07. 雪景色


 三月も終わりに近づき、春の訪れも少しずつだが予感させる日が続いていたが、その日は久しぶりに雪が積もった。
 大地は高校を卒業し、車の免許も無事に取得してあとは入社式を待つだけとなった。一方の猛も同じく高校を卒業し、明日にはもう愛知の大学近くのアパートに引っ越すことになっている。

「行きたくねえな〜」

 ちらちらと雪の舞い降りる道を並んで歩いていると、猛がふいに呟いた。

「大地と毎日会えなくなるなんて嫌すぎて死にそう」
「死ぬなよ。たまに会いに行くから、ちゃんと飯食って元気にしてろよ。それに電話だってできるわけだし」
「……なんか大地は余裕っぽいよな。俺なんか寂しくて今から泣きそうだってのに」
「俺だって寂しいに決まってるだろ。でもこればっかりは仕方ないよ」

 たとえ進路が決まるより早く恋人同士になっていたとしても、きっと二人の未来は今と変わらなかっただろう。大地としては目的もなく大学に通うわけにはいかなかったし、猛だって追いたい夢があって愛知の大学を選んだのだ。

「いっそ愛知の企業に転職して来れば? そしたら一緒に住むことだってできるかもだぜ?」
「簡単に言うなよな。第一、大学を卒業したら猛はまたどっか他所に行っちゃうかもしれないわけだろ? そのたびに転職なんて勘弁してくれよ」
「それもそうだな……」

 付き合い始めてから今日までの約一カ月の間、毎日のように二人は会っていた。いつも通っていた温水プールだけじゃなくて、いろんなところにデートに行ったし、セックスだって経験した。
 当たり前のように過ごしてきた二人での幸せな日々。それが明後日からは別々の離れた場所で生活していかなければならない。繋がりがなくなるわけじゃないし、恋人同士であることも変わらないけど、やっぱり顔を見られなくなるのはすごく寂しかった。
 ゆっくり歩いていても道は進んで行くもので、気づけばいつものバス停が目の前まで迫ってきている。こうしてここまで猛を見送るのも最後かもしれないと思うと、切ない気持ちに駆られた。

「着いちゃったな……」
「うん……」

 どちらも声に寂しさを滲ませ、それから感傷に浸るように黙ってしまう。もうすぐバスが来る時間だ。

「……なあ、今日やっぱ俺ん家泊まりに来ないか?」

 猛が泣き笑いのような表情になりながら、そう訊いてくる。

「明日見送りに来てくれるんだったら、いっそ俺ん家に泊まったほうが楽だろ?」
「今からか? 着替えとか持って来てないんだけど……」
「俺の貸すから大丈夫だって。サイズはちょっと小せえかもしんねえけど」
「いきなり行って親は何も言わないのか? それに今日は家族がお別れ会してくれるって言ってたじゃないか」
「一人増えたくらいで文句言うような人たちじゃねえよ。むしろ歓迎してくれると思うぜ? だからさ、ほら」
「う〜ん……わかった。じゃあこのまま泊まりに行かせてもらうよ」

 もっと一緒にいたいと思う気持ちはお互いに同じだ。ここで別れるよりも明日まで一緒にいられるなら、そっちのほうがいいに決まっている。
 大地が返事を返したところでちょうどバスが来て、猛と一緒に乗り込んだ。他に乗客はおらず、それをいいことにこっそりと手を繋いだ。

「雪が降るのもこの冬はこれが最後かな」

 窓の外の景色を見ながら、独りごちるように猛が呟いた。

「暖かい日もたまにあるし、もしかしたら最後かもな」
「愛知のほうはあんま雪降らねえらしいし、こんな景色見る機会も減るかもしんね」
「雪降らないなんて羨ましいな」
「けど降らなきゃ降らないでなんか寂しい気もするよ」
「年末年始はこっちに帰って来るんだろう?」
「そのつもりだけど、どうなるかまだ全然わかんねえ。もし俺が帰れなかったら大地が来てくれるか?」
「うん、もちろん。一緒に年越ししような」
「楽しみだな〜……ってまだだいぶ先だけど」

 遠距離になってしまうことに不安はたくさんあるけど、これからも恋人として付き合っていくことには楽しみなことがもっとたくさんある。その中で二人は互いのことをもっと深く知って、時にはぶつかり合って、それでもきっとずっと先まで恋人としていられるのだと信じている。
 繋ぎ合った手が温かくなってきた。この時間が永遠に続けばいいのにと、バスに揺られながら大地は願っていた。



 新幹線のホームには、猛を見送りに彼の家族とバレー部の元チームメイトたちが来てくれていた。知らない顔ばかりで浮いてしまいそうだったが、猛がずっとそばにいてくれたから、大地は一人にならずに済んでいた。
 けれどやはり元チームメイトたちからは二人の関係についての質問が相次ぎ、猛はプールで大地と知り合ったことを教えてやっていた。もちろん、恋人同士だということは秘密だ。大地だって友人や家族には言えない。

「そろそろ時間だな、猛。マジで頑張れよ。陰ながら応援してっから」

 元チームメイトの一人――とても同い年には見えない髭の強面が、猛の肩を叩いた。

「みんなも元気でな」

 猛はチームメイトたち一人一人と握手を交わし、全員終わると今度は家族と握手していた。最後に大地の前にやって来て、何度も握ったその手を他の人にしたように差し出してくる。そっと握ると、猛の温かい体温がじんわりと沁み込んできた。

「とりあえずあっち着いて荷物の整理が終わったら電話する」
「うん、わかった。ゴールデンウィークには逢いに行けると思うから、元気でいてくれよ」
「おう」

 手を握る時間は他の人の何倍も長かった。けれどやっぱりそれだけじゃ物足りなくて、猛を抱きしめたくてうずうずしてくる。ここは我慢だ。猛の家族や友人たちの前でイチャイチャするわけにはいかない。そう自分に言い聞かせたとき、握った手を猛が優しく引いた。身体がぶつかり合ったかと思うとそのまま猛が抱きついてきて、反射的に大地も彼の身体を抱きしめていた。

「た、猛!?」
「しばらくこういうことできないのかと思うとやっぱ寂しいから。マジで泣きそう」
「みんな見てるって!」
「言い訳は大地に任せるわ。ほら、新幹線来たからもう乗るな」

 ふっと身体が離れ、改めて目が合った猛は意地悪そうに笑った。そしてくるりと踵を返し、ホームに入って来た新幹線のほうへ歩いていく。
 猛がドアの向こうに入って間もなく、発車を報せるアナウンスとベルが鳴り響いた。ドアが音を立てながら、大地と猛の間に踏み越えられない仕切りをつくった。これでもう本当にしばらく触れ合うことはできない。
 寂しさが急にどっと押し寄せる。まるで世界でたった一人きりにされたような、あるいは途方もなく広い雪原に迷い込んでしまったかのようなそれに、大地は無性に泣きたくなった。それを懸命に堪えながら、視線だけはガラスの向こうの猛から外さない。しばらく逢えない分、今日は存分にその顔を見ておこう。そう決めていた。
 やがて新幹線がゆっくりと動き出す。一瞬だけ猛が泣きそうな顔をした。けれどすぐにとびきり明るい笑顔になって、元気に手を振ってくれた。
 猛はあっという間に見えなくなった。彼を乗せた新幹線もトンネルに入って見えなくなる。それでも大地はしばらくの間、猛の向かった先をじっと眺めていた。







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