣に寝転がった岩泉に身体を引き寄せられる。優しい抱擁に包まれて、京谷は言いようのない幸福感に満たされた。何度も何度も、頭の中では岩泉に抱かれた。それがまさか現実になるなんて、高校生の頃の自分が知ったら卒倒してしまいそうだ。



 岩泉との共同生活は、京谷にとって幸せに満ちたものだった。毎日好きな人のそばにいて、好きな人の顔を見られる。一緒に食事できる。風呂にも入れる。そして夜は抱いてくれる。
 下の名前で呼び合うことも許された。少し照れくさかったが、互いの距離が一気に縮まったような気がしてやはり嬉しかった。
 気持ちを伝えたわけではないけれど、なんだか恋人同士になったような気分だった。岩泉は京谷に優しくしてくれるし、甘えさせてくれる。身体だけじゃなくて、心も繋がっているような気がしてくる。もしかしたら岩泉の中にも、京谷と同じ気持ちがあるのかもしれない。そう信じたくなる。

 だが――
 そんな幸せな日々に、魔の手はひっそりと忍び寄ってきていた。絶望と苦しみをまとった、闇色の手。それは京谷の身体を鷲掴みにして、幸せな日々を壊しにかかる。



 胸に何か違和感があるなと思ったら、それは急激に痛みへと変化した。京谷は胸を抑えながら、もう片方の手でダイニングテーブルの縁を掴む。

「がっ……」

 痛みとともに、息が止まってしまうのではないかという苦しさが京谷を襲った。けれどこの感覚は知っている。幸せな日々の中にいたせいですっかり忘れていたが、あの病気のせいだ。京谷が人生を投げ出したくなった一番のきっかけ。それが今更ながら顔を覗かせる。
 ダイニングテーブルを掴んでいた手が離れ、京谷は床に転がった。痛みはなおも続いている。このままでは本当に、死んでしまう気がした。

「一さんっ……」

 愛する人の名前を、痛みに支配されそうな意識の中で呼んだ。まだ死にたくない。だってあの人に、好きだとちゃんと伝えていない。幸せだけれど、自分はまだあの人の恋人じゃない。
 死ぬのだとしても、せめて最後にあの人の顔を見たい。そう強く願っていると、部屋のドアが開いて京谷の身体にぶつかった。岩泉が帰って来たのだ。そのことにひどく安堵する。

「――賢太郎!?」

 岩泉が名前を呼んだ。顔を見たいのに、痛みで顔が上げられない。

「おい、どうしたんだよ!?」

 逞しい腕が京谷の身体を抱き起す。それでやっと彼の顔を見ることができた。怒ったような、それでいて心配してるような顔だった。



 岩泉の救急車を呼ぶという提言を断って、京谷は彼の車で病院まで乗せてもらった。
 この病院に来るのも久しぶりだ。以前はあの病気の薬の処方してもらうために頻繁に通っていたものだが、治療を諦めてからもう一カ月半も経つ。検査を終え、対面した医師も一カ月半ぶりに見る顔だった。

「はっきり申し上げますと……病気の進行はすでに手遅れな状態です」

 医師の表情は極めて深刻なものだった。病気の治療を中断した理由を聞かれたが、適当に答えてあしらう。

「京谷さん、今からでもいいのでちゃんと薬を飲んでください。正直、延命措置にしかなりませんが、飲まなければ本当に、すぐに限界が来てしまいます」
「……別に、もう飲まなくていいっすよ。オレは十分に生きたし」
「十分って……あなたはまだ二十代でしょう? 十分に生きたとはとても言えない」
「オレにとっては十分なんで。それに……最後に幸せになることができました。だからもう思い残すこともない。幸せなまま死にたい」

 死ぬのは正直少し恐い。けれど本当に、京谷は自分の人生に満足していた。最後にあの岩泉と一緒にいられたのだ。生身で触れ合うことだってできた。恋人のように優しく接してくれた。……これ以上の幸せなんかきっともうない。
 それにもう手遅れだとわかっているなら、延命措置なんて無意味だ。そもそも薬に費やすような金もないし、自分の人生はここで幕を下ろすべきだと、京谷はぼんやりと“終わり”を受け入れる。

「……薬は処方しておきます。どうか、ちゃんと飲んでください」

 医師の言葉に、京谷は適当に頷いておいた。



 胸の痛みは鋭さを増し、痛む時間も日に日に長くなってきた。岩泉がいるときは痛み止めでなんとか誤魔化していたが、それもきっと次第に効かなくなっていくのだろう。
 結局医者に処方された病気の薬は一度も飲んでいない。リュックの中に入れたままだ。死ぬ覚悟は当の昔にできている。ただ死ぬ前に自分の気持ちを岩泉に伝えておきたかった。ちゃんと伝えておかなければ、死んでも死にきれない気がする。

 岩泉と一緒に住み始めてそろそろ一カ月。そんな頃に、彼に誘われて京谷は日帰り温泉旅行に赴くことになった。
 その日の体調は不思議なほど良好で、朝から胸が痛むこともなく夕刻を迎えることができた。こうして二人で出かけられるのも、きっとこれで最後なのだろう。楽しかったけど、帰りの車の中では寂しい気持ちに駆られた。
 運転席側に見える海は夕日に染まってオレンジ色に輝いている。綺麗だな、と思わず見惚れていると、岩泉が道路沿いのパーキングに車を停めた。外に出た彼に倣って、京谷も車を出る。潮の香りがふわりと鼻孔をくすぐった。

「綺麗だな」
「そっすね」

 景色に感動を覚えるのは、いったいいつ以来だろうか? 思い出せない辺り、もうずいぶんと昔のことのようだ。そもそも最近の自分は景色を眺める余裕もなかった。いつも何かに追い詰められていて、それを凌ぐことに必死だった気がする。
 岩泉が携帯電話で景色を写真に撮っている。京谷も撮りたかったけれど、携帯電話もカメラも持っていなかった。ならばせめて目に焼き付けておこうと、紅蓮色の海をじっと眺める。

「賢太郎」

 ふいに岩泉が自分を呼んだ。

「一緒に撮ろうぜ。お前と写真撮ったことってまだなかっただろ?」
「言われてみれば……。でも恥ずいっすよ」
「誰も見てねえから大丈夫だよ」

 写真を撮られるのは昔から苦手だった。笑顔が上手く作れなくていつも変な顔になっていたからだ。でも今日は撮られてもいいと思った。きっと岩泉と写真を撮るなんて、これが最初で最後になる。思い出の一つとして形に残しておくなら、写真以外に方法はないだろう。
 隣に並ぶと、岩泉に肩を引き寄せられる。イチャイチャしている男女を横目で見ながら、よくバカップルだなんて馬鹿にしていたけれど、自分たちも大概だ。……と言ってもカップルではないが。

「ちゃんと笑えよ」
「そう言われても、作り笑いなんてオレできないっすよ」
「じゃあこうしてやる」

 不意打ちのくすぐり。油断していた京谷は「うひゃあ」と世にも情けない声を零してしまう。その隙にシャッターボタンを押されたようだった。

「卑怯っすよ!」
「なにが卑怯なもんかよ。作り笑いができねえお前のためにやってやったんだろうが」
「やるならやるって言ってからやってください!」
「言ったらお前ガードするだろうが。ほら、見てみろ。いい感じに笑ってるだろ?」

 ディスプレイの中の自分は、さっきの声に負けないくらい情けない顔をしている。けれどその隣の岩泉は心底楽しそうに笑っていた。この瞬間に彼も幸せを感じていてくれたのかもしれないと思うと、少し嬉しくなる。

「すげえ情けねえ顔してる……」
「情けなくなんかねえよ。俺は可愛いと思うぜ?」
「可愛くなんかねえっすよ。でも、一さんも楽しそうに笑ってるな。一さんは笑うと優しそうに見える」
「その言い方だと、普段が優しくなさそうに見えるってことか?」
「そんなこと言ってないでしょ! 普段は……普通に、カッコイイと思います」
「いきなりデレんなよ!」

 こんなやりとり、あと何回できるだろうか? 京谷に残された時間はきっと少ない。それこそ明日終わるのかもしれないし、そうかと思えば一年くらい大丈夫なのかもしれない。……いや、さすがに一年はないか。
 海を眺めながら、この間のスペイン旅行の話をふと思い出す。岩泉が一緒に行ってくれると言った、なんとかファミリア。今からこの海を泳いで行けば、死ぬまでに見ることができるだろうか?
「この海泳いで行ったら、いつかはスペインに着くっすかね?」
「着く前に疲れて溺れるか、流されるか、サメに食われるだろうな」
「筏でも駄目っすか?」
「途中で絶対沈むだろ。あと食料が尽きて餓死するな」
「でも何年か前に観た映画……トラと海を漂流する話なんすけど、筏で何百日も生き抜いてたっすよ?」
「それはフィクションだろうが! つーか、俺らは普通に飛行機で行けるだろ。なんでそんな無謀な手段でスペインに行こうとしてんだよ」

 飛行機に乗ったことなんてないけれど、きっとあれは予約とかしないと乗れないものなんだろう。だからすぐには出発できないし、金だって相当かかるはずだ。

「……なんか、長い旅してみたくて」
「まあ、気持ちはわからねえでもねえけどな。筏は無理でも、船でゆっくり旅するってのもおもしろいかもな」

 本当に行けたらいいのに。頭の中で、船の甲板で海を眺める自分たち二人の姿を思い浮かべながら、京谷はワクワクすると同時に切なくなった。

「マジでスペイン行きてえな……」
「なんでそんな寂しそうな顔するんだ?」
「……今すぐ行きてえと思って。でも行けねえし……」
「少し我慢しろよ。今度俺が絶対連れてってやるから、そんな顔すんな」
「ホントに行けるんっすかね?」
「行けるに決まってんだろ。二人で行って、サグラダ・ファミリア観て、写真も滅茶苦茶撮って、アルバムとか作っちゃおうぜ」

 楽しそうに笑う、岩泉の横顔。でもそんな楽しい未来は、自分たちには――少なくとも京谷には訪れない。夢は夢で終わる。でも今だって十分楽しくて幸せだから、それでいいんだ。
 ただ、最後の自分の願いはここで叶えておこう。高校生の頃に京谷の胸の中に生まれ、今までずっとそこに存在し続けた温かな気持ち。きっと今の岩泉の中にも同じものがあるはずだと信じて、解き放つ決意を固める。

「一さん」

 名前を呼ぶと、なんだ、と言って岩泉はこちらを向いた。

「一さんが好きです。男らしくて、でも優しくて、料理が上手くて……一さんの全部が好きです」

 この人が、二十四年間という人生の中で唯一愛した人。一番愛した人。何よりも大切で、自分のすべてを懸けてでも守りたいと思えた、たった一人の想い人だ。

「俺も賢太郎が好きだよ」

 返ってきた言葉は、京谷の内耳に滑り込んで胸の中にあった想いと絡み合う。死ぬ前にその言葉が聞けてよかった。これ以上に嬉しいことなんて、きっと他にない。

「でもまさか、先に言われちまうとは思わなかったな」

 岩泉は少しだけ悔しそうな顔をした。だけどすぐに笑顔になって、京谷の頭をわしゃわしゃと撫でてくる。

「付き合うか?」

 はい、と京谷は即答した。自分の最大級の願いであり、一つの大きな夢でもあったそれが叶った瞬間だった。











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