Y.

 時間は岩泉の心を置き去りにして、容赦なく流れていく。その時間の中に自分自身が少しずつ溶け、ゆっくりと死んでいくような感覚がしていた。
 最愛の恋人、京谷を失ってから三週間が経とうとしていた。空虚な三週間だった。朝起きて仕事に行き、仕事が終わるとアパートに帰ってぼうっとする。そして寝る前になると必ず京谷のことを思い出して、眠りに就くまで泣く。この繰り返しだった。
 あの日岩泉の胸に開いた大きな穴は、三週間経っても少しも塞がらなかった。そこから大切な思い出が抜け出ていく気がして、早く治さなければと焦る。けれどどうすれば治るのか全然わからなかった。
この失恋は、今まで経験してきたただの失恋とは違う。岩泉が愛した人は、この世界のどこにもいないのだ。どこかでばったり再会することも、恋人じゃなくてただの友達として時々電話をすることも、もうどんなこともできなくなってしまった。
 明日は仕事が休みだ。正直今は仕事をしているほうが楽だった。忙しくしていたほうが、京谷のことを考えなくて済む。
 ぼうっとテレビを観ているうちに、番組が切り替わって深夜に差しかかったことに気がついた。リビングの置時計はこの間壊れてしまったから、代わりに携帯電話で時刻を確認する。もう日付が塗り替わっていた。別に眠くはないけれど、そろそろベッドに入ろうかと岩泉はソファーから立ち上がる。――インターホンの音がしたのはそのときだ。

(こんな時間に誰だ?)

 人の家を訪ねてくるにはもうずいぶんと非常識な時間だ。けれど出ないわけにもいかず、岩泉はさっさと玄関に向かう。
 開いたドアの向こうに立っていたのは、仕事の同僚の澤村だった。目が合うと澤村は笑む。どこかシニカルさを漂わせるその笑顔に、岩泉はなぜだか違和感を覚えた。

「こんばんは」
「大地か。こんな時間にどうしたよ? つーか来るならメールか電話しろよ」
「ごめん。ちょっと大事な用を思い出してさ。上がらせてもらってもいいかな?」
「別に構わねえけど……」

 大事な用とはなんだろうか? こんな時間にわざわざ訪ねて来るくらいだから、余程のことなんだろう。とりあえず彼をリビングに通して、岩泉はインスタントのコーヒーを振る舞ってやる。

「で、用ってなんだよ? 大したことなかったらそのコーヒー代払わせるぞ」

 ダイニングの椅子に腰を下ろし、ソファーに座った澤村にそう投げかけた。

「とても大事なことだよ。君の人生に関わるような、大事なこと」
「なんだよ、それ。つーか、なんかお前喋り方おかしくねえか?」
「ああ、ごめん。僕はこの澤村大地って人が普段どんな喋り方をしているのか知らないんだ。君の記憶の中から二番目に信頼している人を探して、身体を借りさせてもらってる」
「何言ってんだ、お前……。もしかしてこんな時間にわざわざ人をからかいに来たのかよ? どうかしてる」

 澤村の言っていることはおかしいというか、よくわからない。からかわれているようにしか思えなかった。

「からかってなんかないよ。今言ったように、僕は澤村大地じゃない」

 確かに喋り口調も一人称も普段の澤村とは違うし、笑い方もやはり変だ。澤村はもっと優しく笑う。しかし、だからと言って今の言葉が信じられるはずがなかった。

「大地じゃなけりゃ、お前はいったい誰なんだ? 双子の弟とか言うつもりか?」
「僕はね、君たちが神様とか天使とか呼んでいる存在だよ」
「お前の頭はいつからそんなメルヘンになったんだ」
「京谷賢太郎と同じこと言うんだね」

 澤村の口からいきなり飛び出した彼の名前に、岩泉は一瞬ドキリとする。

「賢太郎がなんだって?」
「だから、彼が君と同じことを言ったんだよ。僕のことをメルヘンだって。そうそう、彼もね、二番目に信頼する人間がこの澤村大地だったんだ。君たちってすごく気が合うみたいだね」
「賢太郎といつそんな話したんだよ?」
「え〜と、五十二時間くらい前かな」
「はっ?」

 五十二時間――二日と少し前のことだ。当然京谷はもうとっくに生きていない。話なんてできるはずがなかった。

「おい大地、いい加減にしねえと怒るぞ。そういうからかいはよくねえ。俺が賢太郎のことでどんだけ落ち込んでるか、お前なら知ってるだろ」
「知ってるよ。寝る前に毎日泣いているのも知ってる。スペイン旅行、行きたかったんだよね?」
「……なんでそれを知ってるんだ?」

 毎日泣いているのもそうだが、スペイン旅行の話は誰にもしていない。ひょっとして京谷が生きているときに話したのかと思ったが、もしそうならいつも彼のそばにいた自分が知らないはずがない。

「全部知ってるよ。京谷賢太郎がサグラダ・ファミリアに興味を持ったこと。二人で温泉に行った帰りに海を観たこと。そこで恋人になったこと」

 それは全部、岩泉と京谷の二人しか知らない思い出のはずだ。澤村が知っているはずがない。じゃあ本当に目の前にいる男は、澤村とは別人――神様とか天使なんだろうか? 完全に信じるにはあと一歩足りない。

「なんか他に証明できるもんねえのか? お前が変な存在だってものを」
「う〜ん……そうだな。じゃあ今から君の頭の中を覗かせてもらう。何か漢字を一文字思い浮かべてみて。それを当てるから」
「わかった」

 言われたとおりに頭の中に漢字を一文字思い浮かべる。一瞬だけ京谷の下の名前の頭文字が浮かんだが、それでは頭の中を覗けなくても当てられそうな気がしてすぐに引っ込めた。代わりに浮かべたのは“牛”という文字だ。

「今一瞬だけ“賢”を思い浮かべたあと、“牛”に切り替えたよね?」

 背中に鳥肌が立つような感覚がした。岩泉の今の一連の思考を、目の前の男は正確に当てたのだ。偶然で当てられるわけがない。彼が神だか天使だという話は嘘ではないのかもしれない。

「……お前がそういう存在なんだとして、なんで俺の前に出てきたんだ?」
「“彼”が戻って来るからだよ」

“彼”と言われて思いつくのは一人しかいない。

「賢太郎のことだよな? 戻ってくるってどういうことだ?」
「京谷賢太郎は試練を乗り越えた。だからこっちに戻ってくることができる」
「試練?」
「ああ、それはこっちの話。とにかく彼はこの世界に戻ってくる。正確には彼が死ぬ前――もっと言えば、彼の死が確定する前まで時間を戻すんだけどね。生前の記憶を持ったまま、そこから人生をやり直せる。病気を治すことだってできるんだ」
「それは本当なのか?」
「そんな嘘をつきにわざわざこんなところまで来ないよ。ただね、彼が戻って来ても今ここにいる君は変わらない。もう一度京谷賢太郎に逢えるのはここにいる君じゃなくて、彼が戻った時間軸にいる君だから」
「過去が変われば未来も変わるんじゃねえのかよ?」
「単純に考えればそうなんだけどね。でも違うんだよ。僕が時間を巻き戻した時点で世界は二つになる。京谷賢太郎が死んでしまった世界と、そうじゃない世界。この二つが交わることはないんだ」
「じゃああいつが戻って来ても、俺は今のままってことかよ。そんなこと俺に教えてどうしたいんだ? 余計に落ち込ませて楽しんでんのか?」

 戻ってくると言われて、岩泉は希望を持ってしまった。もう一度逢えるかもしれないと期待してしまった。そうじゃないと言うなら、この話は聞きたくなかった。結局逢えないなら、虚しいだけだ。

「僕にそんな趣味はないよ。僕は……君たちを幸せにしたいんだ。だからいろいろ努力した。どうすれば今ここにいる君と彼を引き合わせられるんだろうって。考えて、考えて……禁則を犯すことにしたよ」
「禁則?」
「君ごと時間を巻き戻す。今の記憶を継承したまま過去に送り込む。現世の人間の時間を巻き戻すのは禁則とされているけど、あえてそれを破るよ」
「破って大丈夫なもんなのか?」
「いや、大丈夫じゃないな。僕にはきっとつらーい罰が与えられるだろうね。でもいいんだ。君たちが幸せになるなら、それでいい」
「なんでそこまでしてくれるんだ? 俺たちとお前は赤の他人だろ?」
「僕も昔同じ経験をしたから」

 澤村の顔に悲しさと寂しさをない交ぜにしたような、感傷的な表情が浮かぶ。

「僕も大事な人を亡くしたんだ。付き合い始めて半年くらい経った頃かな。その人は病気になって、余命一年だって宣告された。慌てて籍を入れたけど結局半年で死んじゃったんだ。死ねばその人に逢えるかもしれないと思って自殺したけど、結局逢えないまま今に至るよ。京谷賢太郎を拾い上げたのは、泣いている君が昔の僕に似ていると思ったからだ。君の心は壊れかけている。僕みたいに自殺しちゃうほど弱くはないけど、でもきっと未来に対して前向きになれないんだろう」

 澤村の言うとおりだ。未来には何も期待していない。目を閉じたときに浮かんでくるのはいつも京谷がいた過去の光景ばかりで、これ以上に幸せな未来なんてきっと訪れないのだろうと諦めていた。

「本当に戻れるのか? もう一度賢太郎に逢えるのか?」

 戻れるのなら戻りたい。逢えるのなら逢いたい。そんな感情が身体中から溢れ出そうになるのを、岩泉はぎりぎりのところで抑えた。

「けどお前はそれでいいのか? 辛い罰があるんだろ?」

 いいよ、と澤村は優しく微笑んだ。

「罰の辛さに耐えることよりも、君たちが幸せになってくれることのほうが僕にとっては大事だ。少しだけ気持ちが楽になる気がする」
「じゃあ、お前の力を貸してくれ。俺をもう一度賢太郎に逢わせてくれ」
「わかった。でもどこまで戻るかは僕にも見当がつかないんだ。京谷賢太郎の死が確定する前ってのは間違いないけど、ひょっとしたら二人が出逢う前まで戻るかもしれないし、子どもの頃まで戻っちゃう可能性もある」
「二人とも記憶を持ったまま戻るんだろ? なら大丈夫だろ」
「そうだね。二人はきっとまた出逢える。出逢って、幸せになるんだ。――よし、じゃあそろそろやるね。気をつけて」
「……ありがとな。お前が賢太郎のこと拾ってくれてよかったよ」
「どういたしまして。そんで行ってらっしゃい。二人が幸せになれることを祈ってるよ」

 澤村が岩泉から視線をはずした。そして右手を肩の高さまで持ち上げたかと思うと、人差し指でどこか指し示す。それを辿ると棚の上の壊れた置時計に行き着いた。何が始まるのだろう。そもそもどうやって時間を飛ぶというのだろう。期待と不安を胸にその時計をじっと見つめていると、分針が逆回転し始めた。最初は日が暮れるのではないかと思うほどゆっくりだったが、徐々に速さを増し、ついには残像だけがかろうじて見えるほどのスピードになる。
 次の瞬間、岩泉の身体を、唐突に強烈な重力が襲った。辺りが暗闇に包まれる。長い長い穴を落ちていくようだった。意識が薄れてしまいそうになるほど苦しかったが、恐くはなかった。だってここを抜ければ、きっと彼に逢える。自分にとっての幸せがそこにあるんだ。

「賢太郎!」

 岩泉は彼の名前を呼んだ。その声は暗闇の中にこだまして、何度も何度も響き渡る。
 やがて下のほうに光が見えてきた。離れていても、そこから溢れる温かさが全身に伝わってくる。もうすぐだ。もうすぐ逢える。そう信じて光に手を伸ばした瞬間――辺りを包んでいた闇が穢れのない純白に塗り替わった。











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