Z.

 すぐ近くに光が見えた。なんの光だろうかと顔を動かした瞬間、ぼんやりとしていた意識が唐突に覚醒した。
 冷たい空気が岩泉の顔に触れる。この冷たさは部屋の中ではない。外にいるのだ。どこなんだと辺りを見回して、さっきの光がコンビニの明かりだということに気がついた。
 岩泉のアパートから歩いて五分ほどの場所にあるコンビニだ。手には下げた袋にはそこで買ったであろうチキンといちごミルクが入っている。

(今はいつだ……?)

 時間が巻き戻された。気づいたらこんなところに突っ立っていたということは、きっとそれが実行されたのだろう。何か確認する方法は……と考えているうちに、ジーンズのポケットの中の携帯電話の存在に気がついた。
 ボタンをプッシュすると、ディスプレイに時刻が浮かび上がる。23時08分。それはわかった。ではいったいいつの23時08分なのか……焦燥感に駆られながらも、スケジュール帳で確認できることを思い出してアプリを開いた。

 20××年、1月26日

 さっきまで岩泉がいた時間軸の約一カ月半前だ。思っていたほど戻っていない。けれどそれでもまだ、京谷の死は確定していないのだろう。
 確か京谷と再会したのも一月の末だったはずだ。給料日直後だったからなんとなく覚えている。

(いや、待てよ……)

 記憶を振り返りながら、ふと自分は滅多にコンビニに行かないことを思い出す。けれどこの日は思いつきで――確かチキンが食べたくなってここまで来たのだ。歩道の至るところが凍結していて、何度か滑りそうになりながら帰路を歩き、そして通りがかったゴミ捨て場で――
「賢太郎!」

 そうだ。京谷と再会したのはこの日だ。あのあと、この時間にコンビニに行ってよかったと、自分の思いつきに感謝したのをはっきりと覚えている。ということは今ゴミ捨て場に行けば酔って寝転がっている京谷に逢えるはずだ。
 岩泉は弾かれたように駆け出した。本当に時間が戻ったのなら、別に走らなくても京谷に逢える。けれど一刻も早く逢いたくて、路面が滑りやすくなっているのも気にせずとにかく走った。
 走りながら、いろんな昔話を思い出した。京谷といろんなスポーツで対決したこと。いつも岩泉が勝って、京谷は悔しそうな顔で睨んでいた。いつの日からか京谷は岩泉に対して敵対心を見せなくなり、むしろ懐いたように感じていた。
 卒業式の日に、京谷だけを呼び出して話をしたのも覚えている。エースの座を託す。確かそれが言いたかったのだった。
 あのときの岩泉には、京谷と恋人になる未来があるなんて想像もつかなかった。それはきっと京谷も同じだろう。けれどいろんな運命の悪戯が重なって、自分たちは再会を果たし、そして結ばれることになった。身に余るほどに幸せを手にすることができた。だけどその幸せは岩泉の手の中から零れ落ちて、京谷のいない空虚な部屋だけが残ってしまった。
 その幸せをもう一度掴む。今度はしっかりと掴んで、もう離さない。
 ゴミ捨て場が近づいてきた。そこの十字路を曲がったらすぐだ。絶対に京谷はそこにいる。いないはずがない。

『一さんが作る飯すげえうまかったです』

(ならまた飽きるくらいに作ってやるよ!)

『一さんといっしょにいたことは死んでも忘れません』

(忘れなくてもお前がいなきゃ意味ねえんだよ!)

『幸せになってください』

(何が幸せになれだ! お前がいねえと俺は幸せになれねえし、お前だってそうだろ? だから今度は二人で……)

 十字路を曲がった先に、外灯に照らされたゴミ捨て場が見えた。どうかいてくれよ。全力でそう願いながら、岩泉は最後の力を振り絞ってそこまで走る。そして――
 空のゴミかごの向こうに、外灯の光を受けて輝く短い金髪の頭を見つけた。

「賢太郎っ」

 三週間ぶりに見る顔。けれど岩泉には、もう何十年も逢わなかったように感じられた。本当に自分は戻って来たのだ。京谷が生きている、この時間に。
 ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間のこと、岩泉はあることに気づいてまた不安になる。

(酒の臭いがしねえ……)

 あの日の京谷は、泥酔していてかなり酒臭かった。その臭いを嗅ぐだけでこちらまで酔ってしまうのではないかと思ったほどだ。それが今は全然臭わない。ひょっとして……どこかで何かが変わってしまったんだろうか?
 岩泉はおそるおそる京谷の頬に手を伸ばした。霊安室で触れた京谷の頬は、氷のように冷たかった。それと同じ感触がしたらどうしようか……不安になりながらも、確かめずにはいられなかった。
 柔らかい肌の感触が指に触れる。それは温かくて、岩泉のよく知っている彼の頬だった。手首を彼の吐息が掠める。ちゃんと生きている。生きていて、今目の前にいる。

「賢太郎」

 呼びかけながら、岩泉は彼の肩を優しく揺すった。すると閉じられていた瞳がゆっくりと開いていく。

「一さん……」

 そして、思い出の中でしか聞くことのできなかったその声が、岩泉の名前を呼んだ。

「その呼び方するってことは、ちゃんと記憶があるんだな」
「……オレ、ちゃんと戻って来れたんすか?」
「戻って来たよ。俺のところに戻って来てくれた。もう一回逢うことができた」
「あれ、でもなんで一さんがオレのこと……。今はいつなんっすか?」
「俺がお前を拾って帰った日だな。お節介な誰かさんが、俺も一緒に時間を巻き戻してくれたんだよ。だから俺はお前と付き合った記憶もあるし、お前が死んじまったのも体験した。お前が約一カ月一緒に住んで、恋人にもなったあの俺だよ」

 京谷と一緒に生きることの幸せを知った自分。そして、京谷を失うことの悲しみと絶望を知った自分。今ここにいる自分は、そんな自分だ。

「それとも、なんも覚えてねえ俺のほうがよかったか? 覚えてねえのをいいことに他の男に乗り換えるつもりかよ?」
「オレがそんなこと思うわけねえ。だってオレは一さんのことが死ぬほど好きだ。ずっと、ずっと好きで……ずっと逢いたかった人なんすから」
「ならいい。――俺も賢太郎が好きだ。いなくなったら毎日泣いちまうくらい、好きなんだ。今度は絶対死なせねえ。だからもう一回、始めよう」

 目の前の京谷の顔が、溢れ出した涙で見えなくなる。けれどそれは昨日まで流していた涙とは違う。嬉しさが溶け込んだ、温かくて優しい涙だ。京谷にはこんな自分なんて情けなくて見せたくなかったが、堪えることはできなかった。
 岩泉は京谷の頭をぐしゃぐしゃに撫でたあと、薄い背中を強く抱きしめた。もう触れることができないと思っていたその温もりを、腕の中に閉じ込める。

「賢太郎、お帰り」
「ただいま……」

 岩泉と同様に、答える京谷の声も涙に震えていた。

「ただいま、一さんっ……」











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