X.

 いつもより胸の痛みがひどかった。痛み止めを飲んでもあまり効き目がなく、京谷はしばらくソファーの上で一人苦しんでいた。
 岩泉が仕事に出ていてよかった。こんなところを見られでもしたら、あの人はきっとすぐに自分を病院に担ぎ込むだろう。そんな迷惑はかけたくない。
 そろそろ自分の身体も限界なのかもしれないと、いつも以上の痛みと苦しみにそう自覚させられる。覚悟はしていた。けれどそれが間近に迫ってくると、なんとなく恐いような気になってしまう。
 結局痛みは昼過ぎまで続き、それが少しだけ落ち着いたところで京谷は自分の荷物をまとめた。
 もうここにいるわけにはいかない。ここにいれば自分はあの人の重荷になってしまうだろう。それは嫌だったし、ここにいればいるほど治療を続けなかったことを後悔してしまう。
 出て行く前に、京谷は部屋の中を見渡した。ここにはたくさんの幸せが詰まっている。毎日ここで岩泉と食事をして、ソファーの上で身を寄せ合って、いろんなことを話して……。約一カ月の共同生活。楽しかった。本当に、楽しかった。
 ふと京谷の目に留まったのは、棚の上に置かれた冊子だ。近づいてそれを手に取る。スペイン旅行のパンフレット。岩泉が必ず連れて行くと言ってくれた、約束の場所だ。けれどその約束は結局果たされずに終わってしまう。二人で行きたかった。このなんとかファミリアを実際に見て、二人ですげえななんて話しながら、写真を撮る。そんな未来を自分が実際に体験できないのは残念だが、そこはもう悔やんだって仕方がない。
 最後に岩泉に何か伝えておきたかった。とても世話になったし、やはり感謝の気持ちはちゃんと言い残しておかなければならない気がした。
 京谷は今日の広告を一枚抜き取り、その隅のほうを破る。白紙になっているほうにシャーペンでメッセージを書き込んでいく。

“一さんへ
 いろいろ世話になりました
 一さんが作る飯すげえうまかったです
 一さんといっしょにいたことは死んでも忘れません
 幸せになってください”

 シンプルだが、これでいい。長ったらしくしようと思うときっと言い訳とか要らないことを書いてしまう。
 京谷はその紙切れをスペイン旅行のパンフレットに挟み、岩泉の部屋を出た。鍵を閉め、その鍵を郵便受けの中に落とす。これでもう自分はこの部屋に入れない。
 行く場所はなんとなく決めていた。西之森駅近くの公園。人気のない寂れた公園で、色褪せた遊具が余計に寂しさを感じさせる。岩泉のアパートからそんなに離れているわけではないが、生活圏内からははずれていた。彼が自分を捜したとしても、きっとすぐには見つからないだろう。
 公園の隅には小さな林があり、そこを抜けるとトタンでできた小屋のようなものがある。人ひとりがやっと入れるほどの広さで、京谷はそこに寝袋を敷いて横になった。

 昼間の内はまだよかったが、夕方になるとやはり寒さが気になり始めた。夜には凍えるようなそれに変わり、京谷はあるだけの衣類と毛布を身体に巻き付けて暖をとる。それらとともに引っ張り出した物をリュックの中に収めていると、一枚の紙切れが宙を舞った。電話番号のメモだ。岩泉の名前と、彼の携帯電話の番号が記されている。
 京谷はそれを手の中に優しく握った。彼との最後の繋がりに、なんとなく触れていたかった。
 ふいに寂しさが込み上げてくる。アパートに帰って、あの人の顔を見たい衝動に駆られる。だけど駄目だ。もう迷惑はかけたくないし、せっかく覚悟を決めたのに、顔を見ればもっと生きたいと思ってしまうだろう。
 ポロリと、涙が零れた。冷え切った肌を伝うそれは温かく、それがあの人への愛情の証なんだと京谷は思った。

(そういや、前もこんなふうに泣いたことあったな……)

 あれは確か岩泉の卒業式の日のことだ。式が終わり、体育館裏で岩泉と少しだけ話したあと、京谷は教室の彼の席に座った。彼がいなくなってしまう寂しさに耐え切れなくて、そこで夕方になるまで泣いていたのを今もよく覚えている。
 あのときの自分に教えてやりたい。お前は数年後に彼と再会できるのだと。一緒に住むことができて、最後には恋人同士になれるのだと。幸せな未来があるから、たとえ病気になっても今度こそ諦めずに治療してほしい。

「一さんっ……」

 苗字じゃなくて、下の名前で呼ぶことだってできるんだ。一緒に風呂に入るといつも髪を洗ってくれる。寝るときはいつもギュッと抱きしめてくれる。そんな幸せが今にはあった。
 岩泉が作ってくれた料理も、この手に触れた身体の感触も、ひた向きな優しさも、温かい思い出も、全部、全部忘れない。ずっと、ずっと好きだ。だから――
(どうか、幸せになってください……)

 たとえ彼の隣に自分以外の人が寄り添うことになるのだとしても、幸せになってほしかった。笑って生きていてほしかった。それが京谷の、最後の願いだった。


 ◆◆◆


『――なれないよ』

 声が聞こえた気がした。聞き覚えのある声だ。低くて男らしい声。でもあの人の声とは違う。

『彼は、幸せになんかなれないよ』

 今度ははっきりと聞こえた。言葉を理解すると同時に、京谷の意識は一気に覚醒する。
 そこは水の中だった。といっても呼吸は普通にできるし、冷たさも感じないが、深い海の底のような場所に京谷は浮かんでいた。頭上にはわずかに光が見える。たぶん太陽の光なのだろう。

「――やあ。目覚めはどうだい?」

 さっき聞こえたのと同じ声がそう呼びかけてくる。声のしたほうを振り向くと、一人の青年の姿がそこにはあった。爽やかさを感じさせる短髪に、男らしくて精悍な顔立ち。見るからに好青年といった出で立ちの彼は、京谷が知る人物の一人だった。

「大地さん……?」

 岩泉の同僚であり、京谷とも一緒にバレーをしたことのある澤村が、そこに立っていた。

「ああ、確かそんな名前だったね、この人」

 澤村は笑う。けれどその笑顔は京谷の知っている彼の笑顔とは違う。いつもは人を安心させるような優しい笑顔をするのに、今彼の顔に浮かぶのはシニカルなそれだ。

「……大地さんじゃねえのか?」
「そういうことになる。君がこの世で二番目に信頼する人間の姿を借りさせてもらったよ。知ってる人間のほうが安心するかと思って」
「……それなら一さんの姿で出て来いよ」

 澤村のことは人として好きだけれど、やはり一番逢いたいのは岩泉だ。自分が心から愛したあの人の顔をもう一度見たい。

「それは駄目だよ。ここで彼の姿を見せたら、きっと君はすべてを諦めてしまう」
「何言ってるんだ? つーか、大地さんじゃなかったらお前は誰なんだ?」
「僕はね、君たちが神様とか天使とか呼んでる類の存在なのだよ」
「死んじまった人間はこんなメルヘンな世界に連れて来られちまうのか……」
「メルヘンでもなんでも、今僕が君の目の前にいるのは事実だからね。夢見てるわけでもないから。試しに頬っぺた抓ってみたら? 普通に痛いはずだよ」

 確かに抓ると痛いし、頬に触れた手の感触もはっきりとわかる。

「……で、そのメルヘンな存在がオレになんの用だよ? ひょっとして今から天国と地獄どっちに行くかお前が決めんのか?」
「それに近いとは思う。でも君が行くのは天国か地獄じゃなくて、単純に死後の世界か現世のどっちかだな〜。ここはその玄関口みたいなところだよ」
「現世って……元の世界に戻ることもできるのか?」
「一応ね。ただみんながみんな戻れるわけじゃないし、戻れる権利を得たとしてもいくつか試練を乗り越えなければならない。君はたまたま僕のあみだくじに当たって現世に戻る権利を得たんだ」
「現世に戻ったら、オレはまたオレとして生きられるのか?」
「もちろん。死ぬことが確定してしまう前の君に戻ることができるよ。ただそれがどれくらい前になっちゃうかはわからないけどね。赤ん坊まで戻っちゃうことはないみたいだけど、小学生くらいだったら今まであったかな。ちなみに今君が持ってる記憶はちゃんと継承される。文字どおり、人生をやり直せるわけだ」

 人生をやり直せる。その言葉に京谷は強く魅かれるが、本当にそんなことが赦されるのだろうかとすぐに思い留まった。
 死ぬことが確定する前の自分に戻れるということは、病気で死ぬことを回避できるということだ。つまり彼といたあの幸せな日々を続けさせることができる。叶えることのできなかったスペイン旅行も行くことができるのかもしれない。
 だけど卑怯じゃないだろうか? 死が確定する前ということは、きっと岩泉と恋人同士になる前まで戻るのだろう。いや、きっと再会するよりも前か、あるいはもっと前まで戻るのかもしれない。記憶を継承できるということは、彼が自分を好きになってくれることも知っている。知っていてアプローチするのはなんだか白々しいというか、卑怯な気がしてならない。
 それにその道が自分にとって幸せであっても、岩泉にとっても同じであるとは限らない。優しさや温かさをたくさんくれたあの人に、自分はいったい何ができていただろうか? ……いや、何もできていない。自分が彼に与えられるものなんて、何もない気がする。
 他の誰かのほうが岩泉を幸せにできるのではないだろうか? もっと彼にふさわしい人がいるのではないだろうか? 悔しいけれど、そう思えて仕方なかった。

「何を迷ってるんだい?」

 澤村の姿をした神だか天使だかが、そう訊いてくる。

「オレは……あの人を幸せにできない」
「どうして?」
「オレには何もねえ。何も持ってねえんだよ。あの人にあげられるものなんて、なんも……」

 逢いたいという気持ちを押し殺して、京谷は嘆くようにそう零した。

「そんなことはない」

 だが澤村は京谷の言葉をすぐに否定する。

「彼は君がそばにいてくれるだけで幸せだったんだ。何も持っていなくても、何もできなくても、君が生きてくれさえすればそれでよかった」
「そんなの嘘だっ……。オレは自分勝手で、優しくもなくて、仕事もすぐにクビになるしアパートだって追い出されるようなやつだ。そんなやつがあの人のそばにいていいわけがねえんだよ」
「それは君の勝手な思い込みだ。君が死んで彼がどれだけ悲しんだか知ってるかい? 毎日泣いて、気力もなくして、ただただ一日一日を消化しているよ」
「悲しいのは最初だけだ。すぐに忘れて、違うやつを見つける」
「もし新しい恋人を見つけたとしても、彼はもう幸せにはなれないよ。だって彼にとって君は幸せの欠片だ。幸せって一つのパズルみたいなもので、全部がそろわないと感じることはできないんだよ。一瞬の幸せはあったとしても、彼にとっての一番に幸せはもう訪れない。それでも君は彼のいる世界に帰らないって言うのかい?」

 昔、一度だけ岩泉が泣いていたのを見たことがある。あれは最後に岩泉と出た春高予選のときのことだ。準決勝で惜敗して、彼は悔し涙を流していた。京谷が見ていられないほどに哀れな泣き方だった。あんなふうに今も自分の部屋で泣いているのだろうか? 京谷のことを思い出して、悲しみに暮れているのだろうか?
 澤村は、岩泉が幸せになることはないと言った。もし本当にそうなのだとしたら、自分は一刻も早く元の世界に戻るべきだ。戻って、岩泉のそばにいてあげるべきだろう。――いや、彼のそばにいたいのは自分のほうだ。優しくて温かなあの場所にもう一度戻って、叶えられなかった二人の夢を今度こそ叶えたい。スペインに行ってなんとかファミリアを見るんだ。

「一さんっ」

 逢いたい気持ちが割れそうなくらい膨れ上がる。本当に戻れるのなら戻りたい。あの人に逢いたい。彼の存在は京谷にとっての幸せの欠片でもある。一つだけじゃなくて、きっとたくさんの欠片を持っているんだ。二人でその欠片を分け合って、互いの中にある大きな幸せのパズルを完成させたい。

「本当に戻れるんだよな?」

 訊ねると、澤村は迷いなく頷いた。

「行ってあげて。君たちは幸せになるべきだ。次にここに来るのは、ちゃんと人生を全うしてからだよ。それとさっきも言ったけど、現世に戻るにはいくつかの試練を乗り越えないといけない。それとはとても辛くて、苦しいものだ。途中で諦めたくなるかもしれない。それでも行くかい?」
「せっかくチャンス掴んだのに、それをふいにするわけにいかねえだろ。それにオレはやっぱ一さんに逢いてえよ。たとえ天国に行けていい思いができるんだとしても、そこに一さんがいなけりゃ意味ねえんだ。辛かろうがなんだろうが、その試練とやらに挑んでみる」
「わかったよ。じゃあ行っておいで。君の後ろにあるその扉を開けば、僕の言った試練が始まる。それを乗り越えれば現世に戻れる」

 澤村の視線を辿って後ろを振り返ると、大きな扉が聳え立つようにして待ち構えていた。京谷はその扉に触れる。冷たい石の感触だ。一つ深呼吸をしたあとに、それを一気に押し開けた。











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