05. 距離


 次のプールの日の朝、猛から風邪を引いて行けそうにないというメッセージが届いた。会えないことにがっかりしながらも気遣うメッセージを返信し、その日は一人でプールに行った。その次の日もまだ風邪が治らないからと連絡があり、心配しながらも特に猛を疑うようなことはしなかった。しかし、週が明けてからのプールの日、今度は用事があるからと断られ、そこで初めて大地は猛が自分に会いたくないから来ないのではないかと不安に思い始めた。
 避けられるようなことをした覚えは……ありすぎて困るほどだ。やはりあのときの抜き合いがよくなかったのだと、軽率だった過去の自分の行いを悔やむ。あのとき猛は何も言わなかったけれど、ふと冷静になったとき、それがおかしなことだときっと気づいたのだ。
 疑いは猛がその次のプールの日も来なかったことから確信に変わった。やはり避けられている。その事実をまざまざと突き付けられた。

(もう俺とは会ってくれないのかな……)

 もう話すことも、笑い合うこともできないのだろうか? せっかくこんなに親密になれたのに、すべてがゼロに戻ってしまった。けれどそれは全部自分の責任だ。欲望を抑えられなかった自分の。
 謝罪のメッセージを送ったほうがいいだろうかと思い立って、スマホのアプリを開く。文字を打ったり消したりするのを何度か繰り返したが、結局何も送ることができなかった。どれだけ誠心誠意を込めて謝っても、一度二人の間にできてしまった溝を埋めることはできないだろう。もしも猛が大地にまた会ってくれたとしても、今まで通りの二人というわけにはいかないはずだ。
 なんだか胸が苦しい。猛と過ごした楽しい時間が映画のように頭の中を流れ、それが心をひどく掻き乱す。少し期待してしまった分、感じた痛みも大きかった。泣きたいくらいの虚無感と苛立ちに襲われながら、大地は画面が真っ暗になったスマホを放り投げた。



 学校が終わってから、大地は電車に乗って二つ隣の町まで来ていた。駅を出てから五分ほど歩き、目的の本屋に到着する。大地の住む地区にも本屋があることにはあるのだが、老夫婦が経営しているような小さな書店で品ぞろえはあまりよくない。だからわざわざ少し離れたこの本屋まで来たのだ。
 欲しかった漫画はすぐに見つかった。在庫はたくさんあるようだったので、それはとりあえず置いておいて漫画コーナーを一通り物色することにする。
 陳列された本を眺めながら、頭の端で猛のことを考えていた。あれから猛からの連絡はなく、また、大地からもしていない。先々週までの親密さが嘘のように、今の二人の間には出会う前のような距離が生じていた。
 失恋は初めてじゃない。今までだって何度も誰かに片想いをしては、想いを伝えることもできずにひっそりと失恋していた。もちろんそれは胸が少し痛む程度には悲しかったし、恋が叶わないと知った瞬間はいつもショックだった。
 猛に対する失恋は今までのどんな失恋よりも重く、そして質の違う苦しみを感じている。顔を思い出すとなんだか泣きたくなってしまうような、あるいはどうしようもなく苛立って目に映るものすべてを壊してしまいたくなるような、そんな感覚がずっと大地の中にあった。
 欲しかった本を買うだけじゃなくて、気を紛らわせるために本屋に来たはずなのに、気づけば猛のことばかり考えている。いつになったらこんな感覚から抜け出せるのだろうかと思いながら、大地は大仰に溜息をついた。

「――あっ、やっぱり澤村くんだ」

 誰何がかかったのはそのときだ。聞き覚えのあるそれに振り返れば、そこには愛想よく笑う美男子の顔あった。適度に中性的な要素を備えた顔立ちで、目鼻立ちははっきりしており、けれどしつこすぎない程度に収まっている。男にしてはやや長い髪の毛がその顔に似合っていた。

「及川!」

 久しぶりに会うライバル校の元主将の名前を大地は反射的に口にした。

「こんなところで会うなんて奇遇だね。買い物?」
「あ、うん。うちの近くってデカい本屋がなくってさ」

 そういえばここは及川の通う青葉城西高校から近かった。今までも何度か他の青城生を見かけたことはあるが、及川と出会うのは初めてだ。

「なんか思いつめたような顔してたけど、どうかしたの?」
「え、俺そんな顔してたか?」

 してたよ、と及川は苦笑する。

「それこそ今から人でも殺しに行くのかと思うくらいにね。何かあった?」
「いや、別に大したことじゃないんだ。ちょっと悩んでることがあるだけで……」
「そう? なんなら及川さんが相談に乗ろうか?」
「ありがとう。けどホントに大したことじゃないから大丈夫」

 さすがに及川に相談できることじゃないなと思いながら、彼の申し出を大地は丁重に断った。
 それからしばらく及川と立ち話をした。話題は先月大地たちが出場した春高バレーのことやこれからの進路のこと、他愛もない世間話をしているうちにあっという間に時間が過ぎていく。
 話しながら、やっぱり猛のことを及川に相談してみようかと大地は思い始めていた。及川は聞き上手だし、軽薄そうな見た目に反して、人の悩みを関係のない他人にベラベラ喋るようには思えなかった。けれどあんなことを相談されても、さすがの及川も困るんじゃないか? 言いたい気持ちとそうじゃない気持ちが大地の中でせめぎ合い、そうこうしているうちに及川が「そろそろ帰るね」と告げた。

「時間とっちゃってごめんね」
「あ、いや、今日は暇だったから別に大丈夫。それに及川と話せて楽しかった」
「そう? やだな〜、及川さん男にもモテちゃって大変だ〜」
「そこまで言ってないでしょうが……」

 じゃあね、と手を振って及川は身を翻した。

「及川!」

 そしてその彼を、大地はすぐに呼び止める。及川は不思議そうな顔で振り返った。

「やっぱり俺の悩み聞いてくれないか?」



「純粋無垢な好きな人を騙してエロいことをした!? 澤村くんって顔に似合わずケダモノなんだね……」
「身も蓋もない言い方するんじゃないよ! まあだいたい合ってるけど……」

 猛のことを話し終えたちょうどそのとき、注文していた飲み物が運ばれてくる。
さすがに立って話すことじゃないと思って、二人は場所を近くの喫茶店に移していた。

「つーか、俺がゲイってことには驚かないんだな」

 自分の性指向を打ち明けるのには迷いがあったが、どうせこの先及川と遭遇するような機会もないだろうし、秘密は守るという彼の言葉を信じて、大地はそれも告白していた。

「まあ、正直澤村くんってそっちのほうがしっくりくるからね。女の子とイチャイチャしてる姿のほうが想像できないよ」
「つまり見た目からしてゲイっぽいってことなのか?」
「いや、何も言われなきゃそうは思わないけど、言われると納得って感じ」

 及川は目の前のコーヒーを一口啜る。

「それより、そんなケダモノめいたことしたならさっさと謝ったら? 迷うまでもなくまずそれでしょ」
「やっぱりそうだよな……」
「それかそこまでやっちゃったなら、いっそ最後に告っちゃえば? それで玉砕したら諦めつくんじゃない?」
「簡単に言うなよな。俺の心臓はそこまで強くないぞ」
「でもこのまま会わずに終わるなら一緒のことじゃない? ならいっそ告ってすっきりしたほうがいいと俺は思うけどね。それとも澤村くんはただ友達に戻りたいだけなの?」
「それは……」
「友達に戻ったとして、これから先その子に彼女とかできちゃったりするの、耐えられる? もしそれが難しいなら告って終わりにするべきだよ。まあ、あくまで一意見だけどね」

 及川の言っていることはかなり的を射ていると思うし、大方正しいとも言える。確かにこのまま猛との関係が終わってしまうなら、最後に想いを伝えて派手に散るべきだ。
 逆にただの友達として彼のそばにいるという選択肢は、大地自身が苦しむことになるのが目に見えている。それに最初に思ったように、完全に元に戻ることはやはり難しい。一度できてしまった溝を修復するには、相当な時間がかかるはずだ。

「とりあえずは謝るところからだよ。その後のことは相手の反応を見てから考える感じでもいいんじゃない?」
「う〜ん……そうだな」
「今からメッセージ送ってみたら? なんだったら及川さんが文章校正してあげるし」
「わかった」

 大地はスマホを取り出し、さっそく猛に送るメッセージを打ち込んでみる。それを及川に見せて修正し、また見せて修正するというのを何度か繰り返して、ようやく納得のいく謝罪のメッセージが完成する。といっても本当に納得させなければならない相手は自分じゃなくて猛だが、まずは自分を納得させなければ相手が納得することなんてあり得ない。
 送信ボタンを押す瞬間、吐き気を覚えるくらい緊張した。押した後もそれはしばらく続いて、自分を落ち着かせるように紅茶を飲んだ。

「あ、既読になった」
「じゃあブロックはされてないってことだね。ま、今からされるなんてこともあるかもしれないけど」
「恐いこと言うなよ……」
「冗談だよ」

 あとは成るように成るだけだし、さっきの選択肢のどちらを選ぶか考えるのもそれからだ。

「これからどうなるかはわからないけど、とりあえず及川に話してみてよかったよ。少しだけ楽になった気がする。ありがとな」
「俺も澤村くんと話せてよかったよ。君がケダモノってのはホントびっくりしたけど」
「まだそれ言うか……。及川ってさ、失恋したことあるのか?」
「そりゃあるよ。モテる分失う恋も多いのさ」
「フラれたこともあった?」
「まあ、あるね。むしろフラれることのほうが多かったかな。俺って結構バレー馬鹿だったから、そっちばっか優先しちゃって彼女のこと疎かにして愛想尽かされたり。あとは叶わなかった片想いもあったりするよ」
「及川みたいなイケメンでも落とせない女子っているんだな……」
「俺のことイケメンって言ってくれるの? はっ、もしかして及川さん澤村君にロックオンされてる!?」
「それは絶対ないから安心していいよ」
「そんなきっぱりはっきり否定しなくてもいいじゃん……」

 及川は確かにイケメンだが、どちらかというと中性的でゲイ受けはしないし、大地もタイプではなかった。

「第一印象は確かに顔で決まるかもしれないけど、付き合っていく上で大事になっていくのってフィーリングだからね。まあ、澤村くんの場合はそれ以前に性別の壁があるけど」
「そればっかりはもうどうにもならないけどな……」
「でももし俺が男もイケる口だったら、澤村くんのこと好きになってたと思うよ。澤村くんって地味だけどよく見れば男前だし、優しくて誠実そうだから。ひょっとしたら例の子ともまさかの展開があるかもしれないよ?」
「今の状況からそんな展開まったく想像できないけどな……。けどありがとう。そういうふうに言ってもらえると救われた気持ちになるよ」
「惚れた?」
「あー、惚れた惚れた」
「うわ、全然感情こもってないし……」

 この片想いはこれからどこに進んでいくのかわからない。メッセージを送ったけれど、それでも何も変わらないのかもしれないし、ひょっとしたら何かが変わるのかもしれない。けれど大地はもう、何も期待しないことにした。ただ行き場をなくした片想いにケジメをつける。それだけだった。







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