06. もう一度 風呂から上がり、自室に戻った大地は、デスクに置いたスマホの通知ランプが点滅していることに気がついた。アプリのお知らせでも入ったのだろうかと、半ば作業的な気持ちになりながらディスプレイを点けてみると、それはメッセージの受信を報せるものだった。 (もしかして猛から!?) 一瞬にして緊張が最高潮まで高まり、震えそうになる指でアプリを起動する。そしてそれは予想どおり、猛からのメッセージだった。 “大地はなんも悪くねえよ 俺がなんか一人でおかしくなっちゃって…… けど逃げてばっかじゃ駄目だから、ちゃんと大地に直接話そうと思う 明日時間あったら会えない?” ちゃんと返事があったことに大地はとりあえず安堵した。内容も大地を否定するようなものじゃないし、猛には大地に会う意思があるようだ。 (けどおかしくなったってどういうことなんだ?) 猛が何を思い、どうしようとしているのかはわからない。とにかく会ってみないことには何も進まないだろうと、明日の待ち合わせの時間と場所をやり取りしながら決める。 久しぶりに猛に会えるのは嬉しいけれど、その反面で何を言われるのか不安で堪らない。考えても仕方のないことだと自分に言い聞かせてからベッドに入ったけれど、その夜はなかなか眠気が舞い降りて来なかった。結局大地が眠りに就いたのは明け方頃で、目が覚めても全然寝た気がしなかった。 待ち合わせ場所となった駅前のバス停に、大地は約束の時間の二十分前に着いていた。相変わらず心は落ち着かないままだ。不安と緊張がずっと胸を取り巻いていて、意味もなくその辺をウロウロしてしまう。 会ったら何を言うおうか、どういう顔で会おうかなんて考えているうちに、向こうの交差点からバスが姿を現した。きっと猛を乗せたバスだ。緊張は更に高まり、心臓が破裂してしまうんじゃないかと思うほどにドキドキする。 やがてバスが大地の目の前で止まる。窓越しに猛の姿が見えた。相変わらずの坊主頭に幼さの残る顔立ち。やっぱり会えて嬉しいなと、温かな気持ちが胸の奥のほうから溢れ出てくる感覚がした。 「久しぶり……」 バスから降りてきた猛が、ぎこちない笑みとともに声をかけてくる。大地もどういう表情をしていいかわからないままに、「うん」とだけ返した。 「急にごめんな。あと……プールサボってごめん」 「あ、うん……いや、謝らなきゃいけないことがあるのは俺のほうだけど」 「あのことは謝んなくていいって! 大地はなんも悪くないし、俺別に嫌だったわけじゃないんだぜ? プールサボったのだって大地が嫌いになったとかそういうんじゃねえから」 「そうなのか?」 そうなの、と猛は頷いた。 「とりあえずどっか二人きりでゆっくり話せるとこに行きたい。あと寒くねえとこ」 「う〜ん……じゃあ俺の部屋に来る? 他にいい場所思いつかないから」 「オッケー」 乗って来た自転車の後ろに猛を乗せ、大地はさっき走って来たばかりの道をまた戻る。 以前と同じように、猛は何も言わなくても大地の身体に抱きつくようにしてくる。まだ外は明るくて人目もあったけれど、大地も猛も何も言わずにそのままでいた。背中に触れる温もりをなんだか懐かしく感じながら、やっぱり彼のことが好きなんだと、舞い上がる心が改めて正直な気持ちを教えてくれる。 家に着くと猛には先に部屋に行ってもらって、大地は二人分のお茶を準備してから向かった。ローテーブルの上にそれを置き、ベッドに腰かけた猛の隣に大地も座る。 「お茶ありがとな。しかも温かいやつ! 外寒かったから沁みるぜ」 「俺はチャリ漕いだからまだ暑い」 「お前いつも漕いでくれるよな。たまには代わってもいいんだぜ?」 「ちょうどいい筋トレになるからいいんだよ」 理由はそれだけじゃない。大地はいつだって、猛の前では頼れる男でいたかった。だから登り坂で疲れても弱音を吐かなかったし、プールで泳ぎ疲れていても代わってもらおうとは思わなかった。 「それで、俺に話したいことっていうのは?」 なんとなく猛はいつまで経っても本題を切り出さない気がして、思い切って大地から訊ねてみる。途端に猛は酸っぱいのと甘いのを同時に味わったかのような、変な表情になって目を逸らした。 「は、話す前にさ、大地に訊きたいことあるんだ」 「何?」 「前に俺に彼女いるかって訊いてきたけど、そういう大地はどうなんだ? そういう相手いるのか?」 そういう話をしたことは、今も鮮明に覚えている。あれは初めて相互オナニーをする直前のことだった。 「彼女はいないよ。でも好きな人はいる」 「そ、そっか……。そりゃ、そういうやつの一人くらいいるよな。どんな人?」 「明るくて可愛くて、真面目で一生懸命な人」 まさに今目の前にその相手がいるのだが、猛はそんなことに気づく様子もなく、「そっか……」となぜだか寂しげに呟いた。 「けどどうしてそんなこと訊くんだよ?」 「俺さ……この間、誰かのこと好きになったりはまだって言っただろ? だからそれがどういう感覚なのかわかんないし、今もよくわかんねえんだ。けど、もしかしたら好きなのかもって思う相手ができた」 猛の口から放たれた言葉に、大地は思わず手に持ったマグカップを落としそうになった。 「気づいたらいつもそいつのこと考えてて、もっと一緒にいたいとか、手繋いだりしたいとか、それ以上のこととかしたいって……他の人に対して感じたことのないこと、そいつにだけ感じてるんだ」 言葉が鋭い刃物になって、大地の胸を容赦なく刺し貫く。そして開いた傷口から大地の大事な何かが流れ出てしまう。そんな感覚がした。 「なあ、これってそいつのこと好きってことなのかな? 大地はわかるか?」 わかるも何も、それは大地が毎日のように猛に対して抱いている感情だ。もっと一緒にいたい、手を繋ぎたい、それ以上のことをしたい。本当にそのままのことを大地は猛に思っているし、今だってそうだ。 肯定してやらなければいけないのに、大地はすぐに言葉を返すことができなかった。だってここで自分が頷いてしまったら、恋心を自覚した猛はその相手に告白して、恋人同士になってしまうかもしれない。大地の好きな猛を他の誰かにとられてしまうかもしれない。 やっぱりこの恋に、大地の望むようなまさかの展開なんてなかった。突然始まったかと思うと、冬が過ぎ去るよりも早く幕を閉じる。あまりにも呆気ない、短い恋だった。 「……それはその人のこと好きってことで間違いないよ。俺もそんなふうに人を好きなったことあるからさ」 むしろお前に対してその感情を抱いている。もういっそ言ってしまえば楽になれるかもしれないのに、あとの言葉は喉に引っかかったまま出てこない。 「やっぱそうなのか〜。なんかすげえ変な感じっつーか、いいのか悪いのかよくわかんねえ感情だな。けどそいつを好きになる前よりも、好きになった後のほうがなんか人生楽しい気がしてる」 もう聞きたくない。自分ではない誰かのことなんか、猛の口から聞きたくない。耳を塞いでしまいたかったけれど、それを大地は堪えて親身なふりを続けた。 「けど相手があれなんだよな……。あのさ大地、俺自分がすっげえおかしいこと言ってるってわかってるよ。けどそう思っちまったもんはどうしようもねえし、それは全然恥じることでもねえって思ってる」 「そんなに特殊な相手なのか?」 「特殊っていうか……う〜ん……」 「相手がどんな人でも、好きになることはおかしいことじゃないと思うよ」 「……じゃあ俺の好きな相手が大地だって言っても、おかしいとは思わねえか?」 「えっ……」 次はどんな言葉が大地を苦しめるのだろうか? 覚悟を決めて耳を傾けたがしかし、鼓膜を震わせたのはあまりにも――あまりにも予想外な言葉だった。驚きで脳を揺さぶられるような錯覚に陥りながら、今のが聞き間違いじゃないことを確かめたくて、救いを求めるように猛の顔を凝視した。 「やっぱおかしいよな。大地ってどっからどう見たって男だし、俺も男で女になりたいなんて思ったことねえ。それでも大地に対してそういう気持ち持ってるんだ。一緒にいたい、手を繋ぎたい、キ、キスとかもしたいって……」 頭がなんだかクラクラする。でも猛を安心させるためにちゃんと言葉を返さなければと、軽く混乱した頭をなんとか落ち着かせる。 「……別におかしいことじゃないよ。さっき俺には好きな人がいるって言ったろ? その相手って男なんだ」 「えっ!?」 「むしろ猛のことなんだけど」 「ええっ!?」 心の底から驚いたと言わんばかりに目をぱちくりさせた猛は、オロオロと大地の顔を見てはやめたりするのを何度か繰り返し、開きっ放しになった口からは「えっ」ばかりが零れている。 一方の大地は衝撃がようやく収まってきて、遅れて胸がポカポカするような嬉しさが全身に満ちてきた。まさかの展開が本当に実現するなんて思いもしなかった。もしも神様が自分の願いを叶えてくれたというなら、毎日でも賽銭を捧げたいくらいだ。 「その、つまり、俺らって両想いってこと……?」 「そういうこと。俺もびっくりだよ。絶対嫌われたと思ってたから」 「こんな優しくて一緒にいて楽しいやつ、嫌いになるわけないだろ? それに大地はやっぱカ、カッコいいと思う」 照れながらそう言う猛に愛おしさが溢れてきて、大地は衝動的に猛を抱きしめていた。勢い余ってそのままベッドに倒れ込み、泣きたくなるような嬉しさを噛み締めながら、ただひたすらに猛を抱きしめた。 「猛、マジですごく好きだよ。こんなに誰かのこと好きになったの初めてだ」 「俺なんか好きになること自体初めてなんだぞ。誰かに好きって言われるのも初めてだけど。それってこんなに、どうしようもねえくらい嬉しいもんなんだな」 大地だって想いが通じ合う嬉しさを知るのは初めてだ。いつだって大地の片想いはひっそりと始まって、そしてひっそりと幕を閉じていた。猛に対するそれだって同じように終わってしまうことを覚悟していたけれど、現実のそれはまるで夢のような幸福感をもたらしてくれる。 「猛、知ってたか? 俺たちってもう手繋いだことはあるんだよ」 「え、そうだっけ? あっ、お化け屋敷のとき!」 「そう。それ以上のことだってちょっとしちゃったしな」 「で、でもキスはしたことない」 「じゃあ今からしてみる?」 手を猛の頬に触れると、あどけなさの残る顔が一瞬にして赤く染まった。顔を近づけると嫌がるふうもなく、むしろ瞳を閉じて大地からのキスを受け入れようとしてくれる。 そういった一つ一つの仕草や反応を愛おしく思いながら、大地は猛の唇にそっと口づけた。一度離れ、魅かれ合うようにまた重なって、それを何度か繰り返しているうちにどちらともなく舌を挿入していた。 初めてだから、テクニックとかそういうものはよくわからない。わからないままに唇を押しつけ合い、必死に舌を絡め、隙間なく抱きしめ合いながら何十分とその行為に浸った。 |