※イナミを知らない方へ。
ネタバレになるので文字を透明にしますが、右クリックで読めます。
 イナミ=FF]−2のビサイドのイベントをエピソードコンプリートの場合のみ聞ける、ルールーとワッカの子どもの名前です

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 太陽は少したりとも姿を見せず、心を持たぬ闇が夜の世界を支配していた。
 何処からか水が岩を打ちつけるような音がしていた。それ以外に聞こえる音は一切ない。風も止まり、草木も動かず、時が止まってしまったかのような感覚に陥ってしまいそうだ。
 男はそんな世界を一人で歩いていた。
 漁師のこの男、普段は夕刻までに仕事を終えて帰宅しているのだが、今日は不運にも船の調子が悪かったせいで、家路を歩く今となってはすっかり日が暮れてしまっている。
 まだ人が出歩いていてもおかしくない時間帯ではあるがしかし、ここは彼しか知らない秘密の裏道、人気などあるはずがない。

 ――あいつ、心配してるだろうな……。

 歩きながら最愛の妻の顔を思い浮かべていた。
 帰宅していつも最初に見るのは妻の笑顔。仕事でくたくたのはずなのに、その笑顔を見ると疲れなど何処かへ吹っ飛んでいく。今日もその笑顔を見られると思うと、自然、歩くスピードが速くなった。

そのときである――。

――…ッ……。

 微かではあるが、確かに今物音がした。
 風は止まり、聞こえてくるのは水が岩を打ちつけるような音だけ――だとしたら今の音は?

 ――ガサガザ……ガサガサ……。

 まただ。
 草がざわめく音。そう判断できるくらい、今度ははっきりと聞き取ることができた。
 しかし、風が吹いていないのに何故草がざわめくのだ? 草むらに何かが潜んでいるのだろうか? 
魔物だろうか? だとしたら非常に拙い。武器も防具も、戦えるようなものを一切装備していない男に勝ち目はないだろう。
 ここは早いところ立ち去ったほうがいい。漁に使う小道具を背負い直し、男は小走りする。

 ――ガサガサ……ガサガサ……。

身近からまたあの音が聞こえた。
男は速く走る。

 ――ガサガサ……ガサガサ……。

 更に近くからまたあの音は聞こえた。
 男は更に速く走る。
「鬼ごっこ」まさにその言葉がふさわしい。正体不明の鬼に追いかけられ、捕まれば鬼になる――いや、この場合は鬼になるのではなく、無残な死体になってしまうだろう。運が悪ければ残骸さえも残らない。



 ――……。

 走って逃げているうちに、あの音が聞こえなくなっていた。
 男は肩で息をしながら、今来た道を振り返った。

 何もいない。

 周りに何かいる気配もない。きっと諦めてくれたのだろう。
 安堵して踵を返す。

 すると――そこに“それ”がいた。






 Heart






 T.不信

 夏の厳しい陽射しが、ビサイド島に凛とした空気を漂わせていた。
 南国の島なので暑いのは当然。それに燦々さんさんとした陽射しが加わるとなると、気温も耐え難いほど上昇してしまう。
 そんな日の午後、僕――名前はイナミ――は寺院の木陰で読書に没頭していた。
 僕は島の漁師育成学校に通う十四歳の何処にでもいそうな少年。父親譲りのオレンジ色に似た頭髪。燃え盛る炎のような赤い瞳は母親譲りだろう。とても筋肉体とは言い難い身体だが、十四歳にしてはなかなかがっしりしているほうだろう。
 今読んでいる本は、メイチェン著『スピラの歴史』というもので、この世界の1000年の歴史が細かく記されている。怨みや悔いの念を持って死んだ人間が魔物になってしまうということも、この本から学んだ。
 更に『召喚士』『祈り子』『シン』『エボンジュ』等の歴史的言葉もこの本を読んで初めて知ったものであった。
 僕にとってこの本は、夢と希望、そして驚きと感動を与えてくれる宝物だ。
 一番驚いたのは、シンを倒し、現在に永遠のナギ節をもたらした召喚士が身近にいる、ということである。その元召喚士である者が、僕が小さい頃から傍にいた人だったなんて――。

「――何読んでるの?」

 噂をすれば何とやら。見上げてみればその元召喚士の顔が。
 僕は驚きのあまりひっくり返ってしまった。

「ゆ、ユウナさんッ!? いきなり顔出さないでよ!!」

 彼女こそがシンを倒した大召喚士ユウナ。あれから十数年もの歳月が過ぎているという。
 時はいかなる状況においても流れるものである。そしてその十数年の時の流れの中、彼女は二人の子を授かり、今や立派な母親として日々頑張っている……らしい。

「ルールーが呼んでたよ。勉強もしないで何やってんの、って」

 僕の母はいつもそんな感じだ。読書に没頭しているときに限って勉強しろと怒気を込めて申し立ててくる。
 それとは対照的に、父――ワッカ――は、勉強は置いておいてブリッツの練習に励めと言い寄ってくる。
 最終的に勉強派の母とブリッツ派の父は喧嘩を始めてしまうという始末。まあ、強力な黒魔法を使える母に、素手の父が敵うわけがないのだが。
 喧嘩するほど仲が良いというか、喧嘩するほど母の魔法が激化するというか――とにかく、ある意味で平和だ。
 家で例の喧嘩を観覧した後、僕はとりあえず勉学に励んだ。ブリッツの練習なんかにいったら僕まで母の黒魔法を喰らわされかねない。
 そんな最中、顔見知りの村人があわただしい様子で家に飛び込んできた。

「ワッカ! 大変だ!」

 見た目同様、出てくる言葉までもが慌しさを感じさせる。

「村のやつが一人、魔物に殺された……」
「何だって!?」
 
 父さんは心底驚いているようだった。また、僕もとても驚いた。
 ビサイド島にはレベルの低い魔物ばかりが生息しており、そのどれもが戦闘能力に長けていない僕一人の力で倒すことができる。大人にとってはもっと簡単に倒せる相手かもしれない。だからこれまで村人が魔物に襲われるなんていう事件を聞いたのは、これが初めてだった。
 父さんとここに駆け込んできたおっちゃんは、すぐに現場に向かった。
 僕も母の反対を押し切って二人の後を追うことにした。


 島の北側に続く道、その一段下に草むらがあり、そこに大人たちが十数名ほど集まっていた。
 皆の表情はどんよりと曇り、更には声を上げて泣いている人もいる。事態は相当よろしくないようだ。
 陽が絶え間なく射し込んでいるにも関わらず、辺りにはどんよりと重い空気が流れている。
 僕は二メートルほどの段差を飛び越え、大人たちのいるところへ駆けた。瞬間、物凄い刺激臭――たとえるなら腐った生卵の臭い――が鼻に突き刺さった。初めて体験する凄まじい臭いに、僕は気を失いそうになった。しかしぎりぎりのところで持ち堪え、大人たちが囲んでいるものに目を向ける。

「あ……ああ……うわぁ」

 喉から変な声が湧き出てくる。脚の力が一気に抜けて、僕はその場に崩れ落ちてしまった。
 僕は間違いなく見てしまったのだ。ぐちゃぐちゃに肉をえぐられた“それ”を――。

 +++
 
「――イナミくん、どうしたの?」

 ユウナさんに訊ねられても、僕はただ首を横に振るだけだった。
 “あれ”を見てから僕は声を発せられないでいる。水平線に沈み行く夕日をただぼうっと眺め、“あれ”のことを忘れようとしていた。あそこまで衝撃的だと、忘れられないどころか一秒たりとも脳内から離れてくれなかった。

「そろそろ御飯の時間でしょ? 早く帰らなきゃ」
「……うん」

 こんな気分で果たして食事が喉を通るだろうか。

 +++

「――イナミ、食べないの?」

 母さんに訊かれ、僕は小さく頷いた。
 今日の晩御飯は大好きなシチューだというのに、先程から僕はまったく口をつけられないでいた。

「ワッカも、食べないの?」
「……ああ。今日はひでぇもん見ちまったからなぁ……」

 僕と同様、父さんも“あれ”が忘れられないらしい。
 父さんが所属しているブリッツチーム『ビサイド・オーラカ』も今日の練習はオフ。

「明日にでも魔物退治に出ようって話しになったんだ。ルー、お前も手伝ってくれよ。魔法が使えるやつがいるとだいぶ有利だろ?」
「分かったわ」
「僕も行く!」
「お前は駄目だ。いたって邪魔になるのは目に見えている」

 それは事実なので僕は否定せず、しゅん、と項垂うなだれた。
 でももっと鍛えれば今に父さんよりも強くなるだろう。それに父さんはもう歳だ。 口に出すと怒られそうなので、これは心中にしまっておこう。


 翌日、目覚めてみると昨日の衝撃映像の半分以上を忘れていた。もちろん、忘れたかったのでそれはそれでよかった。
 少し重い気分ではあるものの食欲ややる気は存分にあるし、また新鮮な気持ちでこの日を過ごせそうだ。
 父さんと母さんはすでに魔物退治に出かけたらしく、家には僕しかいない。毎朝早くから何かしら話している(そのうちのほとんどが口論)二人の姿がないというのは妙に寂しかった。
 僕はテーブルに置いてあった食パンを食べ、『スピラの歴史』を持って寺院に向かった。




 U.魔の手

 ビサイド村のほとんどの大人たちが、昨日死体が発見された東通路の下段に集まっていた。もちろん、魔物退治のためである。
 しかしながら昼間の魔物の出現率は非常に低いため、先程から雑魚一匹も見つけられないでいた。手がかりとなるものすら一切見つからないという現状、果たして今日中にこの仕事を終わらせることができるのだろうか。
 それにしても、と魔物退治に参加しているワッカは心中で呟いた。
 本来魔物は捕らえた獲物を巣に持ち帰ってからゆっくり食すのだが、昨日の“あれ”は草むらに放置されたままだった。まるで村人たちに己のおぞましさを伝えるかのように――。
 草むらに魔物が住んでいた様子はなかった。では他とは違う習性を持ったものではないかと言うと、全魔物は獲物の扱いに関しては同じ習性を持っているのだと跳ね返された。
 様々な思考を巡らせるがしかし、答えが出てくるわけがなく、間もなくしてワッカは考えることをやめた。

 ――嗚呼、大好きなブリッツができないなんて……。

 心中で毒づいた。
 早いところ終わらせて昨日練習できなかった分を埋めたい。

「お〜い! こんなところに洞窟があったぞー!」

 向こうのほうから事の進展を見せるかもしれない報せが聞こえて、ワッカたちはすぐに駆けつけた。
 草むらの傍に剥き出しになった岩肌、その断面に威風堂々と巨大な横穴が空いていた。中は真っ暗、何処まで穴が続いているのかは定かではない。
 何かいる。そう直感したのはワッカだけではないだろう。大きく開いた口を思わせる洞窟は不穏だったから。

「武器、防具やらを装備しろ。中に入るぞ」

 ワッカを先頭に、皆暗闇の中へと入っていく。
 そのとき、入り口の近くに佇む少女の姿には誰一人として気づかなかった。

 闇、闇、闇……。
 暗黒が支配する洞窟内には、真夏だというのに冬のような冷たい空気と、何処か圧力的な空気が漂っていた。
 そして僅かに蓄積する死臭――。あまり長居していると気分が悪くなりそうだ。

「ルー、魔法で明かりを」
「言われなくても分かってるわ」

 ブツブツ文句を言いながらルールーが『ファイア』を唱え、一瞬にして周囲の様子を窺えるようになった。
 上下左右、何処を見渡しても岩ばかり。入り口の光が俄かに見えるその真逆、漆黒の世界はまだ奥まで続いている。

 ++++++++++++

 ――来タ。人間タチガ来タ。

 “それ”は自分の住処に侵入してきた人間たちの存在を察知した。となれば“それ”がやるべきことはただ一つ。

 ――殺シテヤル……。イヤ、タダ殺スノジャア楽シクナイ。

 人間たちを殺すのはあまりにも簡単すぎてつまらない。だから今回は少しやり方を変えてみよう。もっと恐怖を味わってもらってからでも不味くない・・・・・

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 洞窟は途中、道が二つに分かれていたのでそこからは二班に分かれて進むことになった。
 そのうちの一班、道具屋の男が仕切るこの班は明かりもなしに闇の中を突き進んでいた。ずっと歩いていると、まるで闇の中に吸い込まれていくような気がして、怖い。

 ――……ッ……。

「おい、今何か聞こえなかったか?」
「ああ」

 密かに、だが確かに聞こえた。

『お母さん』

 今度はしっかりと聞き取れた。綺麗で透きとおった少女の声。

『お母さん。あのね、船着場の近くの服屋ですっごく可愛いワンピースを見つけたの。買ってくれない?』

 闇に木霊する少女の声は明るい。しかし何故洞窟の中に少女が? 会話の内容から母親もいるようだし……。しかもここはずいぶんと奥まったところだ。

「誰かいるのかー!!」
『二千十四ギルなの。安いでしょ? だから買って』

 十分聞こえるように叫んだはずなのに、姿なき少女の声は永遠と喋り続けている。

『白いワンピースなの』

 男はすぐに声のするほうへ駆け出した。あとの者もそれに続く。
 何も見えないのは当然のこと、時折つまずきそうになりながら彼らは走る。
 そうして間もなく、彼らの目に小さな白い発光体が飛び込んできた。
 そしてそこに“それ”がいた――。

「うわあああああああああああああああ!!!」

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 耳をつんざくような凄まじい絶叫をワッカたちは聞いた。もう一方の班から上がったものに違いない。今来た道を全力で駆け戻り、二つに分かれた道の片方に突っ込んでいった。
 ルールーの魔法のおかげで闇は光に変えられ、続々と道が開けていく。
 やがて村人たちが倒れている現場へと辿り着いた。

「どうしたんだ!?」

 辺りは呻き声と鮮血の渦中だった。ワッカもまた、村人たちの姿を見て「ひぃ」と情けない声を上げてしまった。
 一人の村人には腕がなく、一人の村人には足がない。更に一人の村人ははらわたを引き裂かれていた。
 おびただしい量の血液が岩肌を黒く染めている。

「おい!! しっかりしろ!!」

 ワッカは瀕死状態の村人の肩を揺すった。――そのとき、近くで大きな影がゆっくりと動いた。恐る恐る左に頭を向けてみる。
 そこにいる“それ”を見て、ワッカは絶望の色を隠さずにはいられなかった。




 V.少女

 見たこのない場所に見たことのない人たち。僕はいつの間にかビサイド島ではないところに来ていて、何故か兵士に捕らわれていた。

『お兄ちゃん! お兄ちゃん!』

 目の前では、白いワンピースをまとった長い黒髪の少女がこちらを見て泣き叫んでいる。

『お兄ちゃん! 助けて!』

 お兄ちゃん? 僕がお兄ちゃん?
 状況を上手く理解できず、首を傾げた刹那――腹部に重い衝撃が走った。恐る恐る痛みのするところを見ると、兵士の剣が僕の腹を貫いていた。刃先は鮮血に濡れ、痛みだけが身体を支配する。
 少女の叫びが段々と遠くなっていく。眼前の景色が猛スピードで回転し始め、突如として暗闇が訪れた。


 ++++++++++++

 「わッ!!」

 僕は声を上げて覚醒した。
 寺院の影の下、相変わらず真夏の凛とした空気が流れているがしかし、陽はすでに沈みかけている。読書をしているうちに眠ってしまったのだろう。それにしても寝すぎたな……。
 今の夢は何だったのだろうか? 泣き叫んでいる少女、そして僕を――夢の中の僕を殺した兵士たち。考えても答えが出てくるわけがなく、僕は考えるのをやめた。
 そういえば父さんと母さんは帰ってきたかな……。とりあえず家に帰るとしよう。
 暗い家の中に人影はなく、何処を見ても朝の風景と何ら変わりない。
 魔物退治にずいぶんと時間がかかっているようだな。父さんと母さんが家を出たのは僕が起きる前のこと。だいたい午前八時ごろだったか、だから二人はそれよりも早く出たことになる。現在は午後六時。ただの魔物退治にしては時間がかかりすぎだ。それほどまでにターゲットが強敵なのか、はたまたそのターゲットが見つからないのか。いずれにしても選択肢が増えるだけで、結果が増えるわけではない。

「――イナミくん」

 突然にして降りかかった声に、僕は一瞬ビクッとしてしまった。振り返ると、入り口のところにユウナさんが立っていた。
 大人の色気、というのだろうか。彼女から僕と同級の女の子にはない美しい魅力を感じる。露出された胸の谷間を見ていると、恥ずかしながら興奮してしまう。

「ルールーたちまだ帰ってきてないんだね」
「あ、ああ、うん……」

 僕は咄嗟に現実に戻った。

「じゃあ、御飯は私のとこで食べよっか」
「うん」

 助かった。この誘いがなかったら決して得意ではない料理をしなければならなかったから。


 ユウナさんの家では、相変わらずチビたち――ユウナさんの子ども――がわいわいやっていた。ティーダさんは今日の魔物退治には参加せず、チビたちの面倒見に追われていたらしい。そのせいか僕を、救世主が現れたと言うような目で見てきた。

「あう、チビたちの子守はごめんだよ。この間なんかナイフ投げられて刺さりそうになったんだから」

 少し大げさに言ってみた。実際はチビたちが投げたナイフを踏みそうになっただけのこと。まったく、子守をしていて怪我をするベビーシッターが何処にいるのやら。そしてベビーシッターに怪我を負わせる子どもが何処にいるのだろう……。このチビたちの子守は他とは違って常に怪我と隣り合わせなのだ。
 ちなみにでっかいほうのチビ(矛盾しているようだが、他になんと言えばいいのか分からないのでそういうことにしておいてほしい)は四歳、小さいほうのチビは二歳である。

「まったく、凶暴性を持っているのは誰に似たんだか」

 僕はわざと聞こえるように呟いた。

「ユウナだろ?」

 まったくもってお門違いの回答をするティーダさん。

「キミに似たんだよ。私はナイフを投げるなんて危険なことしないもん」

 ユウナさんの意見に激しく同意。しかしティーダさんは、

「俺だってそんなことしないさ。ザナルカンドにいた頃なんか『ティーダくんは大人しくて素直でいい子ねぇ』なんて言われてたんスから」
「嘘ばっか。本当は泣き虫で怖がりでひねくれた子だったんだよね」
「昔は昔。今は今ッス」

 この夫婦も口論が絶えないようだが、さすがに魔法が使われるようなことはない。
 僕は夫婦漫才――夫婦喧嘩――を傍目に、チビたちがこんな大人にならないよう、熱心に祈っておいた。




W.黒い影

 少女は闇を見つめていた。
 闇に点在する小さな光、そこに村があり、人がいることは分かっている。

「お兄ちゃん……」

 その村から大切な兄の存在を感じた。ずっと昔に目の前で殺されてしまった兄の存在を、今確かに読み込んでいる。
 今すぐ会いたい。しかし彼女は村に入ることができなかった。寺院から放たれている光の帯のせいだろう。

「そうだ! 想念体を送ろう!」

 想念体とは、強く念じて作ることのできる分身であり、その分身が見た景色を本体に脳を通じて見られるという便利な能力である。しかし想念体は人と会話することができない。

「いいの。ただ見られるだけで満足」

 少女は堅く目を閉じ、念じる。

 +++

夕食を終えた頃には陽は沈み、空では星たちが存在をアピールするかのように光り輝いていた。時折チカチカと点滅する様は、違う星と交信しているかのようである。
 僕は自宅を見て溜息をつく。明かりが灯っていないことから、父さんと母さんはまだ帰ってきていないのだと分かる。もう夜だというのに……。
 力なく歩みを進め、僕は家の中に入った。もちろん待ち受けていたのは心を持たない闇。ランプとマッチを探り出し、火を灯す。一瞬にして視界が開けた――そのとき、僕は背後から視線を感じた。そう、誰かがじっと僕を射るように見つめている。

 駄目だ! 振り向いてはいけない!

 僕の防衛本能がそう呼びかけてくるが、僕は振り向かずにはいられなかった。

「うわあああああああああああ!!!」

 天地がひっくり返るくらいの大声で叫び、僕は思いっきり背面に倒れ込んでしまった。
 振り返った先にいたのは、白いワンピースをまとった長い黒髪の少女だった。生気のない真っ黒な目がこちらを凝視している。

「お兄ちゃん……」

 “お兄ちゃん”という言葉がキーワードになって、僕はあることを思い出した。寺院で眠っているときの夢に出てきたのはこの少女ではなかったか。そして同じように僕を見て「お兄ちゃん」と言わなかったか。
 それを口に出してみようか否かと考えているうちに、少女は空気に溶け込むようにして消えた。残ったのは仄かに光を放つスフィアだけだった。

「イナミくん! どうしたの!!」

 ユウナさんが飛び込んできた。

「今すんごい声聞こえたけど、何かあったの?」
「ん、いや、別に何も……」

 そっか、とユウナさんは呟いて足下のスフィアに視線を転ずる。
 青白く輝くそのスフィアはまるで、見ろ、とでも言っているかのように揺らいでいる。

「このスフィアは……?」
「さぁ……」

 僕は迷わずスフィアを手に取り、スイッチを点けた。

 ++++++++++++

 季節は冬。それなのにビサイド島は春半ば並みに暖かかった。
 小さな波が絶え間なく打ちつける浜辺、そこに白いワンピースをまとった長い黒髪の少女がいた。彼女の名は“クリス”。ザナルカンドに暮らす十歳で、現在は家族旅行でビサイド島に来ているのだ。

「お兄ちゃん!」

 彼女の兄――“ライチ”は浜辺で楽しそうに遊んでいる妹の姿を遠くから眺めている。
 クリスとライチは兄妹として互いが互いを尊重し合い、また、敬愛し合っていた。仲がよいのは当然のこと、互いが共にかけがえのない存在だと信じ、堅い結束で結ばれているのだ。もちろん、両親のことだって大切だと思っている。
 クリスたち一家は間違いなく幸せだった。

 しかし、その幸せは突然にして崩壊することになった。

 ビサイド島に宿泊中のある夜、身元不明の船が数隻上陸してきた。船に収容されていたのはたくさんのエボン兵で、意味もなく無差別に村人や観光客を殺していった。幼い子どもや女性までもに手を出す兵士たち――。その手は当然クリスたちにも迫っていた。

 クリスとライチは山中を逃げ回っていた。宿で別れた両親がどうなったのかは分からない。それよりも今は自分たちの身の安全を確保しなければならない。
小さな逃げ足を負ってくるのは金属同士がぶつかり合う音――兵士だ。いったい自分たちが何をしたというのだろうか? 何の罪があって追われているのだろう? ここに存在するというだけで殺されるのなら、それはあまりにも理不尽である。

「きゃあ!!」

 窮地の中のアクシデント。こんなときにクリスが転んでしまったのだ。差し伸べられた兄の手を慌てて掴む。――いや、その手は兄のものではなかった。
 クリスが恐る恐る振り返る。

「きゃー!!」

 そこにいたのは重々しい防具を身につけた兵士だった。

「お兄ちゃん! 助けて!!」

 兄に救いを求めるがしかし、ライチもクリスと同様、兵士に捕らわれていた。

「お兄ちゃん!!」
「クリス!!」

 半ば悲鳴じみた声で互いを求める。果たしてその行為に何の意味があるのだろう。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

 鈍く重い音とともにライチのけたたましい悲鳴が山中に響き渡った。
 正面に目を向けると、兵士の剣が兄の身体を貫いていた。そしてそこから溢れ出す鮮血……。
 クリスの目から涙が零れ落ちた。

「嘘……やだ! お兄ちゃん!! ――許さない! あなたたちみんな殺してやる! 殺してやる! 絶対に……」

 言い終わるか否か、兵士の剣がまっすぐにクリスへと振り下ろされた。
 彼女が最後に見たのは、血だまりに顔を埋めた兄の姿だった――。

 ――許サナイ。絶対ニ殺シテヤル。


 ++++++++++++

 幸せな一家、そして不幸に陥ってしまった一家、死に別れた兄妹。スフィアが映していたのは少女を中心とする、とある一家の悲劇だった。そして先程ここに現れた少女は紛れもなく悲劇のヒロイン、クリスだ。

「ザナルカンドに住んでたってことは、千年以上も前のことだね」

 と、ユウナさん。

「でもどうしてこんなスフィアが?」
「分からない」

 僕は映像が流れなくなったスフィアのスイッチを切ろうとする。が、突如としてまた映像が流れ出した。

 画質は悪いが、映っているのが先日村人の死体が発見された場所だと判断できた。そして時代が現代だということも判断できる。何故なら、父さんの姿があったから。老け具合がいつも見る感じと同じだから。隅っこには母さんもいる。
 父さんは魔物退治の説明をしているようで、それがあんまりにも下手なものだから、現実味を大いに感じる。
 説明が終わると、皆はばらばらに散って、魔物の捜索を開始したようだ。

 約十分が経過して、村人の一人が洞窟を発見。皆そこに集合する。
 そういえばこのスフィアは誰が撮っているのだろうか? 今更ながらそんな疑問が湧いてきた。

「ねぇ! これ!」

 と、ユウナさんが指差しているのは、洞窟の傍。そこに白いワンピースをまとった黒髪の少女――クリスが佇んでいた。見開かれた漆黒の目はまっすぐにこちらを見つめており、薄気味悪い。
 父さんたちはクリスの存在に気づかぬまま、洞窟の中へと入っていった。クリスは変わらずこちらを見つめており、不適に笑んだ。何がおかしくて、何が面白くて笑んだのだろう。
 笑みを止めたクリスはみんなに続いて洞窟の中へと入っていく。『みんな殺してあげる』という呪いの言葉を吐き捨てて。
 そのとき僕は今まで解けなかった複雑なクロスワードが一瞬にして解けたような気分になった。
 怨みや妬みを持って死んだ人間は魔物になってしまう。クリスは強い怨みの念を持って死んだのだから、当然魔物になっただろう。そして彼女が死んだのはこのビサイド島。つまりは魔物になった彼女はこの島に生息していることになる。村人が一人殺された。

 彼女は魔物。

 みんなと一緒に洞窟へ。

 みんなは戻って来ない。

 僕は胸を突かれたような思いがした。
 クリスだ。みんなが帰ってこない原因はすべてクリスにある。少女の姿をしていたのは確かだが、魔物であることも確かだ。そして魔物――クリスも洞窟の中へ。そうだと分かった限り、あの洞窟に行くこと他ならない。父さんと母さん、それにみんなが危ない。もしかしたらもう……。

「早く行こう!」

 と、状況を理解したらしいユウナさんが立ち上がる。武器を取りに行くと言って家を出た。僕もベッドの下に置いてあるフラタニティ取り、忙しなく家を飛び出した。
 脳内は一抹の不安に支配され、足を先へ先へと踏み出していく。
 村の出口でユウナさん、ティーダさんと合流。――チビたちは隣の家に預けてきたらしい。
 ユウナさんは意外にも足が速く、先頭を駆けている。続いてティーダさん、僕。暗い夜道を全力疾走した。




 X.少女の怨み

 東通路の下段、一度しか足を運んだことがないにも関わらず、何故かもう何度も来たような感覚がある。
 スフィアに映っていたとおり、剥き出しの岩肌に身の丈の三倍はあろう高さの洞窟が、大口を開けて待ち構えていた。僕たちは躊躇することなく中へ入っていく。
 中には外よりも濃い闇が広がっており、視界は最悪。このまま突き進むのは危険極まりないと分かっているが、足を止めることはできない。
 ごつごつした岩肌につまずきそうになりながら、歩く。この圧力的な空気が漂っている世界を走ることは自然、できなかった。
 ――ふと、急にあたりの景色が窺えるようになった。ユウナさんが、持ってきたランプに火を灯したのだ。オレンジ色に輝く灯火を頼りに、僕たちは前進する。

「父さーん! 母さーん!」

 僕の声が洞内にこだました。返ってくるのは自分の声ばかりで、他に何の変化もない。

 ――……。

 何か聞こえた。僅かではあるが確かに、人の囁きに似たものが、正体不明の闇の中から聞こえた。

『お母さん』

 ――クリス。僕の毛頭に突如として浮かび上がったのは、あの少女の名前だった。闇から聞こえてきたのはクリスの声だ。僕は何故かそう確信している。

「クリスちゃん!」

 僕の腹の底から自然とクリスを呼ぶ声が出る。

『お兄ちゃん!?』

 彼女の驚いたような声が返ってきた。

「クリスちゃん! いるんだね! すぐ行くから待っててくれ!」
『うん』

 僕の心中は半ば狂っていた。クリスは赤の他人のはずなのに、何故か自分の妹のような気がして堪らない。僕の心に僕以外の誰かの心が入ってきているのではないだろうか。


 闇に点在する青白い光、そこに白いワンピースをまとった黒髪の少女――クリスがいた。肌は恐ろしく白く、大きな眼球は心を持たぬ闇に染まっている。

『お兄ちゃん?』

 クリスの問いに僕は小さく頷いた。

『やっと逢えたね。ずっとずっと捜してたんだよ』
「ごめん」

 僕は一歩一歩、クリスに近づいていく。彼女には僕が彼女の兄ライチに見えるのだろうか?
 顔を覆って泣いているクリスを、僕は抱きしめてあげようと腕を伸ばした。――刹那、見えない力によって僕は後方に大きく吹っ飛ばされてしまった。その身体をティーダさんがキャッチ。僕は何が起きたのか分からず、クリスを見る。
 クリスは泣いてなどいなかった。笑いを堪えていたのだ。それももう限界にきたらしく、豪快に笑い始めた。

『あなたがお兄ちゃん? 笑わせないでよ』

 言葉に棘がある。

『お父さんもお母さんもいるくせに! 私とお兄ちゃんは両親を亡くしたのよ! それなのに幸せいっぱいのあなたがお兄ちゃんのフリをするなんて、ふざけたことはやめて!』
「ふざけてるのはどっちだよ! 漁師のおっちゃんを殺して、みんなをここに連れ込んで……父さんと母さんを返せ!」
『もう手遅れかもね』
「くそー!!」

 僕の感情はヒートし、気づけばフラタニティを持ってクリスに突進しようとしていた。だがしかし、振り下ろされた剣は虚空を斬っただけ。クリスはいつの間にか奥のほうへ移動していた。

『いきなりなんてひどいじゃない。分かったわ、あなたがその気なら私だって力を出してあげる』

 そう呟いた刹那、クリスの華奢きゃしゃな身体から触手のようなものが飛び出してきた。そして彼女の身体自体が徐々に変化していく。ぐしゃ、とあまりよろしくない音を立てて黒い肉の塊が出てきたり、足の骨が剥き出しになったりと、とてもおぞましい光景が眼前で展開している。
 これはもうクリスなどではない。憎しみと怨みで形成された魔物だ。

『殺シテアゲル』

 手と思われるものが僕に振り下ろされようとしていた。咄嗟に横に飛んで避ける。攻撃スピードが遅いおかげで回避には何の造作もないのだが、威力は凄まじい。直撃した岩肌は豪快に砕け散った。
 と、ここで銃声。音源を探ろうと辺りを見回す。
ユウナさんだ。両手に一丁ずつ銃を持ち、連射している。

「戦うのって何年ぶりだろう」

 暢気にそんなことを言っている。そういえばユウナさんが戦っている姿は初めて見るな……。
 ティーダさんも攻撃を開始した。“アルテマウェポン”と呼ばれる剣を突き立てて走り、ある程度間合いを詰めると高く跳躍。落下の勢いを利用して剣を振り下ろす。――ダメージは大きいようだ。
 僕も負けまいと攻撃を始めた。大ダメージを負わせられるような攻撃はできないが、スピードのある連続斬りで徐々に相手の体力を奪っていく。

「うわぁぁぁ!!」
「のわっ!」

 いつもこちらが優勢だとは限らない。“それ”が何かしらの魔法を使い、僕とティーダさんは吹っ飛ばされてしまった。

「大丈夫!?」

 これが大丈夫に見えるかい、ユウナさん?
 と、次の瞬間、“それ”の手が飛ばされた僕たちに気を取られているユウナさんを叩き飛ばしやがった。

「いった〜い! もう許さないんだから!」

 本当に叩き飛ばされたのか、と訊きたくなるほどユウナさんはぴんぴんとしていた。
 休んでいる暇などない。今は一刻も早く眼前の敵を滅し、父さんと母さん、それからみんなの無事を確かめなければ――。
 僕はフラタニティを持ち直し、再び攻撃に移った。
 一太刀一太刀、例え弱くったって少しでもダメージを与えることができればいい。永遠と繰り返していれば相手はきっと――いや、その前に僕たちの身が滅びるに違いない。こんなことになるんだったらもっと鍛えておけばよかった。

『死ネバイイノニ』

 “それ”は呪いの言葉を発している。その機械的な声が不気味で堪らない。

「おりゃあ!!」

 ティーダさんの強力な一撃が炸裂。だがしかし、次の瞬間には“それ”の平手打ちが直撃してぶっ飛ばされてしまった、その様はまるで不機嫌な子どもに投げられたおもちゃのよう。

『死ネ市ネ氏ネ視ネ士ネ師ネ』

 狂ったように呪いの言葉を吐き捨て、“それ”の「フレア」が炸裂した。
 フレアといえば超強力な爆発魔法。こんな近距離で放たれれば無事で済むわけがない。案の定、僕たち三人はスピラが崩壊したのではないかというくらいの衝撃をもろに浴びてしまった。
 三人とも瀕死状態。身体のあちこちがひどく痛み、頭部を岩肌に強打してしまったせいでひどい目眩に襲われた。

「イナミ……くん」

 ユウナさんが苦し紛れに僕を呼ぶ。

「これを……“キューソネコカミ”を使って」

 僕の目の前に飛んできたのは、猫の前足を連想させる小さなイヤリングだった。これこそが古代より伝わる装備品“キューソネコカミ”である、瀕死状態のときに真の力を発揮させるという伝説のイヤリング。しかし何故ユウナさんがこれを……まあいいか。僕はそれを耳につけ、フラタニティの柄を握り締める。もう使い物にならないと思っていた足だが、意外とすんなりと立ち上がれた。

 そして僕は“それ”に向かって走り出す。

 “それ”は僕が走ってきていることに気づいた。

僕は走る。

 “それ”の平手打ち。

 ぎりぎりのところでかわし、勢いに乗って高く跳躍する。

 キューソネコカミを装備しているおかげで、攻撃が掠っただけでも大ダメージを負わせられるはずだ。

 だから連続斬りでも十分にダメージを与えられる。

 よし、やろう。

 僕は躊躇することなくフラタニティを振り下ろした。何回も、何回も、数が分からなくなるくらいに……。そして最後の一撃と言わんばかりの強力な一太刀を浴びせた。――刹那、激しい光が発生し、同時に凄まじい衝撃波が洞内を駆けずり回った。視覚と聴覚が狂い掛ける。
 数十秒後、静寂に包まれた洞内。ランプの小さな灯火が頼りなく照らす一角、白いワンピースをまとった長い黒髪の少女が佇んでいた。




 Y.兄妹の絆

『――どうして……どうしてなの! どうして私だけがこんな寂しい思いしなきゃいけないの! ずっと独りきりだなんてもうたくさん!』

 クリスが泣きながら言葉を漏らした。――そのとき、僕とクリスとの間に幾匹の幻光虫が出現した。それは人の形を成し、少年へと変貌を遂げる。

「ライチ」
『お兄ちゃん!』

 茶色がかった髪の毛に端整な顔立ち。黒い瞳は兄妹共通。間違いなくそれはクリスの兄、ライチだ。

『クリス、もういいだろ? 私事で関係ない人を殺したりするのはよくない』

ライチの声色は優しい。

『ずっと見てたよ、クリスのこと。千年間ここで眠って、今になって目覚めて、あの事件と無関係な人たちを殺した。あげくの果てには何人もの村人をここに引き込み、この人たちまでを殺そうとした。クリスだけが不幸で他に人たちが幸せなのが許せない? そっちのほうがよっぽど理不尽だ。クリスだって死ぬ前は幸せだっただろう? もちろん、僕も父さんや母さんに囲まれて幸せだった。それと同じように今生きてる人たちは幸せなんだよ。その幸せが突然にして不幸に変わる気持ち、クリスには分かるはずだ。だから一緒に逝こう。父さんと母さんのところへ。二人とも待ってるよ』
『……うん』

 クリスとライチは、これまで離れ離れになっていた分を埋め尽くすかのように、抱きしめ合ったそして僕のほうに向き、

『イナミくんだっけ? いろいろと迷惑をかけてごめんね。村の人たちじゃ全員無事だよ。怪我をしている人たちには僕が白魔法をかけておいたから。それから、ありがとう。僕がここに現れることができたのは君と共鳴したからなんだ。――じゃあ、僕たちは自分たちの場所に帰るね』

 兄妹は抱きしめあったまま、ゆっくりと消えていく。幻光虫が続々と空へと舞い上がっていき、二人は両親の元へと帰っていくのだった。




 Z.Heart

 翌日、僕は怪我と頭痛のため学校を欠席。自室の寝台に横になっていた。
 まだ身体のあちこちが痛い。岩肌に激突しれば怪我をするのは当然。骨折しなかったのが幸いだ。

「――調子はどう?」

 オレンジジュースを持った母が部屋の入り口のところに立っていた。

「これがよさそうに見える?」
「到底見えないわねぇ」

 僕は痛む身体を無理やり起こし、母さんが持ってきてくれたオレンジジュースに手を伸ばす。

「そういえばあんたに言わなきゃいけないことがあるのよね」
「何?」

 母さんが珍しく困ったような顔をしている。言おうか言うまいか吟味している、と言ったところだろう。

「実はね――が」
「え?」
「お腹の中に子どもがいるの!!」

 今のは聞き間違いかな。お腹の中に子どもがいると言ったように聞こえたが……。

「男か女か分からないけど」

 嗚呼、聞き間違いではないらしい。

「あんたに弟か妹ができるのは確かよ」

 僕は驚くより先に嬉しさで胸がいっぱいになった。ずっと前から弟か妹がほしいな、と思っていたし、何より家族が一人増えるということが凄く嬉しい。
 どちらかというと弟がほしいな、と思う。一緒にブリッツだってできるし――それは妹でもできることか。
 まあ、結果的にはどちらでも構わない。どちらにしても、僕はその子を大切にするから。

 兄として、そして家族として、その生まれてくるかけがえのない命を見守っていこう。


END


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