季節外れの雪が降った。 けれど新幹線の窓の外に、さっきまで見ていた雪景色はもうどこにもない。同じ国のはずなのに、地方が変わるとこうも違うものなのかと、流れていく景色をぼうっと眺めながら思った。 野山の自然溢れる景色が徐々に発展した都市の街並みに変わっていき、それを通り過ぎるとまた田舎の田園風景が広がる。頂上付近を白く染めた山はいくつか見られたものの、やはり町や道路まで雪が積もっているような景色はもうどこにも見られなかった。 (もうすぐ逢える……) 窓の外の景色を眺めながら、澤村大地は恋人の顔を思い浮かべていた。 彼と顔を合わせるのは約一カ月半ぶりのことだ。大地は地元の企業に就職、彼のほうは遠くの大学に進学したことで、容易に逢うことは叶わなくなった。覚悟はしていたけれど、それは想像していたよりもずっと寂しくて、もう何度彼の元へアポもなしに駆けつけようと思ったかわからない。 そんな衝動や独りの寂しさをなんとか乗り越え、そして今日やっと彼と逢える。電話で何度か会話は交わしたけれど、やっぱり顔を見て話をしたかったし、何より彼の身体に触れたくて堪らなかった。 大地の降りる駅に間もなく着くことがアナウンスされた。本当にもうすぐなんだと実感しながら、大きなリュックを背負ってドアの近くまで移動する。 逢ったらまず何を言おう? ロマンチックな台詞なんて自分には似合わないし、彼のほうもそんなものは求めていないだろうから、普通に「久しぶり」でいいだろうか? でもどうせならそんなありきたりな台詞じゃなくて、もっと気の利いたことを言いたい。 そんなことを考えている間に新幹線が駅のホームに到着する。ドアが開いて、前の人に続いて大地も外に出た。もう少し、あとほんの少しで彼に逢える――。 最初で最後の雪景色 01. 再会 水着に着替え、軽くシャワーを浴びてから足を踏み入れたプールサイドは、真冬とあってか屋内でも少し肌寒かった。案外水の中のほうが温かいかもしれない。そう思いながら足を浸けたプールの水は、大地の期待通り温めの湯と言っていいくらいの温度だった。そのまま身体も温水に浸け、しばらくぼうっと辺りを見渡す。 小さな町の温水プールで、なおかつ今日が平日ということもあってか、泳いでいる人間はかなり少ない。大地を入れても六人しかいなかった。あとは監視員が一人いるだけで、泳いでいる人間の立てる水音ばかりが場内に響き渡っている。 正直、泳ぐのはあまり得意じゃない。そんな大地がなぜ温水プールに来たかというと、単純に運動のためである。元々体質的に太りやすく、今までは部活のおかげでなんとか体型維持できていたのが、引退した途端に目に見えて体重が増えるようになった。これは拙いと思って一番効果的な運動をネットで調べた結果、水泳に行き着いたわけである。 (それにしても、年寄ばっかだな……) ついでに目の保養にでもなればと思ったが、残念ながら若い男は一人もいない。そこは仕方ないと諦めて、とりあえずひと泳ぎしようとゴーグルを着ける。 泳ぎの中では唯一まともにできる平泳ぎで大地は泳ぎ始めた。部活を引退してから体力が落ちたのか、一往復しただけでも結構疲れる。短い休憩を入れながら何往復か続けていると、今度は足の付け根の辺りが痛くなってきて、一度プールサイドに腰かけて足首を解し直すことにした。 新たな人影が男子更衣室から出てきたのはそのときだった。背は大地よりも少し低いくらいだろうか。坊主頭の下の顔は若く、どこかあどけなさが抜け切れていない感じだ。しかし身体はそこそこ引き締まっていて、一目で何かスポーツをしている身体だとわかった。 (あれ? あの顔どっかで見たことあるような……) 自分とあまり歳の変わらなさそうな青年の登場に嬉しくなりながら、けれど彼が大地の記憶の中の誰かと一致する気がして、その顔をまじまじと見つめながら思い当たる人物の名前を探す。 「あっ!」 大地の近くまで来た彼が、大地に気づいて驚いたような顔をした。その反応はやっぱり知っている人間だ。 「烏野の主将じゃん! いや、“元”ってことになるのか?」 顔に似合った高い声が話しかけてきた。聞き覚えのある声だ。確かずっと前に、試合中にネットの向こうから聞こえてきた覚えがある。絶対に負けられない一戦の中、その声は誰よりもよく響いていた。彼への声援もすごく、その中で彼の名前が何度も呼ばれていたのをはっきりと思い出した。名前は―― 「中島くん……だったよな?」 中島猛。春高予選で当たった和久谷南高校の主将でエースだった男だ。 「名前覚えててくれたんだな!」 「うん。応援がすごかったから覚えてた。というかそっちも俺の顔覚えててくれたんだな」 「だって俺らと試合してるときに怪我してたじゃん。よく覚えてるぜ」 「そういうこともあったな〜」 あの試合ももうずいぶんと昔のことのように思う。それはきっとあれから数え切れないほどの試合を経験したからだ。 「名前なんだっけ?」 「澤村大地だよ。こんなところで会うなんてびっくりだな。家はこの辺なの?」 「いや、家はちょっと離れてるぜ。近くに温水プールなくってさ、バスでここに通ってんの。澤村はこの辺?」 「俺はチャリで三十分くらいだよ。通ってるってことはもう何度か来てるんだ?」 「部活引退してから週二くらいで来てる」 「そうなんだ。俺は今日来たの数年ぶりだよ。人が少なくてびっくりした」 「だよなー。まあ、少ないほうが自由にやれるからいいけどな」 とりあえず泳いでくる、と言って中島はロープで仕切られたコースの中に入っていく。そして大地と同じ平泳ぎで泳ぎ始めた。 身体が柔らかいのか、中島の泳ぎは見惚れるほどにしなやかで、コンパクトな動作なのにスピードがある。バレーだけじゃなくて泳ぎも上手いのかと感心しながら、大地はしばらく彼の泳ぎを眺めていた。 (にしても、目の保養ができてよかったな……) 苦手な泳ぎを続ける以上は、やはり何かご褒美がないと辛いものがある。中島は顔もなかなかカッコいいし、身体だって引き締まっていて鑑賞するのに文句はない。十分に目の保養になると言えた。 「あれ? 澤村は泳がないのか?」 五往復くらいしたところで、中島がロープをくぐって大地のそばに戻って来た。ゴーグルをはずすとクリッとした瞳で大地を見やり、首を傾げる。その仕草がちょっと可愛かった。 「なんか足首痛くなっちゃってさ。様子見てるとこ」 「あー、それ俺も最初の頃はなってたぜ。何回か通ってるうちにいつの間にかならなくなってたけど。泳ぐのきつかったらウォーキングだけでもしとくといいよ。あれって結構運動になるらしいぜ」 「そうなんだ。じゃあ今日はそうしようかな」 「俺も一緒に歩いていい?」 「もちろん」 人のいない遊泳エリアを、大地たちは縁に沿って歩いた。抵抗のある水の中ではただ歩くのにも筋肉を使っている感覚がある。中島の言うとおり、確かに結構運動になりそうだ。 中島は人懐っこく、まともに会話するのは初めての大地にも気さくに話しかけてきた。話題はやはり主にバレーのことで、大地たちが出場した春高には特に関心があるようだった。 話をしながら歩いているうちにもう何周したかわからなくなり、気づけばここに来てから二時間以上も経っていた。中島もそれに気づいて「そろそろ上がる」と言った。 「ごめんな、俺のほうに付き合ってもらっちゃって……」 「全然いいって。俺、澤村と話したかったからさ。なあ、風呂も入って帰るだろ?」 「うん」 「じゃあ行こうぜ」 風呂に入るということは、今度はその水着の中も見られるということだ。やばい、理性は大丈夫だろうかと少し心配になりながら、けれど見たいという欲求には逆らうことはできそうになかった。 水着のままプール用の更衣室から浴場用の更衣室に移動し、そこでちゃっちゃと水着を脱ぐ。中島も大地に背を向けて水着を脱ぎ、布一枚を隔てて隠されていた尻が露わになった。 色白のそれは全体的に面積は小さめで、見惚れるほどに綺麗な形をしている。適度な膨らみは触らなくても揉み心地がよさそうだとわかるほどに美しい。まさに絵になるような――あるいは情欲を掻き立てるような、百点満点の尻だ。 (あんま見てると勃っちゃいそうだな……) 自分の股間に熱が集まり始めたのに気づいて、大地は慌てて中島の尻から目を逸らした。 「澤村、シャンプーとかは持って来てねえの?」 「あ、うん。ここって置いてなかったっけ?」 「初めて来たときから置いてなかったぜ。ないなら俺の貸してやるよ」 「ありがとう。助かるよ」 浴場はプールのおまけとあってそれほど広くはないものの、先客がいなくて自分たち二人しかいない状況では十分すぎるほどだ。少ないシャワーに並んで座り、中島のシャンプーやボディーソープを借りて全身を洗う。まとわりついていたベタツキをようやく落とすことができてすっきりした。 「あ、背中擦ろうか?」 全身泡まみれになった中島に声をかけると、一瞬キョトンとした後に笑ってスポンジを差し出してきた。 「じゃあ、よろしく頼む」 スポンジを受け取り、大地は彼の背中を上のほうから丁寧に擦り始めた。 中島の背中は厚みこそないものの、筋肉のラインがくっきりと浮き出ていて綺麗だった。肩や腕も適度に筋肉をまとい、たくましさの中にしなやかさを併せ持った身体だと改めて思う。バレーをするにはそういう身体のほうが向いているのだと以前ネットで調べたときに書かれていた。 「澤村の背中も洗ってやるよ。ほら、あっち向いて」 「うん、よろしく」 スポンジを返すと中島はそれで大地の背中を擦ってくれた。さっき大地がやったように、上から丁寧に洗っていく。 「澤村っていい身体してるよな〜。羨ましいよ」 「でも部活引退した途端にちょっとポニョり始めたんだよな〜。だから今日からここに来ることにしたんだ」 「部活には顔出してねえの?」 「たまに出してるけど、最近結構練習試合してるみたいだから入れなくって……」 「あー、うちも今そんな感じだぜ。だから俺もここに来てるんだけど。運動しねえと体力落ちるし、筋力も維持しないといけないしな」 中島は愛知の大学にバレーの推薦で引っ張られたらしく、三月末にはそちらに引っ越して大学の練習に参加するらしい。それまでにウエイトトレーニングはしっかりやっておきたいのだと、さっきプールでウォーキングしているときに言っていた。 「よし、終わり!」 「ありがとう」 あとは各々で残りを洗い、早く済んだ大地は先に湯船に浸かって中島を待つ。中島は前も隠さずにシャワーのほうから歩いてきた。胸筋はそれほどでもないが、腹筋はきっかり割れていて、全体を言葉にするなら細マッチョと言った身体だ。 下生えは薄く、その下の性器はどちらかというと小ぶりだが、皮はちゃんと剥けているようだった。もっとじっくり観察したかったが、あまり見つめていると尻を目にしたときと同様に興奮してしまいそうだったから、すぐに目を逸らしてやり過ごす。 「はあ〜。温かいな〜」 「だな。しかも貸切り状態だし、ゆっくりできて最高」 「ホントそれな。ここ穴場だと思うぜ」 結局二人が上がるまで人が来ることはなく、思う存分に寛ぐことができた。といっても浴槽は内風呂と露天の一つずつしかなかったが、家の風呂では足を伸ばせない大地はそれだけでも満足だった。 着替えてから外に出ると、辺りはすっかり暗くなっている。風呂上がりであまり寒さは感じないが、きっと気温もグッと下がっていることだろう。 「中島はバスだっけ?」 「おう。つっても駅で一回乗り換えねえといけないけどな」 「山田駅?」 「そうそう、山田駅」 「俺通り道だから、そこまで俺のチャリに乗っけてこうか?」 「マジで!? すげえ助かる!」 二人分の荷物をなんとか籠の中に押し込み、中島が自転車の後輪の上の荷台に乗ってくる。ズン、と一気に重くなったが、その分筋トレになりそうだと思うことにして大地はペダルを漕ぎ始めた。 「中島、できれば肩持つんじゃなくて腹に抱きつくみたいにしてくれないか? そのほうが漕ぎやすい」 「そうか? じゃあそうするな」 中島の両腕が大地の腹に回ってくる。後ろから抱きつかれるような態勢にちょっと興奮したが、いつまでも感触を楽しめるような余裕はなく、懸命にペダルを回して前に進んだ。 「なんかこれじゃあカップルみたいだな」 「暗いから周りからはよく見えないだろうし、この際気にしない」 「ま、そうだな。疲れたら言えよ? 代わってやるから」 「大丈夫っ」 駐車場の出口が登り坂になっていていきなり挫けそうだったが、そこを越えるとしばらく緩やかな下りが続いており、それから駅までは平坦な道だったおかげで中島と交代することなく漕ぎ続けることができた。 十五分ほどで駅に到着し、中島が礼を言いながら自転車から降りる。 なんとなく辺りを見回すと、田舎の駅なだけあって人気はほとんどなかった。けれど周りの飲食店はちゃんと営業しているようだった。 「なあ、バスってまだ何本か来るのか?」 「あと三本くらいはあったと思う」 「もし急いでなかったら一緒に晩飯食べないか? 俺腹減って死にそう」 「あー、俺も結構減ってるわ。じゃあ今日は食って帰ろっかな。家に電話するからちょっと待って」 バッグからスマホを取り出す中島を見ながら、大地は「よし」と心の中でガッツポーズした。 腹が減っているのは本当だ。けれど家に帰れば母親の作った夕食が待っている。それでもここで中島を食事に誘ったのは、彼ともっと一緒にいたかったからだ。この駅だって本当は通り道なんかじゃなくて、むしろ少し遠回りだった。 中島は大地の好みのタイプだ。顔は可愛さも併せ持った男前だし、身体だって引き締まっていて見所がある。性格も話しやすくて感じもいいし、魅かれる要素しかなかった。 「お待たせ。で、どこ行くんだ?」 「ラーメンでいい? そこのラーメン結構美味いんだ」 「あれ? 澤村って痩せるために水泳始めたんじゃなかったっけ? そんなやつがラーメンなんか食っちゃ駄目だろ」 「ぎょ、餃子は我慢するから……」 大地がそう言うと、中島は何かが弾けたように思いっ切り笑った。 「澤村ってなんか可愛いのな」 「言われても嬉しくないけど……」 「ごめん。でも今のはマジで可愛かった。食いしん坊かよ。もっとどしっとした主将肌って印象だったから、そのギャップがおもしろかった」 可愛さなら中島のほうが断然上だろう。その言葉を大地は飲み込んで、自転車を駅の駐輪場に置きに行く。 ラーメン屋の暖簾をくぐると先客が何人かいたものの、それほど多くはなかった。空いていたテーブル席に座り、ブルゾンを脱ぐ。大地も中島も早々に何を頼むか決め、注文する。大地は醤油ラーメン、中島は豚骨ラーメンの餃子セットだ。 客が少ないおかげか注文したものは思っていたよりも早く出てきて、さっそく箸を付ける。冷えた身体に温かいラーメンが沁みた。 「マジで美味いな!」 「だろ? この辺じゃ間違いなく一番だよ」 「いっつもそこにラーメン屋あるな〜くらいにしか思ってなかったけど、こんなに美味いんだったら毎回食いたいぜ」 中島も気に入ってくれたようで少しホッとした。幸せそうに食べる様子は思わず見惚れてしまうくらいに可愛らしい。決して小動物のようなちまちました食べ方ではなく、むしろ男らしく豪快にいっているが、それでも大地の目には可愛く映った。 「なんだよ、俺のことじっと見て」 中島が大地の視線に気づいて箸を止めた。 「あ、もしかして餃子が欲しいのか?」 「いや……まあ欲しいのは欲しいけど」 「わかった。じゃあ特別に一個やるよ」 「いいよ! それはさすがに悪いし、太っちゃうから……」 「一個くらいなら大丈夫だって。それにここまで頑張ってチャリ漕いだじゃん。その分痩せてるはずだし、それのご褒美ってことでいいんじゃね?」 「う〜ん……ならもらっちゃおうかな」 「ほら」 中島が箸で餃子を一個摘まみ、大地の前に差し出してくる。たぶん中島本人にとってはなんてことないことなんだろうが、大地にしてみればずいぶんと大胆な行為だ。けれどそれで困ることなどないし、むしろ中島の「あーん」なら喜んでむしゃぶりつきたいくらいだったから、躊躇いもなく大地は餃子にかぶりついた。 (中島と間接キス……) 体育会系の部活をしていれば間接キスなんて珍しいことでもないけれど、相手が好みの男なだけになんだか意識してしまう。これじゃまるで乙女だな。そう自嘲しながら餃子の味と間接キスを噛み締めた。 食べ終わってからは中島のバスの時間まで店の中にいさせてもらった。その間にお互いの連絡先を交換し、世間話をしているうちにバスの時間になる。 バス停に向かうと、ちょうどバスが来たところだった。地元の人間ながらこのバスには一度も乗ったことがない。こぢんまりとはしているものの、こんな田舎では十分すぎるほどの大きさだろう。現に今は誰も乗っていないようだった。 「俺、次は金曜日に行くよ。よかったら澤村も一緒に行こうぜ」 「うん、絶対行くよ。時間が合いそうならここまで迎えに来ようか?」 「それは助かる! バスとバスの時間が微妙に合わないから、今までちょっと時間の無駄してたんだよな〜」 「時間はまたLINEとかで教えてくれよ」 「わかった! じゃあまたな!」 元気よく手を振ってから中島はバスに乗り込んでいく。間もなくバスは動き始め、通り際に窓から中島がもう一度手を振っていた。大地もそれに振り返し、遠くなっていくバスを最後まで見送った。 バスが完全に見えなくなると、唐突に取り残されたような気持ちが湧き上がってきた。胸が少し苦しいような感覚と焦燥感にも似たものに苛まれながら、トボトボと駐輪場に歩いていく。そして自分の自転車のハンドルを握った瞬間、ああ、これは寂しさなんだと気がついた。今別れたばかりなのに、もう中島に会いたくなっている。 特定の一人に心を掴まれ、揺さぶられるこの感覚。身体の奥の奥のほうにポッと明かりが灯り、そこからほのかな温かさが全身に伝わっていく。それを言葉で表すなら、“恋”ほど的確なものはない。――大地は中島猛に恋していた。 |